評議会と評議会主義組織に関する前提 訳者解題

 パリ大学ナンテール分校の〈怒れる者たち(アンラジェ)〉として68年5月革命の端緒を作り、5月革命の最中にはソルボンヌ占拠委員会の中心人物として活動し、その後、SIに加入したルネ・リーゼルの筆になるこのテキストは、SIが60年代初頭から唱えてきた「評議会」の具体的内容を知るうえでも、その「評議会」を実現するための革命組織としての「評議会主義組織」についてのSIの考えを知るうえでも、きわめて重要なテキストである。
 SIがその機関誌『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌の中で「評議会」に初めて言及したのは、1961年8月発行の第6号の論文「武装のための教育」の中でである「ヨーロッパの労働運動のさまざまな少数勢力の間では、近年、再編成の傾向が顕著だが、ここで考慮に値するのは、まず何より、今日、〈労働者評議会〉の合い言葉を掲げて結集 している、最もラディカルな潮流だけである」。このような言葉によって、SIは、マルクス主義からトロツキズム、マオイズム、アナキズムまでの 同時代のさまざまな運動のうち、唯一、「労働者評議会」を唱える潮流だけを「考慮」に値する運動として評価するが、こうした具体的な革命運動への積極的評価は、それまでのSIに見られなかったものである。この背景には、1960年から62年にかけてのSIの「方針転換」がある。つまり、この時期、SIは「日常生活の革命的批判」を合言葉に、現代の「スペクタクルの社会」における日常生活批判を強化し、それまでの文化・芸術批判から政治・社会批判へとその理論的・実践的活動の領域を拡大させ、そのために、世界各地の革命運動への注目と、それらを担う先鋭的な組織との連携を強めていった。また、それと平行して、ベルギーのラウル・ヴァネーゲムハンガリーアッティラコターニィなどの若い世代をメンバーに迎え入れ、〈シュプール〉派やナッシュ主義者らの「芸術」至上主義者との路線闘争に勝利し、彼らを除名して、新しい社会・政治批判を担いうる集団としてのSIの組織統一を果たしてゆくのである。この組織統一は、SIの組織再編(国別のフラクションの連合体から、単一の世界組織へ)、分離した形式としての「芸術作品」の否認、外部の革命潮流との関係、SIの運動の非合法性と実験性の確認として、60年9月の ロンドンでのSI第4回大会、61年8月のイェーテボリでのSI第5回大会、62年11月のアントワープでのSI第6回大会のなかで実現されてゆく(この間の事情については、本書 第2巻 152頁の「ロンドンでの SI第4回大会」、第3巻 159頁の「イェーテボリでのSI第5回大会」の各文章と訳者解題、第4巻 12頁の「自然の支配、イデオロギーと階級」 の訳者解題を参照)。
 こうしたSIの「政治化」の1つの指標が「評議会」という語と概念の使用であり、「評議会」への言及や考察は、これ以降、SIの機関誌にかなり頻繁に現れることになる。例えば、「アンテルナシオナル・シチュア シオニスト」誌 第7号(62年4月)の論説「悪しき日々は終わるだろう」 では、体制に完全に組み込まれた労働組合主義の「政治」を転覆するものとしての「労働者評議会」が讃えられ、第8号(63年1月)の論文 「王さまのすべての家来(オール・ザ・キングズ・メン)」では、権力にコントロールされ、権力の力の源泉ともなっている一方通行の「コミュニケーション」あるいは「情報」を転覆するために、権力のコミュニケーション網に頼らない「直接的なコミュニケーション」をあらゆる場所で開始し、「コミュニケーションの評議会」を形成する必要性が唱えられる。また、第10号(66年3月)の論文「対話のイデオロギー」では、運動の中で弟子や信奉者を無自覚に受け入れることによってSI自体が何らかの権力になることを現在も将来も拒否するという意味で、SIは「あらゆる国家権力やさらには分離した『理論的』権力すらも廃絶する労働者評議会によるラディカルな自主管理の信奉者である」と明確にその立場を表明し、さらには、同じ号の論文「スペインの労働者評議会の綱領に関する論考」では、フランコ政権下で最も正確な現状認識と先進的な運動論を提起していた「アクシオン・コムニスタ」 の革命綱領に関して、そこに掲げられた「労働者評議会」の不十分性を批判し、SI自身の考える「労働者評議会の権力」の絶対性と、「生産と生産関係」だけでなく「生」のすべての条件の変革を求めるその全体的な内容について積極的にこう述べる──「労働者評議会の権力は既存の「生き延び」〔=余りの生〕の絶対的な敵である。したがって、この権力にとっても、生存のあらゆる条件の完全な変革、生の即座の解放への賭けに出て、 その賭けに勝つ以外には長く生き延びる道はない。