低開発国での革命についての世論の誤りを修正するのに役立つ貢献


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 ブルジョワジーのすぐれて革命的な役割は、後戻りできない決定的なやり方で、経済を歴史の中に導入したことにある。この経済の忠実な主人=妾(メットレス)であるブルジョワジーは、その出現の時点から、「普遍史」の実際上の主人=妾(メットレス)──たびたび無意識にではあるが──であった。歴史上はじめて、この普遍史形而上学的な幻想(ファンタスム)とか世界精神(ヴェルトガイスト)の一幕であることをやめて、各個人のありふれた存在と同じくらい具体的な物質的事実となった。商品生産の到来以降、あの新しい宿命(ファントム)、すなわち、商品の論理という不可視の経済的合理性の仮借ない発展を免れるものはこの世に存在しなくなった。商品というものは本質的に全体主義的で帝国主義的であり、その活動領域として地球全体を要求し、その奉仕者として全人類を要求する。商品のあるところには、奴隷しか存在しないのである。


 人類を先史段階に押しとどめておくために特別な一階級〔=ブルジョワジー〕が用いる抑圧の一貫性に対して、革命運動──ブルジョワ資本主義支配の意図せぬ直接の産物──は、1世紀以上前から、万人による作業であると同時に各人による作業でもある解放の一貫性というプロジェクトと、〈歴史〉の創造への自由で意識的な介入、つまり、一切の階級分化の実際の廃止と〈経済〉の解消を対置してきた。


 商品というウィルスは、それが入り込んだ場所──すなわち、ほとんど世界中のいたるところ──で、最高に硬直化した社会−経済体制すらたえず激変させ、何百万もの人間が悲惨と暴力の中に経済の歴史的時間を発見することを可能にする。このウィルスは入り込むいたる所に、その破壊的原理を広め、過去の遺物を解体し、あらゆる敵対関係を極限にまで推し進める。一言で言えば、それは社会革命を加速するのである。中国の万里の長城もすべて、このウィルスの通過によって崩壊し、それがインドに居座るやいなや、すべてがその周りで解体し、ボンベイで、ベンガルで、マドラスで農業革命が勃発した。世界のなかの前−資本主義段階の地域はブルジョワ的現代性に到達するが、その現代性の物質的基盤はなしですます。その地域のプロレタリアートの場合と同様、そこでもまたブルジョワジーが解放する──あるいは、創造しさえする──のに貢献した勢力は、今や、逆にブルジョワジーとその原地人奉仕者に向かおうとしている。すなわち、低開発国の革命は現代史の主要な章の1つとなったのである。


 低開発諸国での革命の問題が特殊なやり方で提起されるのは、歴史の発展そのものによるものである。つまり、これらの国では、全般的な経済の遅れ──植民地支配とそれを支える植民者たちによって維持されてきた──や生産力の低開発によって、先進資本主義社会で1世紀以上前から練り上げられてきた革命理論を即座に実行可能にするはずの社会−経済体制の発展が妨げられてきたからである。これらの国のすべてが、闘争に入ろうとするその瞬間にも、大きな産業を持たず、プロレタリアートは多数派階級ではまったくないのである。その役割を引き受けるのは貧農層である。


 革命の到来以降すぐに自称共産主義の官僚層に奉仕する反革命に変質することによって、ロシア革命が敗北した結果、労働運動は壊滅したが、そのずっと後になって、さまざまな民族解放運動が出現してきた。これらの運動は、それゆえ、意識的にであれ、虚偽意識にとらわれてであれ、この一般化した反革命の欠陥と弱点のすべてを被ってきた。さらに、全般的な遅れも手伝って、彼らは敗北した革命運動に強いられた限界をどれ1つとして乗り越えることができなかった。まさにこの革命運動の敗北が原因で、植民地化あるいは半植民地化された国々は独力で帝国主義を打倒せねばならなくなったのである。しかし。全体的な革命のうちの一部の領域だけでこの帝国主義を打倒しても、それを部分的に追い払ったことにしかならない。民族解放革命が勝利したと信じたあらゆる場所に抑圧的な体制が打ち立てられたが、それらの体制は、抑圧されたものの回帰がその下でなされる形態の1つにほかならない。


 どのような勢力が参加していようと、指導部がどれほど過激であろうと、民族解放運動は植民地から脱した社会を近代的な国家形態に、そして経済における現代化の要求に近づけることに常に帰着してきた。低開発国の革命家たちの理想像(イマーゴ・バーテル)である中国では、欧米と日本の帝国主義に対する農民たちの闘争は、1925年から1927年にかけての労働運動の敗北によって、ロシア型の官僚体制を権力に導く結果となった。中国が自らのイデオロギー──それはつい最近、毛沢東の赤い教義問答に切り縮められた──に飾りとして付け足したレーニンスターリン主義教条主義は、その反革命的実践に付随する嘘か、最良の場合でも虚偽意識にすぎないものである。


