『スペインの労働者評議会の綱領に関する論考』 訳者解題


 スペインでは、1939年に激しい内戦の後に共和派を敗北させて誕生したフランコ体制が、その後、1975年のフランコの死去まで続くが、第二次大戦直後のスペインは、戦争中の枢軸国への実質的な支援(ファランヘ党の〈青い旅団〉5万名によるナチスソ連侵略への加担)を問題にされ、46年の国連でのスペイン排斥決議によって国際社会から排斥された。しかし50年代になって米ソ冷戦が始まると、スペインを反共陣営に組み入れる必要から、50年のスペイン排斥決議の解除を皮切りに、同年の国連食糧農業機関(FAO)への加盟、52年のユネスコ加盟が次々に実現し、55年には国連への加盟を果たし、スペインは「国際社会」に復帰した。特に、55年、軍事基地提供と引換えに経済援助を受けるスペイン・アメリカ相互防衛・経済援助協定(マドリード条約)によって、食糧危機と経済危機を乗り切り、59年には経済安定計画を制定して、60年代に入って高度経済成長を軌道に乗せるのである。60年代のスペインの経済成長は、GNPの成長率で言うとヨーロッパの他の国々を大きくしのぎ、世界では日本に次ぐ高い成長率を示したが、こうした経済発展を担ったのは、閣僚やテクノクラート官僚に大きな影響力を持つ 〈オプス・デイ〉というバチカン公認の宗教勢力である。彼らは当初、教会の右派勢力として宗教国家建設を追求したが、やがて経済の近代化と国民の政治的無力化をめざす方向に路線を変更する。そうして政権に多くの閣僚を送り込み、フランコ政権下での政治的抑圧と引き換えに経済の近代化を果たして、60年代半ばには、その背景の上に欧州経済共同体(ECC)に加盟して共通市場に参加しようとしていた。こうした経済の近代化と工業化は、一方で、多くの労働者の抵抗を生み、50年代後半からアストゥリアスやレオン、バスクなどスペイン各地方の鉱山労働者を中心とした大規模なストや、マドリードバルセロナなどの都市でのデモやストが行われてきたが、60年代に入り、そうしたストやデモは激しさを増してくる。62年4月にはアストゥリアスの鉱山労働者がゼネストを決行し、5月にはスト拡大を阻止するためアストゥリアス、ビスカイア、ギプスコアの各州に非常事態宣言が出されたが、ストはその後も続いた。さらに、こうした労働者の運動に加えて、反フランコ派の知識人や学生、活動家の運動も、フランコ政権による激しい弾圧を受けながら生まれてくる。39年のフランコの政権獲得以降、それ以前の人民戦線派の社会民主主義者やブルジョワ共和主義者、キリスト教民主主義者らはフランスのトゥルーズに亡命していたが、62年、彼らとスペイン国内に残っていた反フランコ派スペイン人が、ミュンヒェンで開催されたヨーロッパ統一運動の大会に参加し、民主的スペイン建設の目的で〈ミュンヒェン協定〉を結んだが、指導者らは帰国後逮捕された。また、63年3月に共産党員フリアン・グリマウを内乱中の犯罪行為により逮捕、処刑した事件は諸外国で大きな反響を呼び、スペイン国内でも反フランコ・デモを引き起こした。63年夏にアストゥアストゥリアスとレオンで起きた鉱山労働者のストは激しい弾圧を呼んだため、102人の著名な知識人が抗議の文書を情報相に宛てて出すという「事件」が起きた。この事件をきっかけに学生の間でも反フランコ派の運動が盛り上がり始め、64年3月にはガルヴァンという名の教授の講演会が「政治的陰謀」を理由に大学当局によって中止させられたため、怒った学生が大学の建物を占拠し、警官隊との激しい闘いの後、排除されるという事件まで起きている。65年には、労働運動が再開されると同時に、学生たちの運動も激しさを増し、体制派の学生組合であるスペイン大学組合(SEU)に反旗を翻して、学生統一戦線(FUDE)の力の下に自主派の「総会」をマドリードバルセロナサラマンカグラナダサラゴサバレンシアなどの各地に結成する。政府は、こうした動きに対して、マドリードの文学部、医学部の閉鎖という攻撃に出るが、66年から67年にかけて、逆に学生の運動は先鋭化し、トロツキスト毛沢東主義者、ゲバラ主義者など多くの極左組織が誕生し、フランコ体制打倒運動とともにヴェトナム戦争反対運動やスペイン駐留米軍基地反対運動などの政治闘争を展開してゆくのてある。
 シチュアシオニストのこの論文が書かれた背景には、こうしたスペインの60年代の運動の高揚がある。シチュアシオニストはそのなかで生まれてきた「新しい社会批判潮流」のなかでも特に『アクシオン・コムニスタ』を発行している「同志」たちの理論的作業に注目し、その優れた点(スペインはもはや後進資本主義国ではないという鋭い経済・社会分析、スペインのラディカルな潮流の一般的な目標)を評価し、不十分点(世界の革命運動の現状の評価の誤り、そして革命組織の問題における一貫性の欠如)を批判するのだが、それにはもちろん、ヨーロッパ資本主義の最も弱い環でありながら、急激な発展によって資本と労働の最も激しい闘争が繰り広げられているスペインで、30年近く前に流産させられた「スペイン革命」を再開するシチュアシオニストの強い願いが込められている。
 シチュアシオニストがこの「論考」を書いた後、スペインでは、67年から68年にかけて学生運動が活発化し、67年11月にはマドリードでの学生と警官隊の激しい戦闘、その後の政府による「大学警察」の設置、68年5月には大学占拠とバリケード闘争、政府による哲学部、文学部、科学部、政治学部などの閉鎖という形で、フランスの5月革命にも匹敵する学生の闘争と弾圧が繰り返され、一方で、バスク独立運動を担う武装組織〈祖国バスクと自由〉(ETA)による最初の暗殺テロも起き、フランコ体制を揺さぶってゆくのであるが、これらの運動は、シチュアシオニストの唱える〈評議会権力〉を求めるものではなく、さまざまな潮流の寄せ集め(前者)か、バスクの民族ナショナリズムに基礎を置いた武装闘争(後者)であるがゆえに、フランコ体制を打倒するにはいたらなかった。