『資料』 訳者解題

 ここに「資料」として収められたSI中央評議会の名による1963年2月21日付けのビラ「歴史の屑かごへ!」は、SIのドゥボールコターニィヴァネーゲムが共同で書いたパリ・コミューンについてのテーゼを、アンリ・ルフェーヴルが「盗用」したことを激しく糾弾するために出されたものである。すなわち、「1962年3月18日」の日付(プロイセン軍に包囲されたパリで政府軍の大砲奪取に抗議して民衆が蜂起し、政府軍はヴェルサイユに逃亡してパリ・コミューンが勃発した 「3月28日事件」の記念日)のあるドゥボールらの「コミューンについて」と題されたテーゼを、ルフェーヴルが、パリ・コミューンを「祝祭」と捉えるその内容から表現にいたるまでほとんどそっくりそのまま、あたかも自分の独自の文章であるかのようにして「1962年第3‐第4・四半期」──すなわち1962年後半発行の『アルギュマン』誌 終刊号 (第27 ‐28合併号)に「コミューンの意義」というタイトルの論文の中に用いたことを断罪するために、SIは自分たちの文章の全体とルフェーヴルの文章の該当部分をコピーして左右に並べて印刷し、いかにルフェーヴルの「盗用」が破廉恥であるかを暴露したのである。
 ルフェーヴルはこの「盗用」の指摘に何ら答えず、あろうことか、この「コミューンの意義」のテクストをそのまま用いて──『アルギュマン』誌での発表の際に「注」の中で予告していたように──ガリマール書店から1965年に出版した『コミューンの宣言』(邦訳『パリ・コミューン河野健二・柴田朝子訳、岩波書店、1967年)の結論部に「コミューンの重要性と意義」として収めた。SIはこの時にも、「歴史家ルフェーヴ ル」(『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第10号、邦訳、本書第5巻218頁)という文章を発表し、この「盗用」の徹底的な批判を行い、さらに、ルフェーヴルがこの本の他の部分──第1部 第2章(邦訳 42‐43頁)──でも、今度は「アンテルナシオナル・シチュアシオニ スト」誌 第7号の文章──過去の革命運動の「失敗」とされた事例こそ 「将来に開かれた勝利」であるということを再度、模倣した文章を書 いていることを暴露した。また同時に、ルフェーヴルがパリ・コミューンの細部について書いている他の内容も、1960年前後に左翼系の小出版社から多数出版されたパリ・コミューンの実証的研究や資料集を寄せ集めただけのものであることを証明し、マスコミから絶賛されたルフェーヴル のコミューン解釈がいかに「独創性」のないものかを明らかにした。 1969年というこの年に、SIが三度、ルフェーヴルのこの「盗用」を暴露する文書を発表したのは、「再刊の理由」にはっきりと述べられているように、ルフェーヴルのこの本が1968年5月革命の一つの重要な 思想的源泉であったと、この時期、多くの者が主張し始めたからにほかならない。SIのこの文章に付け加えることは何もないが、この「盗用」事件の発端である、SIの「コミューンについて」というテーゼがいかにして生まれたか、またルフェーヴルとSIとの関係がいかなるものであったのかについて、ルフェーヴル自身が後にインタヴューの中で語っていることを記しておこう。
 1997年冬に米国の芸術・政治理論誌「オクトーバー」誌 第79号 (October, No.79, 1997, MIT Press)の「ギー・ドゥボールとシチュアシオ ニスト・インターナショナル特別号」に発表されたインタヴュー(インタヴュアーはランボーの社会批評的研究書などもある批評家クリスティン・ ロスで、インタヴューが行われたのは1983年、カリフォルニア大学サンタ・クルス校にフレデリック・ジェイムソンの招きでルフェーヴルが客員教授として訪れていた時のことである)の中で、ルフェーヴルは、1957年から61、2年頃までの約5年間にわたってシチュアシオニストと個人的な関係を持っていたことを明かし、その関係が「ひどい結末を見た一つのラヴ・ストーリー」だったと懐旧的な言葉を発することから始めている。ルフェーヴルは、ソ連共産党第20回大会のフルシチョフ報告によってスターリン批判が開始されるとともにハンガリーの民衆蜂起をソ連軍が圧殺した1956年という、戦後史の中でも政治的にきわめて重要な転換点にあたる年の直後にドゥボールに出会ったが、この時期はまた、世界的に新しいタイプの革命運動──カストロキューバ革命の運動はその一例──が党の外部に出現し始めたころで、そうした文脈から見れば、シチュアシオニストの運動も少しも孤立したものではなかったと述べている。 