この権力はただちに生産と生産関係の根本的な変革を実行し、商品を廃絶し、人々の欲求を変化させなければならない。またそれは、空間の整備を変化させ、教育を変化させ、司法の行使と犯罪の定義そのものを変化させなければならない。 位階秩序(ヒエラルキー)とともにその道徳や宗教を一掃しなければならない」。そして、 第12号(67年10月)の「革命組織に関する最小限の定義」(この定義 は66年7月にパリで開催されたSI第7回大会で採択された)にいたっては、「革命組織の唯一の目的は、社会の新たな分割を惹きおこさないような方法によって、既存の諸階級を廃棄することにあるということを考慮して、われわれは、〈労働者評議会〉の絶対権力──今世紀のさまざまなプロレタリア革命の経験によって素描された権力を国際的な規模で実現することを首尾一貫して追求しているいかなる組織をも革命組織と形容する」と、現代の「革命組織」の最小限の資格として、「〈労働者評議会〉の絶対権力」を追求するものであることを要求する。そうした組織は「大衆による既存の世界の自主管理ではなく、この世界の不断の変革」、 「根源的(ラディカル)な経済学批判、商品と賃金制(サラリア)の乗り越え」をめざさねばならず、 また、その組織そのものの内部でも「全体的な民主主義」と同時にメンバー全員による「批判の一貫性」を実現し、「革命イデオロギー」を払拭して、いかなる意味でも「スペクタクル」化され「分離された権力」となることを拒否し、革命のプロジェクトの勝利のなかで最終的には「分離した組織としての自己自身」すらも「終焉」させなければならないと最大限の原則を主張するのである。 
 SIは5月革命の開始と同時に、ただちにソルボンヌ大学の占拠に参加し、ルネ・リーゼルらのグループとともに〈怒れる者たち(アンラジェ)〉 -SI委員会を結成、リーゼル自身はソルボンヌの最初の「占拠委員会」の中心メンバーになって、占拠実行者間の直接民主主義の実現、総会権力の維持、学生運動から工場占拠への運動の拡大、新左翼諸党派による運動の引き回しや組合による運動の回収の試みに対する警戒の呼びかけなど、「評議会権力」の具体的な実現と維持のために全力を傾けた。また、SIのこうした主張が占拠参加者のサボタージュや一貫性の欠如によって受け入れられず、総会が機能しなくなるや、SIと〈怒れる者たち(アンラジェ)〉は、他の評議会権力信奉者たちとともに〈占拠維持評議会〉を結成して、ソルボンヌの外に出て、 フランス全土での工場占拠、労働者評議会の結成、ラディカルな自主管理の貫徹を呼びかけるさまざまな行動を起こしていった。こうした活動の基礎にあったものが、まさに「革命組織に関する最小限の定義」に至る理論的・実践的活動の中でSIが育んできた「評議会」権力の形式と内容、そして、その権力を一貫して実現し維持する組織としての「革命組織」の原則である。
 SIの主張する「評議会」は、第一に、その「評議会」の内容そのものにおいて、第二に、そうした「評議会」の実現の過程で「評議会主義組織」が果たすべき役割において、きわめて独自のものである。第一の点に関しては、先に引用した部分からも、ルネ・リーゼルのこの論文の最初の部分からも、かなり明確に浮かび上がってくる。すなわち、SIの言う「評議会」は、単に生産と生産関係、政治的システムだけではなく、人々の社会的関係と日常生活のあらゆる細部にまで関わり、商品の廃絶、人間の欲望の改変、空間の整備、教育、司法、犯罪の定義、コミュニケーション、文化など、あらゆる人間活動の変化と変革を射程に入れた全体的な「生」の 解放をめざすものであり、そのために一切の代理性を排して徹底した直接民主主義を貫徹することである。つまり、過去の評議会組織に見られたような、「下部の総会」とそこで選ばれる代表者から成る「評議会」という位階秩序的で代理的な構造を乗り越え、「総会」を「評議会そのもの」とし、そこに絶対的な権力を持たせることをSIは提案するのである。第二の点については、労働者によるこうした「評議会」の実現のプロセスにおいて、SIは、その実現を意識的に追求する「組織」の必要性をあくまでも主張する。だが、この「評議会主義組織」はプロレタリアートから分離した外部の権力として、「評議会」を指導するような「党」でなく、その任務は、「評議会」の出現以前には「全労働者が下部から組織され 〔……〕 総会を結成するように行動」し、「評議会」の出現以降は、その「評議会」の権力を防衛し、内部からの質的変質や「党」や「組合」などの外部権力からの掌握の試みと闘うことにあるのである。
