アルジェリアにおける階級闘争

訳者改題

 アルジェリアの新体制は、その誕生の発端となったクーデタの直後に早々とわれわれがアルジエで発表した『〔アルジェリアと万国の〕革命派へのアピール』のなかでSIが提出した簡潔な分析を確証することを、自らの唯一の任務として引き受けたように思える。自主管理を清算すること、それこそがブーメディエン*1体制の内容のすべてであり、その唯一の現実的活動である。そして、この活動は、国家が、軍事カ──それはべン・ベラ*2治下で唯一完全に結晶化し、その唯一の強固な機関となっていたものである──の展開によって、アルジェリア社会に向かって自らの独立を宣言したまさにその瞬間に始まったのである。テクノクラート的なやり方での経済の再編成や国家の権力基盤の法的かつ社会的拡大などの、他の国家的計画は、この国の現状では現在の指導階級の能力を超えている。ベン・ベラの敵ではなかったが彼に失望させられ、新体制をその行動に基づいて判断しようと待ちつづけてきた多数の態度保留者たちは、結局のところ、国家の自律的独裁のための行動──それは同時に、自主管理への宣戦布告でもある──以外には、この新体制は何もしないことを見ることになるかもしれない。これからも長期の間、べン・ベラを公然と打倒したりすることはもちろん、彼を明確に非難することさえ、この新体制にはできないように思える。アルジェリアで宣言された「社会主義」の唯一の名残りは、まさに、権力の警察的な反−真理という、転倒された社会主義の核であり、労働運動そのもののに蔓延する反動の産物である。それは、ロシア革命の敗北から、残りの世界が積極的なモデルとして受け継いだものであり、べン・ベラのアルジェリアもその例外ではなかったのである。かくして、政治的な敵が断罪されるのは、その実際の立場によってではなく、その実際の姿とは逆のものによってということになる。あるいは、組織された沈黙のなかで、それが突然すがたを消すことさえある。そのような敵は、裁きの場にも歴史家にとっても1度も存在しなかったことになるのである。そしてまた、かくして、ブーメディエンは、アルジェリアの自主管理がずっと以前からそのありうべきものの戯画(カリカチュア)でしかないことの主要な責任者の1人として、今度は、それを権威主義的に再構成するために、それを公然と「戯画(カリカチュア)」扱いするのである。国家によってイデオロギー的に保証された自主管理の精髄の名において、ブーメディエンは現実に現れ始めていた自主管理の萌芽を棄て去るのである。
 同じような現実の転倒が、ブーメディエンの行う過去の批判を方向付けていけている。ベン・ベラが行ったとして、そして極端にまで推し進めたとして非難されていることは、まさしく彼が行わなかったことであり、彼が試みたいというふりを見せただけのことである。それは例えば、女性の解放や、アフリカの解放闘争への実際的な支援などである。過去について現体制が嘘をつく基礎には、この体制が過去と深く結びついていることがある。アルジェリアの支配階級は交代しなかったどころか、強化されているのである。この階級は、自分たちが単に模倣しただけのこと、今では模倣せずにすましたいと思っているある種の革命至上主義を、ベン・ベラが下手なやり方で行ったと言って非難している。アルジェリアの支配階級は、6月19日*3以前も以後も、形成中の官僚主義であり、彼らは、権力の政治的分配方法を部分的に変えることによって、自ら形成し続けているのである。この官僚主義を支えるいくつかの層(軍隊、テクノクラート)は、他の層(政治家と組合)よりも優位に立っている。基本的条件は、依然として、一方では国内ブルジョワジーの弱体性であり、他方では貧困にあえぐ農民・労働者大衆──彼らの一部が、旧支配階級(ヨーロッパ人)の逃亡の時に、自主管理されていた部門を制圧したのであるが──からの圧力である。国家の所有においてアルジェリアブルジョワジーと官僚層が融合することは、ブーメディエンが代表する新しい支配者層があるのだから、ずっと容易である。それに、このような事態の進行はアルジェリアが結びついている資本主義の世界市場の地域とよりうまく調和する。おまけに、べン・ベラとともにあった支配的官僚層は、大衆の要求に反して公然と闘争を遂行する力がなかった。べン・ベラも不安定な社会的均衡も、フランスとその植民者に対する闘争の暫定的結果だったのだが、今やそれらがともに舞台を去るのである。かつて優勢であった官僚層(FLN大アルジェ同盟*4の指導者、アルジェリア労働総同盟*5)は、その地位が奪われるのを目にしか時に、躊躇した後で賛同したが、それは、国家的官僚体制の全休と彼らの連帯の方が、労働者大衆と彼らとの結びつきよりも当然のことながら勝っていたからである。土地労働者の組合は、その6ヵ月前の大会で自主管理に関する最もラディカルな綱領を採択していたにも関わらず、まっ先に賛同した。
 ベン・ベラとともに権力に与っていたさまざまな官僚勢力のなかで、敵どうしでありながら互いによく似た2つの層が、特別の地位を有していた。それは、アルジェリア共産党〔PCA〕*6と、アルジェリア国家に仕えるために雇われていた外国人極左主義者(ゴーシスト)で「ピエ・ルージュ〔赤い足〕」*7と呼ばれた者たちである。これらの者は、権力を手にしていたと言うより、権力を要求していた者たちであった。権力の貧乏な親戚でありつつ権力の相続を窺っていたこの官僚主義極左は、べン・ベラのもとで、大衆を代表する資格を手に入れていた。すなわち、大衆の委任状ではなく、ベン・ベラの委任状を有していたのである。彼らは、ペン・ベラがまだあらゆる方面と共有していた権力を、いつの日か独占的に──しかも大衆を裏切って奪い取ることを夢見ていた。ベン・ベラ個人が、現在の権力に接近する彼らの唯一の道であり、彼らの将来を約束する主要な要素であり、彼らの存在を容認する唯一の保証(彼らのスカルノ)であったために、この極左官僚主義勢力はべン・ベラを防衛すると表明したのだが、そのやり方は不確かなものだった。