『アルジェリアにおける階級闘争』訳者解題 


 『アルジェリアにおける階級闘争』は、最初、アルジェで編集され、全体を1枚の大きなビラにしてパリで印刷されたものを、1965年12月にアルジェリア国内の主要な都市で非合法に配付された。ここに収められているものは、その再録である。この論文は、1965年6月19日に起きたペン・ベラ政権に対する軍部のクーデタによって生まれたブーメディエン軍事独裁体制、およびそれに対する反対派について批判的分析を加え、この独裁体制を打倒して、未来への道を開きうる唯一の方策として「根源的な自主管理」を提唱したものである。同様の内容の論文として、SIはすでに、ブーメディエンのクーデタの直後、65年7月にアルジェで『アルジェリアと万国の革命派へのアピール』を緊急に配付したが(『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌本号に収録)、その5ヵ月後にさらに分析を深化させ、この「根源的な自主管理」の道を再確認して、アルジェリアの労働者に訴えるのである。つまり、アルジェリアに現に存在し、ブーメディエンによって清算されようとしている「自主管理」──ベン・ベラ政権の唱えた「社会主義」のほとんど唯一の内容であった上からの「自主管理」──を革命的に組織し直し、「200万人のアルジエリア人に関る失業の終焉であるだけでなく、あらゆる面での古い社会の終焉、すべての精神的、物質的奴隷制の廃絶、その支配者の廃絶でもある」「『すべての生産と社会生活の全側面に広がった』自主管理」へと改変することによってしか、この軍部の肥大化と闘い、「革命」社会の停滞あるいは後戻りから抜け出すことはできないのだと、SIはここでいっそう真剣にアルジェリアの労働者に呼びかけているのである。
 この呼びかけの意味を理解するために、独立以降のアルジェリアの歴史を簡単に振り返って見ておこう。
 1962年3月18日にフランスのエヴィアンアルジェリア共和国臨時政府(GPRA)とフランス政府との間で結ばれたエヴィアン協定によって、アルジェリア戦争は、1954年11月1日のFLNの蜂起以降の7年半の闘いと、フランス人の死者2万7394名(うち市民2780名)、アルジェリア人の死者約23万4000から29万名(人口調査を元にしたフランス人歴史家による数字。FLNは100万、フランス政府は22万7000──うち戦闘員は14万1000名──と発表)を出して終わり、7月1日の国民投票での圧倒的多数(99・7%) の承認により、7月3日、アルジェリアは130年にわたるフランスの植民地支配を脱して、新たにアルジェリア民主人民共和国として独立を達成した。だが、独立後の道は決して平坦なものではなかった。
 まず第1に、エヴィアン協定以降、7−8月の2カ月間に、FLN内部で「社会主義」とアラブーイスラム主義を唱えるベン・ベラ、ブーメディエン派と、アルジェリア共和国臨時政府(GPRA)に結集していた他のブルジョワ民主派、穏健派、地域主義派、複数主義派、カビール派などとの間で激しい権力闘争が繰り広げられたことを挙げねばならない。この間、べン・ベラはブーメディエンの指揮する軍の力を背景に反対派を制圧し、62年9月の始めにはこの権力闘争に勝利した。その後63年9月の憲法制定、9月の大統領選出、64年4月のFLN大会とアルジェ憲章の採択というプロセスで、80年代末に至るまで本質的にまったく変わらないアルジェリア国家の性格──アラブ・イスラム主義、社会主義という路線と、単一政党制と軍部による実質的支配が制度的に確立されてゆくが、その基本線は最初の2カ月間にほとんど決定されていたと言える。このプロセスをより詳しく見てゆこう。
