SIについて最近下された判決選


 AFGES*1議長アンドレ・シュネデールは、同志を代表して発言し、同協会〔AFGES〕の解散が現執行部の主要目標の1つであると宣言した。なぜなのか。解散を宣言するために発表されたコミュニケのなかで明言されているように、学生組合運動に対する軽蔑がその理由である。(中略)おそらく彼らは、学生の大義を守るつもりが裏目に出たのだろう。それどころか、そうした大義などばかにしている。連帯も相互扶助も、彼らにとっては意味のない言葉である。彼らの教義(ドクトリン)──薄汚れた古巣を決して出るべきではなかった彼らの馬鹿げた駄作に関して、教義という言葉を使えるとしての話だが──は、ニヒリズムに基づいた過激革命主義である。(中略)それは、愚かしい狂信のモニュメントであり、うぬぼれた隠語ばかりを使って書かれたこのモニュメントは、同志にも教師にも同じように浴びせかけられる根拠のない罵詈雑言と侮辱で味付けされている。そのなかでは、たえず、隠れた組織(オカルト)「シチュアシオニスト・インターナショナル」が引き合いに出される。この長髪の扇動家たちと同じ言い方をするのなら、わざとこう言うこともできるだろう。彼らは自分たちの知的悲惨主義の泥のなかをうっとりとして転げ回っているのだ。この事件に責任のあるその信奉者たちのほとんどは、自らの知性に合わせて肉体を作り出すすべを心得ていた。この小型アブサロムたちは、自分ではそうなるまいとしているにもかかわらず、ビートニクとプロヴォの雁首を並べたご立派な一団なのである。

『ル・ヌーヴェル・アルザシアン』紙(66年11月25日付)

 ところで、AFGESは、去る5月の選挙以来、狂信家(イリュミネ)集団の餌食となってしまった。この集団は、革命家と称してはいるが、いずれにせよ、ニヒリストであることはまちがいない。というのも、彼らは、学生と労働者の組合運動を手始めに、あらゆる社会機構を解体し、破壊することによって、革命を行うつもりだからだ。その宣言は数子部が刷られ、シチュアシオニスト・インターナショナルなる陰の組織(オカルト)を何度も公然と参照しつつ、UNEFならびにAFGESの略号のもとに出版されたが、そこには、AFGESの新教義(ドクトリン)が表されている。本質から言って、この宣言は、現代の社会と文明についての批判的で曖昧な判断を寄せ集めて、この上なく不明瞭な言い方で提出したものである。そのため、この運動のインテリたちは、歴史上の偉大な革命家たちの諸理論を本当に消化していないのではないかと思わせる。ある種の社会学的現象に対する異議申し立てには、新しいもの、独創的なところはまったくない。「今日、非難せねばならないのは、労働そのものである」という、革命に付与された合目的性だけが新しい。(中略)しかも、だからこそ、今日、興味を引き、評価するにふさわしい唯一の要素は、「学業システムのなかで最上のもの、つまり奨学金をつかんでいる者たち」ということになる。AFGESで権力に就いた革命的な似非インテリ集団がどういうものであるか、これで分かるだろう。

『ラルザス』紙(66年11月二26日付)

 事実、一握りのわがシチュアシオニスト・インターナショナリストは、「プロヴォ」をあまりにもブルジョワ的だとみなし、比較例として「偉大な夕べ」〔=革命の当日〕のカミカゼたちが日本で結成した「革命的共産主義者同盟*2を挙げている。この偉大な夕べを待っている間に、いくつもの夜が過ぎてゆくだろう。ストラスブールでは最初のコルホーズが話題になりヽ機会があれば、この良家の子女らが「革命的」アフリカ人学生たちにも自分たちの虚無的熱狂を共有させようとしている。(中略)──この語をあえて使えば──の面で、わが「シチュアシオニスト」らは、「今の社会を解体し、自由の君臨する世界 に到達すること」を提案する。彼らのモットーは「死んだ時間なしに生きること、制限なしに楽しむこと」だ。彼らのふざけた言葉を信じるなら、綱領のこの最後の点は、すでにAG〔総連合会〕の本部で実現されつつあると言えるかもしれない。そこでは、グループ・セックスが実際に「制限なしに」開花しているらしい。ストラスブールには、もはや秩序は君臨していない。何と言うことか! 何年もの進歩主義的戦闘主義が、学生組合運動をこんな妙な連中の手に委ねることになったということが、UNEFの失敗を雄弁に物語っている。