彼らは国家を丁重に篭城攻めにしていたと同時に、国家の地盤に身を置いて、国内の力関係を自分たちに不都合なように変えることに反対したのである。ここでもまた、社会主義アルジェリア的特質の名において、これらの要素を批判したブーメディエンのやり方──彼はこれらの要素がすべて外国人によるものだと性格付けた──は、完全に誤っている。「ピエ・ルージュ」は、「理論のための理論を作る」(65年9月22日付『エル・ムジャヒド』紙*8)どころか、完全な理論的無価値と、無意識の、あるいは意識的に隠蔽された反革命の傾向との徹底的な混合を表していたのである。彼らは、アルジェリアで途方もないユートピアを大胆にも「実験」しようと思っていたどころか、その固有の資産として錯誤か嘘しか持っていなかった。これらの錯誤と嘘は、彼ら自身の力量のほどをそれまでに幾度となく示していたのである。ピエ・ルージュが持っていた最良の革命理念が採用されなかったのは、あまりに遠くからもたらされたからではなく、あまりにも遅くなってから繰り返されたからである。これは地理の問題ではなく、歴史の問題なのである。
 ベン・ベラ体制の権力に与る極左のなかでも、さらに孤立し、いっそう過激なムハンマド・ハルビ*9は、自主管理の思想家であったが、彼がそうでいられたのは、権力の中枢機関のなかにいて、君主の加護を受けていたからにすぎない。ハルビはアルジェリアの革命思想が到達した最高の地点にまで登りつめた。すなわち、自主管理という理念にまでは登りつめたが、その首尾一貫した実践にまではまったくもって達しなかったのである。彼は、自主管理の概念は理解したが、その本質はまだ理解していない。ハルビは、逆説的にも、自主管理を統治する側の理論家、あるいはむしろその宮廷詩人であった。彼は、実践を超えた天空で、自主管理を思考する以上に、それを歌い上げていたのである。自主管理の国家という、この論理上の怪物は、こうしてその良心の疾しさとその豪奢をハルビのなかに見出していたのである。街頭に出動したブーメディエンの戦車が意味したものは、国家の合理化である。この国家は、今後、ベン・ベラのもとでの均衡というばかげた逆説からも、そのあらゆる良心の疾しさからも解放され、単に国家であることを願うのである。そのとき明らかになったことは、自主管理の無防備な預言者であるハルビは、それまでに自主管理の自己防衛をそれ自体の場では考慮せず、ベン・ベラの仲介を頼みにしていたということである。だが、自主管理を防衛するためにハルビが当てにするものがベン・ベラしかいないのだとすれば、そのベン・ベラを防衛するのにいったい誰を当てにしていたのだろうか。自主管理の思想家はベン・ベラに保護されていたが、その保護者は誰に保護されていたのか。ハルビはベン・ベラの「良い面」(断固とした自主管理の承認)だけしか受け入れなかったのに、国家を体現するべン・ベラはアルジェリアで誰からも広く受け入れられ続けると彼は信じていた。現実のプロセスは、それゆえ、その悪い面を通って進み、ベン・ベラについて逆の考え方をしていた勢力の介入の能力の方が勝ったのである。ベン・ベラはアルジェリアの矛盾を解消するものだったのではなく、それを一時的に覆い隠すものにすぎなかった。歴史が示したことは、ハルビも、ハルビのように考えていたすべての者も、間違っていたということである。ブーメディエン独裁体制に有効に抵抗したいなら、彼らが今やるべきことは彼らの構想を過激化すること、すなわち、自主管理を実現することである。
 ペン・ベラの失脚は、疑似社会主義の「低開発国」版に関して世界中に広がっている幻想の崩壊において画期的なことであった。カストロは依然としてこの幻想の最後のスターだが、かつて人民の武装を根拠に選挙が無用であることを正しく立証していたその彼も、今はもう、すべての武器を返却するよう要請し、彼の警察がそれらを回収している始末である(ロイター、65年8月14日)。彼の部下だったゲバラ*10は、彼らが盲目的な個人的信頼を寄せるよう求めていた大衆に一言の説明もなく、すでに立ち去ってしまった。同時に、ベン・ベラ体制の社会主義の脆さを自国で経験しているアルジェリア人は、その同じ機会に、いわゆる「社会主義陣営」が彼らのために払う配慮にどれはどの価値があったのかを発見する。すなわち、中国、ロシア、キューバといった国家、おまけにナセル*11までが、ブーメディエン政権に対して当然のことのように愛想を競い合っているのである。低開発国での革命は、社会主義権力の既存のモデルを認め、自らそれを真似るかぎり、常に惨めに失敗するだろう。なぜなら、それらのモデルはすべて明らかに誤ったモデルであるからだ。ロシアと中国に分断された社会主義の公認版と、その「低開発国」販は、互いに保証しあい、称賛しあっているが、互いに同じ結末を保証しあっているにすぎない。それは世界中での革命理論の低開発というものであるが、それこそ、いまやそこから脱出しなければならない第1の低開発なのである。
 〔独立〕戦争中と1962年から1965年にかけての時期の、アルジェリア官僚制の内部抗争は、派閥抗争、個人的対抗関係、指導者間の説明不可能な不和、判然としない理由での同盟関係の瓦解という形態をとった。これらは、蜂起以前の段階からメッサリ・ハジ*12の周辺に色濃くあったさまざまな条件が直接に尾を引いてきたものである。そこには一切の理論が不在であっただけでなく、イデオロギーそのものも粗雑で錯綜しており、すべてが、この国の政治生活の表面に残され、国家が活動する暗雲の中に留まっていた。6月19日以降、新たな時代が始まった。それは支配階級と労働者との衝突の時代であり、それこそ、さまざまな条件と理論への欲求を与える真の運動である。早くも7月9日に、2500の自主管理企業の代表の集会が、ブーマザ*13エ業大臣の主宰の下にアルジェで催された。そこで彼らは、自分たちが不可侵の原則として自主管理を要求していることをこの大臣に申し立て、この原則を制限する国家の役割に関して一連の批判を行った。代表たちは、「監督機関の多さ(県、省庁、党)を問題視し、国家の負担金の不払いと税制の重圧を告発した。また、解雇問題や外国業者の『過酷な』要求、業務を停滞させる税関の役割を挙げる代表もいた」(『ル・モンド』紙、65年7月10日付)。