 エヴィアン協定が締結されアルジェリアの独立が確定すると、アルジェリア国内では、まず100万人はいたと言われる「ピエ・ノワール(黒い足)」(アルジェリア生まれのフランス人)が次々と農場や企業を捨ててフランスに脱出しはじめる。持ち主のいなくなったこれらの場所には、アルジェリア人による「管理委員会」が誕生し、自主管理が開始される。同時にフランス人商店は次々と略奪され、私腹を肥やすアルジェリア人──とりわけFLNの幹部──が現れる一方で、フランスの植民地支配下で軍と警察に動員されていた20万人以上のアルジェリア人(家族を含めると100万人以上)への報復が始まり、一部はフランスに脱出したが、残った多くの者のうち3万人から6万人が虐殺される。こうした混乱の中で、新しい行政機関は存在せず、地方のFLNの組織も機能せず、代わりに地域主義的で封建的なボスたちが次々と登場してくる。さらに、FLNの指導者の問でも革命後の政権をめぐる意見の対立から激しい権力争いが生じ、混乱は極に達していた。1958年9月19日にFLNによって結成されたアルジェリア共和国臨時政府(GPRA)のメンバーは、革命闘争の開始以降FLNがウィラヤ(管区)と名付けたアルジェリア国内の6つの地域で抵抗運動を指導してきた者たちから構成され、各地域の民族的文化的独自性を代表しつつFLNの革命闘争に参加していたが、これらのGPRAのメンバーと、1956年にフランス政府に逮捕されエヴィアン協定の締結とともに監獄から解放されるや、「農民、労働者、革命的インテリ」による社会主義的な「人民民主革命」を主張するべン・ベラとの間に衝突が始まるのである。この「人民民主革命」綱領は、1962年5月27日から6月7日にリビアトリポリで開催されたアルジェリア革命国民評議会(CNRA)の大会で、農地改革、企業の国有化、アラブーイスラム主義、女性の解放などの政策とともに採択されたが、大会中にべン・ベラがGPRAのメンバーを革命路線に抵抗する少数派として断罪したことから、7月3日、中道派のベンユセフ・べン・ヘッダを議長とするGPRAは大会をボイコットしてアルジェに去り、そこで総選挙を行うまでの臨時政府樹立を宣言し、さらに、チュニジア、モロッコそれぞれの国境地帯に8万名のアルジェリア民族解放軍(ALN)を抱えて留まっていたブーメディエン将軍の解任を発表する。これに対して、べン・ベラはただちにブーメディエン将軍への支持を発表し、GPRAと闘うために、7月22日、アルジェリア西端の都市トレムセンでFLNの「政治局」を結成、7月25日にはアルジェリア西部の中心地であるコンスタンティンを占拠する。このべン・ベラ派の攻勢を前にして、GPRAの中には将来の政権への参加を条件にペン・ベラ側に寝返る者も出るが、1954年にべン・ベラとともにFLNを結成した9人の革命指導者たちの中からさえもべン・ベラの独裁制を批判して離れてゆく者が現れる。例えば、カビールの山岳地帯で1947年以降アルジェリア最強のゲリラ部隊を率いて革命闘争を指揮し、54年のFLN結成に加わったクリム・ベンカセムは、ムハンマド・ブーディアフとともにべン・ベラから離反し、「革命防衛連絡委員会(CLDR)」を結成し、独裁制の危機に警鐘を鳴らした。ブーディアフは、54年のFLN結成以降、FLNの首席となり、国内の6つのウィラヤの指導部と、カイロに置かれたべン・ベラらの国外代表部との連絡にあたっていたFLNの代表とも言うべき人物だったが、この後、62年9月には、FLNとは明確に異なる路線の「社会主義革命党(PRS)」を結成することになる。もう1人のFLNの「歴史的指導者」であるホラース・アイート・アフメッドも、パリからべン・ベラを批判する声明を発し、生まれ故郷のカビリーに戻る。彼はやがて、63年9月29日に、アルジェリア先住民族で言語文化的少数民族ベルベル人の多く住むそのカビリーで「社会主義勢力戦線(FFS)」を結成し、カビール自治運動を開始することになる。こうして多くの仲間の離反者を出しながらも、べン・ベラは、独立革命中には国外にあって戦闘に参加しなかったために無傷のまま残っていた8万名のALNの圧力を背景に、第3ウィラヤ(カビリー)以外の各ウィラヤを次々と落としてゆき、8月6日にはそれまでGPRA側だったFLNフランス連盟(フランス在住のアルジェリア人移民の組織で、革命戦争に資金面での大きな貢献をした)の支持も獲得して、8月30日、初めて実戦に参加したALNと各ウィラヤの部隊のアルジェヘの総進撃によって、1000名以上の死者を出しながら最後まで抵抗したべン・ヘッダのGPRAを倒して権力を獲得するのである。