『ミニュットウ』紙*3(66年12月1日付)

 「シチュアシオニスト・インターナショナル」のテーゼには特異なところがあり、学生を誘惑するのにうまくできている。つまり、なかなか乗り越えがたい過激主義のテーゼなのである。(中略)文学的に格調の高いそのテクストは、束西両陣営に存在するあらゆる社会的、政治的組織形態のみならず、そうした組織形態の変革を試みているどのような反対勢力も体系的に拒否する姿勢を示している。こうした体系的破壊の企てのなかで、最も辛辣な攻撃は、革新者たちに向けられる。われわれの時代の最も進歩的な哲学者、作家、芸術家が、諸制度、政党、労働組合と同じように、完膚無きまでにこき下ろされる。(中略)カリカチュアとも言えるほど感動的なこの世界観には、大衆の革命能力と自由への適性に対するメシア的な信頼が付け加わり、さらに。フーリエ主義、ダダイズムトロツキズムなど多くのユートピアが復活しているのが見られる。

ル・モンド』紙(66年12月9日付)

被告人らへの非難の因となったAFGESの利子管理不行き届きは、被告人らがAFGESの費用で、約5000フランを費やしたパンフレット1万部*4、および、「シチュアシオニスト・インターナショナル」から発想を得たそれ以前の他の出版物*5を印刷、配布した事実に起因することは明白であり、この事実に被告人らの異議申し立てがないことをかんがみ(中略)。さらに、この5名の学生は、思春期をかろうじて出たばかりの年齢で、何らの経験もなく、哲学。社会、政治、経済に関する消化不良の理論を頭に詰めこみ、自分たちの陰鬱な日々の倦怠をいかにして消散すべきかも分からぬまま、自分たちの学友や教師、神、諸宗教、聖職者、全世界の政府および政治・社会体制に対し、下劣なまでに侮辱的な決定的判断を下すという、無益、高慢かつ滑稽な自惚れを述べ立てていること、次いで、被告人らは「制限なしに楽しむ」ため、あらゆる道徳、あらゆる合法的制限を拒絶して、破廉恥にも、盗み、授業放棄、労働の廃絶、全面的転覆、後戻り不可能なプロレタリア世界革命を説くまでになっている、これらのことを確認するには、実際被告人らがその著者であるこれらの出版物を読むだけで十分であることをかんがみ(……)。

ラバドール裁判長

1966年12月13日、

ストラスブール大審裁判所により言い渡された

急速審理の決定

 不要品の一掃である。つまり、ストラスブールの若き「シチュアシオニスト」たちは、すべてに反対する。古いがゆえに、古い政党に反対。そのうち古びてゆくがゆえに、新しい政党に反対。大学に反対。彼らの言うには、大学とは自由のない社会の幹部を製造するから、その幹部製造の幹部である教師に反対。現代芸術という、われわれの目前で解体しつつあるこの「亡骸」に反対。他の者たちに劣らず実存しない実存主義者に反対。とりわけそれ自体によって「乗り越え」られた宗教に反対。互いに我慢し合っているがゆえに──我慢のし合いは、癒しがたい無意志の証明だ──、アナキストにも反対する。自分だけのマルクス主義にどっぷりと腰を落ち着けているため、そのマルクス主義から抜け出て革命を行うことなど思いも寄らない公認のマルクス主義者にも反対。そして、既成秩序に反逆する、シチュアシオニストの偽の兄弟である、アムステルダムの「プロヴォ」に反対する。シチュアシオニストの寵愛〔=恩赦〕を受けるのは。1つの教義(ドクトリン)、つまりシチュアシオニスムだけである。それが、彼らの唯一の弱点だ。

アンドレ・フロサール*6

フィガロ」紙(66年12月17日付)

 シチュアシオニストたちの大仰な言葉遣いは、大した結末をもたらさない。(中略)。しかも、革命的労働者運動から発された情報を流すのを拒否するブルジョワ新聞が、いかに熱心にこの道化役(プルチネッラ)の大仰な言い方を自分でも使って大衆化させているかを目にするのは、興味深いことである。

ル・モンド・リペルテール」誌*7(1967年1月号)