SIは、そのメンバーの一人、コンスタントがそれ以前、1948年から51年までSIの一つの「前身」である前衛芸術運動〈コブラ〉の中でルフェーヴルの1947年の著作『日常生活批判』に影響された建築理論を展開し、ルフェーヴルはその点においてもシチュアシオニストの発想とは 古くからの関係があったが、1957年に、カストロの運動を共産党外部の新しい革命運動潮流との関係において讃える「革命的ロマン主義」というテクストを発表し、このことが直接の契機となって結成直後のSIとの 関係が始まった。それはちょうど、ルフェーヴルがフランス共産党を離党するとともに、アルジェリア戦争反対運動に自らも関わるなか、「混乱した状態」の中で新しい方向を模索していた頃でもあった。そうした時期に、 彼は、1947年の『日常生活批判』を深化させて、戦後消費社会の日常生活の疎外状況に見合ったものとして新たな「日常生活批判」を書くこと(これは1958年になって、47年の『日常生活批判』を『日常生活批判序説』と名を変えた再刊と新たな長い序文、1961年の『日常生活批判 第2巻──日常性の社会学の基礎』として実現した)と、パリ・コミューンについての本を書くことを構想し、シチュアシオニストらと議論を重ねたと言うのである。
 ルフェーヴルの思い出によると、ドゥボールシチュアシオニスト数名とルフェーヴルは、ルフェーヴルの運転する車でパリを発ち、途中、まだ 閉鎖される前のラスコーの洞窟を見学したりしながら、ルフェーヴルがピレネー山中の村ナヴァランに所有していた別荘に行き、そこで数日間、食事の代わりに酒だけを飲んで、夜を徹して議論し、パリ・コミューンに関 するテクストが出来上がったらしい。ルフェーヴルはこう述べている──「彼らは私のところに数日間滞在し、いっしょに仕事をして、私たちは一つの綱領的(プログラマティック)テクストを書いたのです。週の終わりを、彼らはナヴァランで過ごし、そのテクストは自分たちで持っていました。私は彼らに「それをタイプしてくれ」(それは手書きだったからです)と言いました。すると彼らは後に私を剽窃だと言って非難したのです。実際はこれは完全に信義にもとる行為でした。パリ・コミューンについての本を書くのに使用したテクストは、彼らと私とによる共同のテクストで、そのパリ・コミューンの本のほんの一部分だけが、その共同のテクストからのものだったの です」(『オクトーバー』誌、77-78頁)。
 82歳になってからのルフェーヴルのこの自己弁明は、しかしながら、 彼がその21年前にその「共同のテクスト」なるものを用いた文章──それは「ほんの一部分」ではない──を『アルギュマン』誌に発表した時にも、18年前に「コミューンの宣言」の中にそのままの形で入れて出版した際にも、そのことについては何一つ言わなかったルフェーヴルの態度を思うと欺瞞的にしか聞こえない。正確には、ルフェーヴルはドゥボールについて何も言わなかったのではない。『コミューンの宣言』の冒頭に掲た「序文」の末尾のただ一つの注のなかで、彼は「著者はまた、本書作成のあいだ、有益で親切な対話を通じて友情で著者を支えられたミシェル・ ベルンシュタイン夫人、およびギー・ドゥビュー (Guy Debut)氏にもひとしく感謝しなければならない」と書いている。だが、ギー・ドゥボール (Guy Debord)の名を故意にか偶然にか間違えたうえ、ドゥボールの妻で あったミシェル・ベルンシュタインの名を先に挙げることで、彼女が誰の 「夫人」か判らなくし、さらに、「共同のテクスト」の他の2人の執筆者アッティラコターニィとラウル・ヴァネーゲムの名を消し去ることによって、その「共同」性を、単なる個人の「親切」な「友情」に切り縮め、シチュアシオニスト・インターナショナルを隠したのである。SIと決裂する以前のルフェーヴルが、その著書 『総和と余剰』(1959年)、『現代 への序説』(1962年)などのなかで、たびたびSIに言及していたことを知る者にとっては、ルフェーヴルのこの態度は、まさしくSIの隠蔽 以外の何ものでもないと言えるだろう。
 いずれにせよ、ここに併置されたSIのテクストとルフェーヴルのテクストを比べてみるならば、後者は前者の理論的一貫性を歪め、その内容を薄めたものであることは明らかで、その点においてルフェーヴルがSIの発想の「一部分」だけを自分の中に取り込んだということだけは確かである。