 どのような勢力が参加していようと、指導部がどれほど過激であろうと、民族解放運動は植民地から脱した社会を近代的な国家形態に、そして経済における現代化の要求に近づけることに常に帰着してきた。低開発国の革命家たちの理想像(イマーゴ・バーテル)である中国では、欧米と日本の帝国主義に対する農民たちの闘争は、1925年から1927年にかけての労働運動の敗北*1によって、ロシア型の官僚体制を権力に導く結果となった。中国が自らのイデオロギー──それはつい最近、毛沢東の赤い教義問答に切り縮められた──に飾りとして付け足したレーニンスターリン主義教条主義は、その反革命的実践に付随する嘘か、最良の場合でも虚偽意識にすぎないものである。


 ファノン主義*2カストロゲバラ主義は、農民が前−資本主義社会からその半封建的で植民地的な後遺症を取り除き、植民者と時代遅れの支配階級に踏みにじられた民族的尊厳を獲得するという偉大な任務を達成するのだという虚偽意識である。ベン・ベラ主義、ナセル*3主義、ティトー主義*4毛沢東主義は、そうした運動の終焉と、都市のプチ−ブルジョワジーと軍人層によるその独占的所有を告げるイデオロギーである。それは、搾取社会の再編成にすぎず、今回は新しい主人の下で新しい社会−経済構造に基づいて搾取するだけの話である。農民層が闘争に勝利し、その闘争を組織し指導した階層を権力に導いた所ではどこでも、農民は最初に彼らの暴力の犠牲者となり、彼らの支配の莫大な出費を支払わされた。現代の官僚制は、最も古代的な官僚制(例えば中国の官僚制)と同じように、農民からの過剰な搾取の上にその権力と繁栄を築いている。イデオロギーは問題を何も変えていない。中国でもキューバでも、エジプトでもアルジェリアでも、イデオロギーはどこでも同じ役を演じ、同じ機能を引き受けているのである。


 資本の蓄積過程において、官僚制とはブルジョワジーが単にその概念でしかなかったものの現実化である。ブルジョワジーが何世紀もかかって「血と泥にまみれて」行ってきたことを、官僚制はほんの数十年間で意識的にかつ「合理的に」実現しようと考える。ただ、官僚制は嘘を蓄積することなしに資本を蓄積することができないだけだ。資本主義の富の原罪であったものが不吉にも「社会主義的本源的蓄積」と命名される。低開発国の官僚制が社会主義であると言ったり、想像したり、思い込んだりしていることはすべて、実際には、完成した新−重商主義以外の何物でもない。「ブルジョワジーのいないブルジョワ国家」(レーニン)にはブルジョワジーの歴史的任務を乗り越えることはできない。そして、最も先進的な工業国〔アメリカ〕はそれよりも発展の遅れた国に対して、その国自身の将来の発展のイメージを示して見せるのである。権力に就いたボルシェヴィキ官僚制は、ロシアの革命的プロレタリアートに提案するものとして、「ドイツ国の資本主義の学校に行くこと」こと以上に良いものを何も見つけられなかった。自称社会主義のこれらの権力はみな、せいぜい、ヨーロッパで革命運動を支配し打ち負かした官僚制の低開発型模倣である。官僚制がなしうること、あるいは行わざるをえないことは、労働者大衆を解放することもできなければ、彼らの社会的条件を実質的に改善することもできないだろう。というのも、それらのことは、単に生産力に左右されるだけでなく、生産者による生産力の所有にも左右されるからである。しかしながら、この2つのものを実現するための物質的条件を作り出すことを、官僚制は必ず行うであろう。ブルジョワジーがかつて行ったことはそれに劣ることだったのだろうか。


 官僚制と農民による革命においては、官僚制だけが意識的かつ明確に権力をめざす。権力奪取に対応している瞬間は、植民地の後遺症を除去し外国からの独立を実質的に達成する以前に、官僚制が国家を奪い取り、革命的大衆に対する自らの独立を宣言する歴史的瞬間である。この新しい階級は、国家の中に入ると、大衆のあらゆる自律性に対する攻撃的な他律性のなかに隠れてしまう。全社会の唯一の所有者である彼らは、自分こそがその社会の優位にある利益の唯一の代表であると宣言する。官僚制国家はこの点で、ヘーゲル的国家の実現されたものである。この国家の社会からの分離が、同時に、互いに対立する階級への分離を確立する。つまり、官僚制と農民との一時的な統一は、この2つの階層が、衰弱したブルジョワジーに取って代わって、その巨大な歴史的任務を成し遂げることができるという途方もない幻想にすぎない。前−資本主義段階の植民地社会の廃墟の上に築かれた官僚制権力は、階級対立を廃絶するものではない。それが行うことは、古いものに代えて、新しい階級を、新しい抑圧状況を、新しい闘争形態を生みだすことだけである。