 私はもう、かってのように「ル・モンドリベルテール」に寄稿しなくなっているが、同誌がそこに登場する人から悪口を言われることも好まなければ、例の新バロック様式であるシチュアシオニスムに対する絶対自由主義的な行動を少しでもほのめかすことを、軽蔑して避けることもまた私の好みではない。(中略)問題のパンフレットの文章は、1914年以前に何十回も、そのままの形で(文体、意図、罵晋雑言の面で)読んだことがある。(中略)シチュアシオニストモダニズムは彌縫策の匂いがあまりにも強いので、彼らの行動方針にはいずれにも期待できない。現在の情勢が提出する問題は、何よりも、自分で自分のことを判断できない責任者についての能力と責任の問題なのである。

C・A・ボンタン*8

ル・モンドリベルテール」誌(1967年1月号)

 弁護士が続けて言ったことは、これらの法規が、事実、AG〔総連合会、UNEF地方支部のこと〕にはいかなる政治活動も禁じられていると定めているにもかかわらず、共産主義を援用しカール・マルクスとラヴァショル*9に賛辞を表している「シチユアシオニスト」の委員会の場合は、そうではなかったということである。(中略)。ボマン女史〔=弁護士〕は、学生自治会の解散によって、数世代にわたる学生たちの努力を無に帰そうとする「シチュアシオニスト」の委員会のイニシアティヴと、同委員会による横領──11月22日の例の宣言の出版費用4500フラン、謎の組織「シチュアシオニスト・インターナショナル」の本部がある日本への電話代317フランも含めての2ヵ月の電話通信費1500フラン以上──と、学生界のただなかに広まっている好ましくない精神状態とを非難した。

「コンパ」誌*10(67年2月15日号)

 何年も前から──すなわち、シチュアシオニストたちが一時的に闇から姿を現すずっと前に──、私は自分自身に対して「問題を提出して」きたし、運動に対しても問いを立ててきた。これは必要なことだと私はつねづね思っているし、これからもそれは変わらないだろう。しかし、FA〔アナキスト連盟〕の今の形態に反対する私の立場が、アナキズムの刷新を口実にしてマルクス主義のごみ箱のなかに鼻をつっこみ、発想のもとを嗅ぎあてるような者たちに併合されたり、論拠として役立ったりすることについては、私はこれを絶対に拒否する。(中略)その他のことについては、風とともに去りぬだ。というのも、明日になれば、シチュアシオニストなどもういないだろうから。

セザール・ファヨル*11

『校庭における哲学』に発表された見解

(1967年2月)

 ストラスブール学生連合の「シチュアシオニスト」委員会の事件は、大学関係者のなかに動揺を巻き起こし続けている。(中略)ストラスブール大学文学部のさまざまな学科に所属する約40名の教授と助手は、われわれに書簡をよこし、そのなかで、特に次のように主張している。「この連中の声明文や誹誇文、曖昧模糊とした口論、彼ら相互の破門に何らかの関心を見出すには、自惚れや先入見が大いに必要である」と。

ル・モンド」紙(67年3月5日付)

 学生の新しいイデオロギーが世界中に広まっている。それは、若きマルクスの脱水版で、「シチュアシオニスム」と呼ばれている。その信奉者の数名が、ロンドン・スクール・オブ・エコノミックスで1週間のシット・インを行い、紙と印刷手段がなかったのでたいへん苦労をしてシチュアシオニストの1つの宣言文を複製した。これは、この事件でいくらか知的な唯一の成果だった。厳格なセクト主義──その宣言文には、アムステルダムの「プロヴォ」でさえ、ディレッタント扱いされている──によって、シチュアシオニストたちは、学生には高度資本主義のただ中での異議申し立てが天職としてそなわっていると思っている。その推論が最も首尾一貫した箇所で、プロレタリア革命は祝祭となるか、さもなくば無かのどちらかだろうと、彼らは主張しているのである。

「デイリー・テレグラフ」紙(67年4月22日付)

 シチュアシオニストとプロヴォとの間に同じ思想の系譜が存在するのは疑う余地がない。彼らの対立点は方法に関するものである。シチュアシオニストは闇のなかで行動するのを好み、自らが断罪する社会にとってアリバイとして役立つことを拒否する。プロヴォの方は、広告の曖昧さを故意に受け入れることで、自分たちが開かれた闘争だと思うものを選び取った。事実、シチュアシオニストにせよ、プロヴォにせよ、シグマの主唱者*12にせよ、同じ思想グループに属している。われわれはここで、彼らに固有な特徴を詳述するつもりはないし、同様に、さまざまな判断基準のなかから1つを選び出し、それをもとに何らかの位階秩序を打ち立てるつもりもない。さらに、プロヴォの個々のリーダーにシチュアシオニスト運動が及ぼした影響の度合いを推し測ることも行うつもりはない。