 これらの代表は、自分たちが何について語っているのか知っていた。実際、6月19日の宣言──そのなかでは「自主管理」の言葉は1度も使われなかった──以降、権力は、国家によるコントロールの強化と、急ピッチでの「管理者(カードル)」養成によって、経済状況の「健全化」を準備していた。権力が意図していたことは、住居を不法占拠しているすべての者(その数は10万人を超える)にローンによる買い取り契約の形で早急にその家賃を支払わせ、自主管理企業のなかで「国家から盗まれた」金を回収し、手入れの悪い資材の損耗に対して打開策を講じ、フランス人が立ち去ったときに大衆の行った不法な押収をすべて正規化することであった。それ以来、自主管理こそが労働運動を大きく阻害してきた所有(私的所有であれ国家所有であれ)への麻薬のような崇拝を最もうまく乗り越えうる形態であるにも関らず、自主管理部門の労働者は非難され続けている。彼らは何カ月も遅れた未払いの給料を待っているのに、彼ら自身の生産物の大半を横領していると言われるのだ。すでに十分な数の兵士と警察官を持っているアルジェリア国家にとって、最も緊急の目標は、年間2万名の会計官を養成することなのである。
 支配階級の代表と労働者との問にはすぐさま、秘かなあるいは公然たる中心的闘争が開始されたが、その争点はまさに自主管理の問題である。ブーマザやブーメディエンは「人心を安定させる」声明を出したが、誰一人としてだますことはできなかった。10月3日付の『ル・モンド』紙が触れていた「組合の不安」とは、官僚制−ブルジョワジーヘゲモニーの最終作戦に対するアルジェリア社会主義革命の唯一の拠点──自主管理部門──の抵抗を示す婉曲な表現である。組合の指導者自身が沈黙を守ることはできなかった。国家に対する労働者の代表という彼らの公式の地位も、指導者階級の左翼という彼らの社会的地位も、再検討されていたのである。『革命と労働』誌 9月号の記事には、労働者の現実の要求(「われわれの悲惨な状況を通して、まさに自主管理が辱めを受けている」)と、組合指導者の増大する不安(「6月19日の宣言のなかで行われた分析には同意」するが、テクノクラートエコノミストの無策は告発する)とが混ざり合っているが、それらは一連の闘争──上下問の、あるいは左右の闘争──が重なり合っている現在の状況を正確に反映している。「経済的無政府主義」──この言葉は常に自主管理と訳さなければならない──に対する執拗な強調、新聞にはほとんど語られない自主管理部門に対する法的措置(滞っている税金を自主管理企業にむりやり払わせる)、かつての所有者への「ノルコロール」工場の返還、これらのことは、「労働者寄りの」あの指導者たちの眼には、やがて支配機構の中に自分の場がなくなってしまうと映っている。すでに、新たな者が権力を要求している。『革命と労働』誌が憤慨する「いかがわしい者たちの権カヘの殺到」は、指導者階級の右傾化を表している。技術官僚層と軍部は、古い伝統的ブルジョワジーの代表しか同盟者に持ちえない。高級士官たちが、南米の軍隊のように、ブルジョワ生活様式を手に入れるようになった瞬間に(彼らの「BMW」は、関税も払わずに3割引で買ったものだということは誰でも知っている)、アルジェリアブルジョワジーの大群が、「ノルコロール」の社長の後を追って帰国し始めた。彼らは「良心というものをほとんど持たない者たちによって完全に不法な状態の中で」(ブーマザ)差し押さえられた彼らの財産を取り戻せることを期待しているのである。これらの挑発すべてに、食料品の急速な値上がりが付け加わっている。このプロセスを完全に意識した労働者たちは、現場での抵抗を試みている。ルノーの工場で何度も繰り返されるストライキ、フランス郵船会社や電話、保険会社従業員らのストライキ、ミテイジャ〔アルジェリア中北部、アルジェ県の平野で、アルジェを市場とする農業が盛ん〕の給料未払いの労働者たちのデモ、これらの行動は、怒りの運動の始まりであり、それは、首尾一貫した仕方でその立場を明確に表せば、現在の体制をすべて一掃することができるだろう。
 問題を1つとして制御できない指導者たちは、恒常的に開催されるあたふたとした会議、牢獄での恒常的な拷問、「風紀の乱れ」の告発によって対応している。『エル・ムジャヒド』誌は、「政治に参加しない若者世代の扇情的なセンチメンタリズム」や、「快楽への趣向や、享楽の可能性という1つの角度からだけ考えられた解放へのブレーキとなる宗教を拒絶し、アラブ文明がもたらしたものを逆戻りであると考えようとした」人々のまったく正しい観点を攻撃している。ワシントンでもモスクワでも、権力が若者たちへの信頼を取り下げることを残念がって告げるのは、まさにこれと同じ口調である。数カ月後には、新政権は、そのイスラム主義の教えのなかでも最高にばかばかしい現れにおいて、ベン・ベラと競うことになった。すなわちアルコール類を禁止したのである。