 SIがこの時期に、こうした「評議会」と「評議会主義組織」の「定義」を明確化した背景には、68年5月革命以降のまったく新しい情勢の中で、 SIが5月革命のなかで主張し、実践しようとした「評議会」への注目が 増大し、その影響を受けて──あるいはそれとは無関係に──「評議会」を唱える組織が次々と現れて、さまざまな「評議会」潮流が、「評議会」という同じ用語の下に、それぞれ異なる内容を主張し始めたという事情がある。リシャール・ゴンバン(『極左主義(ゴーシスム)の起源』Richard Gombin, Les Origines du gauchisme, Seull, 1971) によると、60年代に「評議会」を唱えていたグループには、60年代初頭の〈社会主義か野蛮か〉に始まり、その分派である、〈労働者権力(プーヴォワール・ウーヴリス)〉と〈労働者情報通信〉、アナキストの〈黒と赤〉、アナキストシュルレアリストの〈フロン・ノワール〉、あるいは 68年5月以降の〈評議会主義者インターナショナル〉、〈評議会主義革命機関〉、〈評議会共産主義〉など数多くあった。ゴンバンは、これらのグル ープの中で、SIの主張する「評議会主義組織」は、「組織」の重視の度合いという基準で測れば、「中間的立場」にあると指摘している。すなわち、「評議会」潮流の中には、評議会革命の実現の過程において、意識的な労働者と知識人からなる前衛組織(極端な場合には「党」)の存在を認めるという「組織主義的な極」(その代表は、労働者権力〉派)と、評議会の実現はあくまでも労働者の主体的事業であるとの理由から、いかなる前衛組織も認めないという「自然発生主義の極」(その代表は〈労働者情報通信〉派)の両極の間でさまざまなニュアンスを持つ立場があり、SIの「評議会主義」組織論はそのちょうど中間に位置すると言うのである。 ゴンバンによると、1963年に〈社会主義か野蛮か〉の創始者カストリアディスらの現代資本主義に対応する新方針を批判して誕生した〈労働者権力〉派(フランソワ・リオタール、アルベルト・ヴェガら)は、「労働者評議会」の実現を目的とした革命組織の性格として、結局のところ古典的な党のスタイルの前衛組織を想定し、革命運動の方針、調整、闘争の機関として党が不可欠であることを強調する。また、この組織のあり方としては「中央集権的」であり、運動戦術としてはトロツキストに伝統的な 「加入戦術」を採用し、やがて、きわめてレーニン主義的な前衛党信奉者 となっていった。一方、これもまた〈社会主義か野蛮か〉の前衛党主義を批判して1958年に離反したクロード・ルフォールやアンリ・シモンら のグループが60年になって結成した〈労働者情報通信〉派の方は、「労働者の解放は労働者自身から生まれる」という合言葉で、いかなる前衛組織も否定して、ただ単に現代の労働者が置かれている新しい疎外状況 ──消費における疎外、賃労働・位階制・管理主義、組合の体制内化など ──を批判する「情報」を伝達することで各職場の労働者間の結合を促すことに徹し、唯一の積極的な闘争と言えるものとしては、職場内で、経営者が労働者の同意なしにはいかなる決定も行わないよう、労働者たちに個人の資格で訴えることだけであった。また、〈労働者情報通信〉と近い立場の〈フロン・ノワール〉なども、革命の問題は徹頭徹尾プロレタリアートの「革命意志」だけの問題であり、その「革命意志」 は伝達不可能であるという極端な「倫理主義」を主張し、結局のところ、自らは純粋な「観客」的立場に入り込んでしまったのである。 
 こうした2つの「極」はそれぞれ、ゴンバンが指摘するまでもなく、S I自身がまさに「評議会主義イデオロギー──「旧世界の [……] 最後のイデオロギー形態」──として批判してきたものであり、SIにとっては、社会学者ゴンパンのように単に「評議会主義」の一変種として分類できるものではない。SIの「中間的立場」もまた、他と比較対照しうる 1つの「立場」ではなく、SIが自らの理論的実践的活動の中から生み出 した、前衛党神話の陥穽も自然発生主義の陥穽も逃れる唯一の立場であった。このことは、例えば、66年11月の「ストラスブールのスキャンダル」から68年の「5月革命」に至る過程においてSIが執った方法を見れば明らかだろう。そこにおいて、SIは、いかなる意味でも指導する 「党」として行動したのではなく、「自然発生性」を「組織」するという、 きわめて困難ではあるが「評議会」権力のためには最初から不可欠な任務を自らに課して行動したのである。リーゼルがこの論文を「〈評議会〉の 勝利は、革命の終わりにではなく、その始まりに置かれているのである」 と締めくくるのは、このことを意味している。
 

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