「サンテーズ」誌*13(1967年4−5月)

 つまり、これらのセクトにあり余るほど見かけられる神経症の知識人たちとともに、綱領と行動戦略を練り上げようと考えることがどれほど困難かということだ。この指摘は、とりわけ、シチュアシオニスト・グループとその雑誌「アンテルナシオナル・シチュアシオニスト」に当てはまる。『日常生活批判』*14の含意と帰結に気づいたのは、シチュアシオニストが最初であった。彼ら自身の告白によると、彼らは、1946年に最初の巻(「序論」)の出たこの著作から多大な恩恵をこうむっているようだ。困難な時期に、この著作の射程を明確にさせつつ、革命の本質的な合い言葉である、生を変えるということを守っていたのは、ほとんど彼らだけだったと言ってよい。彼らは、疎外理論をより洗練しようと努めながら、人類愛的なヒューマニズムを誇らしく掲げることもなく、疎外理論を守り通してきたのである。攻撃からこの理論を守ってきたのだ。彼らはまた、都市問題とイデオロギーとしての今の都市計画に対する批判とが、どれほど重要であるかを最初に把握した者たちの1人である。そして、その基礎の上に、セクト特有の悪意と神経過敏の点では他のいかなるものにもひけを取らない教条主義を築き上げたのである。ところで、彼らが提起するのは、具体的なユートピアではなく抽象的なユートピアである。ある朝、もしくは、ある決定的な夕べに、人々が「たくさんだ! 仕事も倦怠もたくさんだ! 決着をつけよう!」と互いに言い合いながら、見つめあって、不滅の祝祭のなかで状況の創造に入る様を、彼らは本当に思い描いているのだろうか。1871年3月18日〔パリ・コミューン成立の日〕の明け方に一度、そういうことはあったが、このような情勢が産み出されることはもう二度とあるまい。

H・ルフェーヴル*15

テクノクラートに反対する立場』*16

(ゴンティエ出版社、1967年第24半期)

 シチュアシオニスト・インターナショナルは、革命理論を包括的社会をめぐる現実的運動にまで高めるうえで、決定的な貢献をした。日常生活の場にラディカルな批判をもたらすという功績をあげ、同時に、全体性の観点と、哲学ならびに芸術の乗り越えと実現の計画とを採り入れた。自主管理理論を社会生活の全領域にまで拡大し、遠慮がちに経済学批判の口火を切り、最小限度の言行一致が必要であると主張した。周囲の悲惨な情況に比べると、時にはコルシュ*17ルカーチ((((ジェルジ・ルカーチ))(1885−1971年) ハンガリーの哲学者・批評家・マルクス主義理論家。1922年発表の「歴史と階緻意識」は、「全体性のカテゴリー」と「弁証法」をマルクスの著作において復権させ、その後の「西欧マルクス主義」の思想的出発点となったことで知られる。))、さらにはマルクスのそれにも匹敵する理論の質的レヴェルは際立っている。しかし、歴史的役割を果たし終えたあらゆる理論形成物の場合と同じように、この理論も進歩的な役割を演じることを終え、ますますイデオロギーに堕してゆくことだろう。(中略)主観的なものと客観的なものとの間に存在する裂け目は、両者の同一性が〈唯一者〉によって受肉されることによってはじめて解消されるだろう。三段論法を分解すれば、SI以外には革命家は存在しないというのが大前提で、SIとはドゥボールのことだというのが小前提、それゆえ結論は、世界には革命家はドゥボール1人だけということになる。革命を横領し、独り占めしようと望むこうした馬鹿げた自惚れを前にしては、ただ微笑むだけだ。このようなものの考え方は、貴族的な反抗観に属している。革命は社会の大規模な遊び〔=ゲーム〕にまで貶められ、そこでは、何よりもまず「美しい行動」を達成することが重要であり、次に、そうした行動のなかで気取った自己満足にひたりながら自己を観想することが可能になるというわけである。プリズユニック*18のまぎれもないゴンディ*19であるドゥボールは、さしずめ、幻滅した枢機卿*20のパロディーにすぎない。この枢機卿は、下卑たものになりはてた日常生活に直面して、官僚主義的−ブルジョワ的装置の興隆に向かって希望のない闘争を審美的な遊び〔=ゲーム〕として行い、同時にそれをしている自分を見つめているのである。(中略)シチュアシオニスト・インターナショナルは、一見、形の定かでない集団に見えるが、実際は、最初から運動全体を手中におさめていた(……)〈唯一者〉としてのリーダーによって強力に構造化されているのである。