 ブーメディエン独裁体制に対して存在する反対勢力は2つある。一方では、労働者たちが企業(自主管理されたものであれ、そうでないものであれ)のなかで自己防衛している。彼らは事実に巻き込まれた本当の異議申し立ての勢力である。もう一方で、FLNの機関のなかの極左が、革命機関の改革を試みている。人民抵抗機構〔ORP〕*14──それはザファーヌが指導し、フランスのスターリニストたちに支援されたものだが──が行った最初の試みは、6週間後にやっと、現在の権力の分析もそれに反対する手段の分析も欠いた単なる空疎な宣言として現れた。彼らの第2のアピールはアルジェリア警察にあてたものだったが、警察からの革命的支援を期待していたのである。だが計算は誤っていた。9月の末に当の警察がザフアーヌを逮捕し(ハルビの方は、早くも8月に逮捕されていた)、彼の最初の地下組織を壊滅させたのだ。ORP〔人民抵抗機構〕は活動を続け、「べン・ベラのために」フランス在住のアルジェリア人労働者からカンパを集めはじめるとともに、大多数の学生指導者を味方につけた。アルジェリアの次の政治的経済的危機を利用して、地下潜行あるいは海外脱出を行ったこの機関とアルジェリア労働者の闘争との将来の出会いを作ることが、この機関の目的である。このレーニン主義的な展望のなかで、彼らは、ベン・ベラの旗を掲げ、あるいはその旗なしに、ブーメディエンの権力に取って代わる解決策として姿を現すことだろう。
 多くの活動家はボルシェヴキ型の機関を追求しているが、何がその形成を妨げているのだろうか。それは、レーニン──レーニンの失敗──以来経過した時間であり、レーニン主義の絶えず積み重ねられてきた堕落である。この堕落は、あの極左主義者(ゴーシスト)たちが、あらゆる種類のニュアンスの違いを際立たせて、互いに混ざり合ったり対立しあったりいるという事実からすぐさま読み取ることができる。すなわち、フルシチョフ−ブレジネフ派、親中国派、亜流のトリアッティ派、純粋あるいは半スターリン派、あらゆる色合いのトロツキー派、などである。これらの極左はいずれも、ロシアと中国の「社会主義」(すなわち、階級権力)の性質に関わる、したがってアルジェリアの「社会主義」の性質に関わる本質的な問題について、はっきりとした判断を下すことを拒否するだろうし、拒否することを強いられるであろう。権力闘争の段階での彼らの主要な弱点は、彼らが権力を手に入れた場合、彼らの反革命的役割をまっさきに保証するものでもある。これらの極左は過去の時代の人格化された政治的混乱の結果ということにもなるだろうが、アルジェリアの現実の階級闘争は、今や、そうした時代に幕を下ろしたのである。ベン・ベラに対する彼らの不信は、世界に対する(すなわち社会主義に対する)不信と密接に絡み介っていたが、それはベン・ベラ以降も続いている。彼らは自分たちの知っていることをすべて語るわけではなく、自分たちの語っていることをすべて知っているわけでもない。彼らの社会的基盤も彼らの社会的展望も、権力の移り変わりによって不利な立場になり、かつての地位を取り戻そうとしているあの官僚制部門なのである。彼らは、もはや権力を支配することが期待できないことを見て取って、権力に対立する者たちを支配するために、人民の側に顔を向ける。ノスタルジーにふけっている官僚であれ、夢を見ている官僚であれ、彼らは「人民」をブーメディエンに反対させたいと考えている。ブーメディエンの方はすでに、国家官僚と労働者とが現実に対立していることを大衆に示して見せたというのにである。しかし、彼らのボルシェヴィズムのなかでも最悪の悲惨とは、ボルシェヴィキと彼らとの間に次のような明白な違いがあることである。すなわち、ボルシェヴィキ党は、自分たちがどのような官僚主義的権力を樹立することになるのか知らなかったのに対して、彼らは、自分たちが多かれ少なかれ純化されたかたちで復活を望んでいる官僚主義権力というものを、世界でも自国でも、すでに目にすることができたのである。大衆にもし発言する機会があれば、彼らは、自分たちがすでにその本質を試験してみたこの官僚主義の修正版を選ぶことはないだろう。権力に賛同していないアルジェリア知識人には、この権力機構に参加するか、大衆の自律的な運動と直接に結びつく道を見出すかの2つの間で、選択の余地がまだ残されている。しかし、アルジェリアの小ブルジョワジー(商人、地方の役人など)は、当然、一致して官僚主義極左よりも技術官僚(テクノクラート)的軍事的官僚主義を支援する方向に向かうだろう。
 アルジェリアでも他のどこでも、社会主義の唯一の道は、1956年のあるハンガリー知識人の言葉によると、「真理との攻撃的かつ防衛的な契約」を通って進む。SIの『アピール』は、アルジェリアでそれが読まれた場合は、理解された。革命的実践の条件が存在するところでは、いかなる理論も難解すぎることはない。パリ・コミューンの生き証人であるヴィリエ・〔ド・〕リラダン*15は次のように書き残している、「それまで哲学者だけが取り上げていた問題に関して、はじめて労働者が自分たちの意見を交換するのが聞かれた」。哲学の実現、疎外された社会生活から押し付けられてきたあらゆる価値と行動様式に対する批判とそれらの自由な再構築、それこそがまさに一般化された自主管理の最大限の綱領である。それにも関らず、組織に属した極左活動家は、これらのテーゼは正しいが、大衆にはまだすべてを語るわけにはいかないと、われわれに言う。このような見地から議論している者たちには、その時が来てもまったくわからないだろう。実際、彼らはその時が訪れないように躍起になっているのである。大衆には大衆自身が行っていることを言わなければならない。革命の専門的思想家とは、革命の虚偽意識の専門家であり、彼らは、自分がするつもりだったこととはまったく違うことをしたことに、後になって気がつくのである。この問題は、低開発国に特有のさまざまな困難な事情によって、またアルジェリアの運動における理論面の恒常的脆弱さによって、ここではより深刻なものになっている。しかしながら、本来の意昧での官僚主義者は、現在の反対派のなかではごく少数だが、「職業的指導者」としての彼らの存在そのものによって、すでに1つの形式を作り出している。この形式が圧倒的な重圧となり、内容までもを決定してしまうのである。政治的疎外は常に国家と結びついている。自主管理は、よみがえったボルシェヴィキからは何も期待すべきものがないのである。