 べン・ベラの権力と言っても、実質的には、軍を支配するブーメディエンの権力である。ブーメディエンは、1957年以降、モロッコのウジダに拠点を置き、そこから第5ウィラヤ(オラニー)の革命闘争を指導するとともに、自分の回りに忠実な部下を集め「ウジダ・グループ」を形成した。その勢力の上に、翌年には第4、5、6ウィラヤとモロッコをカバーする西方全体の軍事的指揮をとるようになり、60年以降はALN総参謀部の司令官としてアルジェリア革命の最強の軍事組織を手中に収めるのである。べン・ベラが依拠したFLNの政治組織がさまざまな傾向の人物から成り、組織の性格としてはそれほど堅固なものでなく(SIの言葉では「形成途上の官僚主義」)、加えて、べン・ベラという人物も大ざっぱで気まぐれな性格で、気分に応じて次々と仲間を遠ざけたのに対し、緻密な軍事指導者であるブーメディエンの軍隊は最初から十分に組織され、62年の段階では、アルジェリアで唯一、堅固な組織を誇れる集団だった。べン・ベラのアルジェ入城以降、このブーメディエンのウジダ・グループがさまざまな形で、新アルジェリアの軍事国家的性格に影響を与えることになる。まず、62年9月20日に選挙で選出された憲法制定議会は、25日にアルジェリア民主人民共和国の誕生を宣言し、同時に新政府を任命したが、この政府は首席こそべン・ベラであったものの、それ以下の主要な閣僚ポストのうち重要な5つにはブーメディエン派の軍人が就くことになった。元GPRAのメンバーでベン・ベラ側に寝返った者や、FLNフランス連盟の指導者たちは、ベン・ベラが結んでいた約束を反古にされ、権力にあずかることはできず、1人の閣僚も出せなかった。さらに、この後、63年9月8日の新憲法公布のための国民投票、9月15日の大統領選挙までの間にも、ブーメディエンは閣僚評議会の中で力を伸ばし、63年5月17日には評議会則議長に任命される一方で、軍部の勢力の伸張に嫌気が差したムハンマド・ヒデルが4月16日にFLNの「政治局」書記長を辞し(後はべン・ベラが兼任)、8月14日には第二次大戦前からの独立運動家フェルハト・アッバースまでが憲法制定議会議長を辞任する。この過程の中で、憲法は、無力になった議会によってというよりもべン・ベラとブーメディエンの合作によって作られた。まず政党制の問題については、トリポリ大会の時点ではまだはっきりと定まっていなかったにも関わらず、1954年以降のFLNの闘争だけを正史とするFLNの単一政党制となってしまった。すでに62年9月29日に戦前から存在するアルジェリア共産党が禁止されていたが、63年8月にはムハンマド・ブーディアフの社会主義革命党(PRS)が非合法化され、それまで独自路線を歩んでいたアルジェリア労働総回盟(UGTA)までもが指導部をFLNに牛耳られ、一国家機関と化してしまった。このFLN単一政党制の下で、20世紀初頭からのさまざまなアルジェリア独立運動の歴史とアルジェリアの2000年以上の歴史、複数民族主義や連邦制などの複数の思想がすべて切り捨てられる。当初から「アルジェリア人のアルジェリア」ではなく「アラブームスリムアルジェリア」をスローガンとしていたFLNは、アルジェリアの現実──アラブ人、ベルベル人ペルシャ人、ユダヤ人、ヨーロッパ人などからなる複数民族と、アルジェリア方言を中心とした口語アラビア語ベルベル語、フランス語などの複数言語、イスラームキリスト教ユダヤ教などの複数宗教──を無視して、アラブ−イスラーム主義だけを唯一正当なものとして認め、世界中で誰も語しておらずコーランの中にのみ存在していた書き言葉としての正則アラビア語(スーハー)を公用語として採用して、全国民にそれを書き、話すよう強制してゆくのである。