フレー*21、ガルノー*22ほか

『唯一者とその所有』*23(アグノー社、1967年第2四半期)

 人々を揺さぶった事件とは、シチュアシオニストのパンフレットと、それに対する新聞での私の返答のことである。大したことではなかった。われわれの側からはいかなる挑発もしていないのに、図書館通いの一握りの革命家によって侮辱されたので、私はこの鼻持ちならない連中に対して、それにふさわしい口調で答えたまでだ。それが、活動家としての私の権利のみならず義務でもあった。そして、そこで済んだはずだった。しかし、ボドゥソンという輩が引き金となってスキャンダルを起こし、それが、わが組織の息の根をとめるのに絶好の瞬問を何年も前から待っていた第五列*24全体によって引き継がれたのである。(中略)確かに、私は彼らの雑誌を読んだことは一度もなかった。だが、無政府主義の理論家のものなど1つも読んだことのない奴らが、読書が足りないと言って私を非難するのは、ばかげたことだ。彼らはおぞましいだけでなく、笑止千万でもある。シチュアシオニスムがどこに位置しているのか、私には完全に見えていた。つまり社会批判だが、それは、反対派のすべてに対する批判にほかならない。そんな批判は容易いことだ。当然、〈革命〉のサロンの常連なら誰もが持っているちょっとした露出趣味にすぎない。当然また、国家──もちろん、刷新された国家だ──を排除しない合目的性でもある。(中略)というのも、一部の不作法者が激しく抗議したことによって、われわれは、問題の核心に触れることができたばかりか、「アナキスト連盟」を解体するためにマルクス主義寄りの者たちがたくらんだ陰謀を細部にいたるまで白日のもとに暴くこともできたからである。(中略)あらゆる策略が失敗したことが分かると、今度は最後の戦術、いわゆる「シチュアシオニスト」戦術が適用される。アナキスト連盟を内側から崩壊させようと試みる破壊工作者たちを、組織内部に送り込むのだ。連盟が消えてなくなり、新たな機関に席をゆずることになるように。この新たな機関は、人間の自由を保証する絶対自由(リベルテール)の略号のもとにマルクス主義者の作戦をやり直すことを可能にするが、その作戦には〈革命〉はないが、その代わりに楽で実入りの多い役職を能なし指導者のために取ってある!

モーリス・ジョワイユー*25

『レルネのヒュドラ無政府主義小児病』

ボルドー大会での報告、1967年5月)

 しかし、合州国に対して遊撃戦を行うことによって、フランスでの行動はかなりうまくゆくと考える者もいる。武器による遊撃戦ではなく、ジャンソン*26・ネットワークの方法を採り入れた遊撃戦だ。つまり、米兵の脱走をヨーロッパで挑発するのである。ここで問題にしているのは、フランスのジャンソン・ネットワークの元活動家たち、オランダのテ・フリース*27のプロヴォたち、特にコペンハーゲンで見事に組織されているシチュアシオニスト・インターナショナルのメンバーたちが居合わす国際的なネットワークのことである。

『ミニュットウ』紙(67年5月18日付)

 とりわけ、われわれは、想像力が特殊な対象──例えば都市──に固定されているかぎり、いわゆる現実に決着をつけることができるとは思わない。古くからあるユートピアが最後に姿を変えたものが、統一的都市計画の理論である。シチュアシオニストは、都市に関する問題系(プロブレマティック)が社会の全体的な問題系(プロブレマティック)をカバーし、それを解決すると仮定する。都市は世界になり、世界は都市になるというわけである。

ルネ・ルロー*28

ユートピア』誌第1号(1967年5月)