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 低開発状態にあるのは、自分の支配者たちの力の積極的な価値を認める者だけである。資本主義の物象化に追い付こうとする競争は、依然として、さらなる低開発に至る最良の道である。経済的発展の問題は、経済の真の所有者の問題、労働力の実際の支配者の問題と不可分である。それ以外のことはすべて専門家のおしゃべりにすぎない。


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 これまで、低開発国の革命はさまざまなやり方でボルシェヴィズムを模倣しようとしてきただけだ。今後、重要なことは、ボルシェヴィズムを〈ソヴィエトの権力〉のなかで解体することである。
                         

ムスターファ・ハヤティ*5

*1:1925年から1927年にかけての労働運動の敗北 1925年に中国共産党の指導で労働者の反帝国主義運動(5・30運動)が起こり全国にゼネストが広がり革命運動が高揚するが、国民党右派・中間派の反撃と、中国共産党の二段革命路線による国共合作維持路線により、国民党の蒋介石の権力が増大。中国共産党蒋介石の裏切りを予測して、27年4月に上海クーデタを起こすが失敗し大打撃を受け、労農運動を自ら抑制するなど路線を混迷させ、7月には王兆銘ら国民党左派からも排除・弾圧された。その後、中国共産党は党員数を減少、指導部を再建して国民党政権に対する武装蜂起路線に転じたが、広州コミューンなどの大都市占拠を目的とした諸蜂起はすべて敗北に帰した。

*2:ファノン主義 フランツ・ファノン(1925−61年)は、仏領マルチニック島生まれの医師・革命家で、53年から56年アルジェリアの病院で医師として働く中から、56年以降FLNに参加、反植民地主義の思想を作り上げる。著書「黒い皮膚・白い仮面」(52年)、「地に呪われた者」(61年)、「アフリカ革命に向けて」(64年、死後編集)などで展開された革命論・暴力論によって、第三世界の革命運動と西欧の第三世界主義者に大きな影響を与えた。

*3:ジャマール・アプド・アル・ナセル(1918−70年) エジプトの政治家。1930年代の反英デモに参加して民族主義に共鳴。戦後、48年にファルーク王政の腐敗を軍事革命で解決しようと自由将校団を結成、52年に7月革命に成功。54年ナギーブ失脚後大統領になる。55年アラブ民族主義の指導者としてバンドン会議に出席、ソ連の経済援助受け入れなど、非同盟主義の強化に努力。56年7月にスエズ運河国有化を宣言、同年10月のイスラエル・英・仏の侵略戦争に抵抗、その後、ソ連に接近。それまでの欧米との協調関係を覆し、社会主義政策を推進、61年に社会主義宣言。67年の「6日戦争」の敗北で辞意を表明するが翻意し、その後、パレスチナ問題の打開に苦慮し、70年の「黒い9月」事件の処理中に急死。ナセルは、国内的には社会主義政策によって古い伝統的諸制度・社会関係をエジプトから一掃し、ナセル後の資本主義化を準備したが、公共部門主義と協同組合主義の導入によって官僚主義資本家層を生み出した。国外的にはアラブ民族主義を掲げる一方で。アラブ世界に対して覇権を求め、イエメン内戦への介入や第三次中東戦争の敗北をもたらした。

*4:ティトー主義 ユーゴスラヴィアのティトー大統領(1892−1980年)が推進した自主管理・非同盟政策。64頁の「ユーゴスラヴィアでの〔自主管理の〕カリカチュア」の訳注を参照。

*5:ムスターファ・ハヤティ チュニジアのシチュァシオニスト。64年ごろからフランス・セクションで活動。『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第10号、第11号、第12号の編集委員を務め、同誌に「低開発国での革命についての世論の誤りを修正するのに役立つ貢献」(第11号)を掲載、67年の〈ストラスプールのスキャンダル〉では、U NEFに対する反乱を起こしたAFGESの学生たちのために『学生生活の貧困』を執筆し、69年5月革命の最も早いきっかけを作った。69年9月に、ヴェネツィアで開催されたSI第8回大会で、SIの構成員規約が変更され、二重加盟が禁止されたため、PFLPとの関わりを問題にされたハヤティは、69年10月1日付けの書簡でSIに全面的な連帯を表明して、自らは「アラブ地域で発展しつつある革命的危機」に身を投じることを宣言してSIを脱退した。