 自主管理は現在の闘争の手段であるとともにその目的でもなければならない。それは、単に闘争の争点であるだけでなく、闘争に適した形式でもある。自主管理それ自体がその道具なのである。自主管理はそれ自体にとって、働きかける素材であり、それ自身の前提である。それは、自らの真理を完全に認識しなければならない。国家権力は、「自主管理を再組織する」という滑稽で矛盾した計画をもくろんでいる。実際は、自主管理の方こそが自らを権力に組織しなければならない、さもなくば消え去らなければならないのである。
 自主管理はアルジェリアの運動に現れた最も現代的で最も重要な潮流であるが、それはまた、最もアルジェリア固有ではないものでもある。自主管理の意義は普遍的である。ユーゴスラヴィアでの〔自主管理の〕カリカチュア*16──ブーメディエンはその支持を得たいと望んでいるが、それは国家支配の半−分権化された道具(「自主管理された企業をよりよく支配するために、われわれは分権化を行わなくてはならない」と、ブーメディエンは1965年11月10日付の『ル・モンド』紙に文字通り打ち明けている)であり、中央行政機関の下に位置するものにすぎない──とは逆に、また私的所有の外部での組織をめざしていた1848年のプルードンの相互扶助主義*17とは逆に、真の革命的自主管理は、既存の所有形態を武器によって廃絶することでしか手に入れることはできない。1920年のトリノでの自主管理の失敗*18は、ファシズムの武力支配の序曲だった。アルジェリアでの自主管理による生産基地は自発的に形成された。1936年のスペインでのように、あるいは、1871年のパリでヴェルサイユ軍が放棄した工場でのように、所有者が政治的敗北の後にそのまま放置しなければならなかった場所に、すなわち無占状態の財産〔 biens vacants 〕の上に自主管理が生まれたのである。それらは、所有権と抑圧の空白〔=休暇 vacances 〕であり、疎外された生の安息日なのである。
 この自主管理は、まさにそれが存在するだけで、社会のどのような位階的組織をも脅かす。それはあらゆる外部からの支配を破壊する必要があるが、それは外部の支配勢力が和平を取り結ぶ相手は、決して生きた現実としての自主管理ではなく、せいぜいその名前であり、防腐処置を施されたその死体だからである。自主管理のあるところには、軍隊も警察も国家も存在しえないのである。
 一般化された自主管理、「すべての生産と社会生活の全側面に広がった」自主管理とは、200万人のアルジェリア人に関る失業の終焉であるだけでなく、あらゆる面での古い社会の終焉、すべての精神的、物質的奴隷制の廃絶、その支配者の廃絶でもある。現在の萌芽期の自主管理が上からの支配を受けるとすれば、それは、自主管理に参加しない大多数の労働者層や失業者をその下位に排除することを受け入れる場合だけであり、また、彼らの企業そのもののなかに、その拠点で生まれた、あるいは国家権力から派遣された「管理職」や管理の専門家といった支配層が形成されるのを、彼らが容認する場合だけである。管理職とは国家のウィルスであり、国家を否定しようとするものの内部での、1つの妥協の産物である。だが、国家権力にとっても、アルジェリアの労働者たちの真の権力にとっても、妥協の時は過ぎ去ったのである。
 根源的(ラディカル)な自主管理、持続的に存在し、勝利しうる唯一の自主管理は、それ自体の中にも、その外にも、一切の位階秩序を拒否する。それはまた、その実践によって、女性のあらゆる位階的な分離プルードンの理論によっても、イスラームの下にあるアルジェリアの遅れた現実によっても、公然と認められてきた奴隷制的な分離)をも拒絶する。管理委員会は、自主管理企業の連盟のいかなる代表とも同様に、いつでもその下部の者たちによって罷免されうるものでなくてはならない。この下部には、当然、常雇いと臨時雇いとを区別せず、労働者の全員が含まれるのである。
 アルジェリア社会主義者の唯一の綱領(プログラム)は自主管理部門の防衛だが、その自主管理とは、単に現にあるものだけではなく、そうならねばならないものまで含んでいる。したがって、この防衛は、権力が行う浄化に対して、自主管理の側からのもう1つの別の浄化を対置しなければならない。すなわち、自主管理を内部から否定するものに対する、下部からの浄化である。現体制への唯一の革命的急襲は、維持され、強化された自主管理からしか生まれえない。量的にも質的にも増大した労働者自主管理のプログラムを推し進めることによって、すべての労働者に自主管理の大義を彼ら自身の大義として直接手にするよう求めることができる。自主管理の防衛だけでなく、その拡大と、自主管理に属さないあらゆる専門活動の解消とを要求することによって、アルジェリアの革命派は、この防衛が暫定的に自主管理されている部門の労働者だけの任務ではなく、決定的な解放の唯一の方法として、すべての労働者の任務であることを示すことができる。そのようにして彼らは、自分たちが闘っているのは全面的解放のためであり、将来、自分たちが革命の専門家として支配するためではないことを、すなわち、「彼らの党」の勝利は党としての自己の終焉でもなければならないことを示すのである。
 その第1歩として行わなければならないことは、自主管理の代表たちの関係──彼らどうしの間の関係と、私的部門と国有部門において自主管理を準備するであろう企業委員会との関係──を築くことであり、労働者の運動とそこに現れる自律的組織形態に関するあらゆる情報を伝達し、公表することであり、それらの組織形態を根源的な異議申し立ての唯一の手段として広め、一般化することである。同時に、同様の非合法な関係と出版によって、自主管理部門そのものの中でも、アルジェリアと全世界の大衆に対しても、自主管理の理論とそれの諸要求とを発展させなければならない。自主管理はアルジェリアの権力の謎に対する唯一の解にならねばならず、また自らがその解であることを知らねばならないのである。