 べン・ベラは「カストロ社会主義」を公言していたが、63年3月20日のラジオ放送で彼の発した政令によって合法性を獲得した農地や企業の「自主管理」が、数少ない大企業の国有化とともに、その社会主義の主たる内容だった。植民者の逃亡の後に残された農地のほとんどと、商店、工場の一部が総会での決定を最優先する直接民主主義の「原則」によって運営され、農地について言えば、65年にはほとんどすべての「近代的」農業部門が自主管理され、全国の農業生産の60%を生産するようになった。しかしこうした「自主管理」も、国家から独立したものではなく、指導部はFLNによって任命され、下部が決定した方針に拒否権を持つというまったく不完全な「自主管理のカリカチュア」たった。これは、ベン・ベラが上から押し付けた「自主管理」の真の目的が、生産関係の改革ではなく生産性の向上にあったからでもあるが、しかしその生産性の向上も、技術者の不足、機材の老朽化などが原因でまったく効果がなく、例えば穀物については国内消費量の3分の2しか生産できなかった。「自主管理」農場で働く者は12万人足らずで、全農民の1割に満たず、残りの9割の農民は依然として貧困の中に置き去りにされていたため、コンスタンティノワなどの地域では農民暴動も発生し、不作が原因で農村から都市への大量の脱出が起き、さらに200万人の失業者からは都市でのデモや略奪行為も頻発していた。62年から63年にかけて、工場の生産も軒並みダウンし、その生産量は約半分に下がった。この間、増大したのは公務員、とりわけ軍人の数だけで、8万名いた民族解放軍(ALN)は民族人民軍(ANP)と名を変えて12万名に増え、国家予算の1割を消化していた。
 ベン・ベラ政権発足後も、この経済の行き詰まり状態は解消せず、逆に悪化するばかりであった。ベン・ベラは、130年にわたるフランスの植民地支配のつけを1人で払おうとしてますます苦境に陥っていったのだとも言えるが、その真の原因は、民衆の下からの社会変革の力を組織せず、一方的に名前だけの不完全な「自主管理」を押し付けたところにあると言うべきだろう。この状態を打開するため、1つは、つい先程までの戦争相手であったフランスからの援助を求めることにし、63年には13億フランの借入れを受け取ったが、それはフランスの新植民地主義支配の始まりとなった 。もう1つの方策として、「先進国」の技術と文化を身に付けたフランス人の協力を求めたが、実際にアルジェリアの新社会建設に夢を託してやってきた者は教少なく、本国に帰還したピエ・ノワールからピエ・ルージュ(赤い足)と呼ばれた彼ら共産主義者には、現状を変える力はなかった。進に、独立によってフランスヘの移民ブームが起き、ちょうど高度成長期にさしかかり肉体労働者を必要としていたフランスと、農村からあふれ出てきた同胞に職を提供できず外貨を必要とするアルジェリアの思惑が一致して、65年には45万人のアルジェリア人がフランスで働く状況が生まれたのである。
 こうした中で、ベン・ベラは袋小路に陥り、64年4月のFLN大会ではマルクス主義的言辞を空しく叫び、国にとって第1の脅威である「ブルジョワジーと結託した部分」との闘いを強く押し出してくる。べン・ベラがしかし、最も脅威に感じていたのは、独立以降着々と勢力を伸ばして、副大統領兼国防大臣としてソ連の援助によってANPを増強し、さらには「軍保安部」と呼ばれる秘密警察を組織してきたブーメデイエンであった。ペン・ベラは次第に自分の周囲に包囲網が完成されてゆくのに危機感を持って、64年の間に次々とブーメデイエン派の閣僚や幹部の首を切り、それらの役職を自分が兼任するようになる。すでに大統領、総理大臣、FLNの書記長を兼任していたペン・ベラは、さらに情報・教育相、内務相、財務相外務相まで兼任し、まるでブーメディエンのクーデタを自ら呼び起こすかのような過激な行動に移っていった。そうして、65年6月19日の午前1時30分に、ブーメディエンの戦車がアルジエに入り、べン・ベラを逮捕するとともに、市内の拠点を押さえ、その日の昼には、ブーメディエンがラジオで革命評議会が全権を掌握したことを宣言するのである。べン・ベラはこの後、15年間を獄中で過ごすことになる。