*1:ブーメディエン(1932−78年) アルジェリアの軍人・政治家1952年フうンス軍に召集されたが、国外に逃亡。カィロでFLNに参加、55年に帰国し解放軍(ALN)に入り、60年同総参謀長、61年に臨時政府ができてからは首相ベン・ベラと手を組み、国防相となる。63年独立後、第1副大紋頷となるが、65年に反ベン・ベラ・クーデタを起こし、革命評議会議長・国家元首・国防相に就任した。

*2:アハメッド・べン・べラ(1916−) アルジェリアの政治家。オランに生まれ、第二次大戦中仏・モロッコ軍騎兵団に属し、戦後、人民革命党に入党、急進的民族主義運動を担う。54年、民族解放戦線(FLN)の剖設者の1人で、対外活動に従事、56年、モロッコからチュニジアヘの飛行機旅行中フランス軍に逮捕され62年までフランスに監禁。62年3月に釈放されると、FLN右派の暫定政府メンバーとの間で激しい権力闘争を展開したが、軍隊の支持を得て政敵を追放し、同年7月ド・ゴールとのエヴィアン協定により独立を達成、9月アルジェリア共和国首相に就任、翌年憲法を制定して初代大統領に選出。国家・党による権力独占と、「社会主義を口にしながら実質的には何もしない国内政策がブーメディエンら旧解放軍幹部の反発をかい、65年6月、クーデタにより失脚。

*3:6月19日 1956年6月19日、旧解故事幹部で国防相のブーメディエンが、ベン・ベラ体制に反旗を翻し、クーデタを決行、憲法を停止し、7月4日には自ら首相に就任。訳者解題を参照。

*4:FLN大アルジェリア同盟 不明だが、63年9月の憲法によってアルジェリアの「単一政党」となって以降のFLNを差しているのかもしれない。

*5:アルジェリア労働総同盟〔UGTA〕 1956年にFLNによって創設された労働組合の全国組織。アルジェなどの都市部の労働者を組織し、アルジェリア独立戦争の力となった。

*6:アルジェリア共産党〔PCA〕 1936年に、それ以前、作家のアルベール・カミユなども協力していた『共和派アルジェ』に拠っていたアルジェリアの共和主義者が中心に結成した共産党で、この時、フランス共産党から自律したとはいえ、植民地本国の共産党の方針に同調し、1960年にソ達が認めるまでFLNを認めることさえしなかった。62年2月のアルジェリア民主人民共和国の誕生とともに、PCAは禁止されたが、ひそかに活動は続けていたと思われる。

*7:「ピエ・ルージュ 〔赤い足〕」 アルジェリア生まれの白人の通称「ピエ・ノワール(黒い足)」の言い方をまねて、アルジェリア革命政府に協力する白人共産主義者を呼ぶ。

*8:『エル・ムジャヒド』紙 1956年6月に創刊されたFLNの機関誌。

*9:ムハンマド・ハルビ(1933−) 15歳からメッサリーハジの率いるPPA(アルジェリア人民党)で活動し、1954年FLNの蜂起以降、FLNの対外機関で活動するが、65年のブーメディエンのクーデタ直後に逮捕され、68年まで投獄される。出獄後しばらくして73年にフランスに亡命し、以来、パリ第8大学、パリ第7大学などで社会学歴史学を教えつつ、FLNの優れた歴史研究を著したことで知られる。著書に『FLNの起源』(75年)、『FLN、幻と現実、起源から権力奪取まで(1945−1962年)』(80年)、『アルジェリア戦争関連文書集』(81年)、『1954年、アルジェリアで戦争が始まった』(98年)など。

*10:エルネスト・チエ・ゲバラ(1928−67年) キューバの革命家。アルゼンチンに生まれ、47年にブエノスアイレス医科大学に入学、在学中にチリ、ペルー、エクアドルなどを自転車旅行。53年に医学博士となるが、ペロン独裁政権を逃れて南米諸国を渡り歩き、54年メキシコに行き、55年カストロと出会う。56年、カストロとともにグランマ号でキューバに渡り、革命戦争を開始する。キューバ革命勝利以降は国立銀行総裁、工業相などを務めるが、65年にキューバを去り、67年ボリビアでゲリラ活動中に政府軍に射殺される。

*11:ジャマール・アブド・アル・ナセル(1918−70年) エシプトの政治家。1930年代の反英デモに参加して民族主義に共鳴、戦後、48年にファルーク王政の腐敗を軍事革命で解決しようと自由将校団を結成、52年に7月革命に成功。54年ナギーブ失脚後大統領になる。55年アラブ民族主義の指導者としてバンドン公議に出席、ソ連の経済援助受け入れなど、非同盟主義の強化に努力。56年7月にスエズ運河国有化を宣言、同年10月のイスラエル・英・仏の侵略戦争に抵抗、その後、ソ連に接近,それまでの欧米との協調関係を覆し、社会主義政策を推進、61年の「六日戦争」の敗北で辞意を表明するが翻意し、その後パレスチナ問題の打開に苦慮し、70年の「黒い九月」事件の処理中に急死。ナセルは、国内的には社会主義政策によって古い伝統的諸制度・社会関係をエジプトから一掃し、ナセル後の資本主義化を準備したが、公共部門主義と協同組合主義の導入によって官僚主義資本主義層を生み出した。国外的にはアラブ民族主義を掲げる一方で、アラブ世界に対して覇権を求め、イエメン内戦への介入や第三次中東戦争の敗北をもたらした。

*12:メッサリ・ハジ(1898−1974年) アルジェリアの民族運動指導者。1925年フランスで民族解放組織〈アフリカの星〉を創設。30年、コミンテルン大会に出席、フランス国内で反ファシズム闘争とともにアルジェリア解放運動を組織、37年アルジェリア人民党(PPA)結成、アルシェリアで解放運動を展開。39年の解散令以降、〈民主的自由のための運動〉を結成、54年間党の急進派との間で分裂し、〈アルジェリア国民党〉を作り、民族解放戦線(FLN)には参加しなかった。

*13:バシール・ブーマザ 早くからのFLNの活動家で、アルジェリア独立後、工業大臣を務め、65年のブーメディエンのクーデタ後もブーメディエンに同調し、革命評議会のメンバーに加わるが、1年後に辞任。

*14:人民抵抗機構〔ORP〕 65年の、ブーメディエンのクーデタ後、62年に禁止されていた旧アルジェリア共産党のメンバーと、べン・ベラに近い独立派マルクス主義者とが一緒になって結成した地下組織。65年9月には政治警察によって摘発され、解体された。

*15:ヴィリエ・〔ド・〕リラダン(1838−89年) フランスの作家。ブルターニュの貴族の家柄に生まれ、パリでボードレールワーグナーマラルメらと親交。ヘーゲル哲学とポーの作品に影響を受け、精神的貴族主義、神秘的理想主義に依拠して、超自然的な幻想物語を書く。作品に『残酷物語』(83年)、『未来のイブ』(86年)など。

*16:ユーゴスラヴィアでの〔自主管理の〕カリカチュア 1948年ティトーのコミンフォルム追放後、ユーゴスラヴィアで展開された独自の社会主義で、直接民主主義の拡大と「国家の死滅」を根本命題とし、行政機能の分権化、労働者評議会による企業の「自主管理」、非同盟主義の対外路線を特徴とした。「自主管理」とは言うものの、実際は、企業長が党と結びつき、労働者評議会を無視することが多く、投資銀行の発言権が大きかったりで、労働者の自主管理はうまく機能せず、60年頃には経済的停滞を理由に市場原理を導入したため、特権階層が生まれると同時に地域格差、民族対立が拡大し、倒産、失業が相次いだ。

*17:プルードンの相互扶助主義 フランスの社会主義者ピエール・ジョゼフ・プルードン (1809−65年)の唱えた理論。プルードンは1840年の著書『財産とは何か』で、「財産とは窃盗である」として私有財産制を批判したが、48年の二2月革命後国民議会議員となり、新聞『人民』を通して主張したその社会変革の内容は、小経営の維持、分配における平等、人民銀行の創設など穏健なものだった。生産手段の社会化は主張せず、極端な私有財産も分割相続・累進課税によって解決できるとし、社会問題の解決を相互扶助に求めるなど、客観的社会主義と呼ばれるその思想は、マルクスの『哲学の貧困』で批判された。

*18:1920年のトリノての自主管理の失敗 グラムシらの〈オルディネ・ヌオーヴォ〉(新秩序)派がトリノで行った工場評議会運動のこと。 グラムシらは1920年3月に「工場評議会の大会」を公表、それを受けて4月13日から23日までトリノゼネストが起こり、同年秋にはいくつもの工場が占拠され、工場評議会が結成されたが、ファシズムの高まりの中で最終的には失敗した。