 まさにその時、人を不安に陥れる「シチュアシオニスト・インターナショナル」の面々がはじめて姿を現す。彼らは何人いるのか、出身はどこか、それは誰も知らない。平均年齢は約30歳。彼らの特徴をよく示す印として、次のことが挙げられる。音よりも速く進む思考、読書経験の豊富なお歴々によく見られる居心地のよさそうな、時として粋なところもある様子、自分たちをとりまくあらゆるものに対するほとんど病的な軽蔑、ユーモアのピンセットを使って問題にアプローチするそのやり方。彼らは、社会学者、文献学者、理論家である。彼らは、学業を終えて、パリ、ドイツ、あるいは、その他のところに住んでいる。

『ル・レピュブリカン・ロラン』紙(67年6月28日付)

*1:AFGES ストラスブール学生総連合会の略称。フランス全学連(UNEF)の地方支部(AGE)の1つ。1966年5月の総会での抜き打ち選挙で、UNEFの改良主義に批判的でSIのシンパの学生グループが執行部に選出された。

*2:革命的共産主義者同盟 1955年の日本共産党六全協によるそれまでの「極左冒険主義」の自己批判と路線転換、56年のスターリン批判とハンガリー事件などに触発されて57年1月に結成された〈日本トロツキスト連盟〉の黒田寛一らが、日本共産党京都府委員西京司らの参加を得て、57年12月に改名して結成した政治党派。帝国主義批判とスターリン主義批判を基調とし、その後三度の分裂を経て、63年以降革マル派と分かれて現在の革共同中核派となった。60年安保闘争以後の全学連の主導権争いと混迷の時代には、分裂と再編が著しかったが、66年12月に社学同社青同解放派とともに〈三派全学連〉を再建して以降、67年10月8日の佐藤ヴェトナム訪問阻止の第一次羽田闘争、11月の第二次羽田闘争、三里塚闘争への初の組織的参加、68年1月15日の佐世保エンターブライズ寄港阻止闘争など、その闘争を激化させ、60年代末の大学反乱を準備してゆく。

*3:『ミニュットウ』紙 現在も発行されているフランス極右の週間新聞。若者の道徳の乱れや、左翼運動の失敗や腐敗をゴシップ的に取り上げ、批判する記事を多く掲載している。

*4:パンフレット1万部 『学生生活の貧困』のこと。参照

*5:シチュアシオニスト・インターナショナルから発想を得たそれ以前の他の出版物 『ドゥルッティ旅団の帰還』のこと。参照

*6:アンドレ・フロサール フランスのジャーナリスト。著書に『イエスの国への旅』(65年)、『恐れるなかれ! ヨハネパウロニ世との対話』(82年)、『悪魔 の存在の36の証明』(91年)、『偉大な牧人たち──アブラハムからマルクスまで』(92年)など。

*7:ル・モンドリベルテール」誌 フランスのアナキスト連盟(FA)の機関誌。

*8:オーギュスト・ボンタン フランスの詩人・アナキスト。詩集に「エゴイズム礼賛」(55年)。「マージナルな者たち」(79年)、小説に「森のフェリックス」(59年)など。

*9:ラヴァショル(本名フランソワ・クローディウス・クーニグシュタイン  1859−92年) フランスのアナキスト。染物工として働きながら、1892年に逮捕されたアナキストの復響のため、数多くのテロを行い、自らも逮捕されギロチン刑に処せられた

*10:「コンパ」誌 1942年、第二次大戦中占領下フランスで「レジスタンスから革命へ」の標語でレジスタンスの新聞として創刊されたが、戦後も、作家のアルベール・カミュを主幹として既存の政治の革新をめざす批評誌として発行され続けた。1974年廃刊。

*11:セザール・ファヨル 不詳だが、FAの内部にあって、FAの官僚主義化を批判し、1960年の大会でFA改革案を発表したモーリス・ファヨルの偽名か、あるいはその兄弟かもしれない。

*12:シグマの主唱者プロジェクト・シグマ〉を提唱してSIを脱退したイギリスのシチュアシオニストアレキサンダー・トロッチのこと。265頁の訳注を参照。

*13: 「サンテーズ」誌 1954年にベルギーのブリュッセルでモーリス・ランビヨットが創刊した月刊誌。轜集長はシャックリーヌ・メイェール。「国際月刊誌」と銘打ち、ヨーロッパの各国の知識人を執筆陣に迎えている。引用は、同誌の第251−252合併号1967年4−5月)に掲載されたジャン=ミシェル・ミノンの「〈プロヴォ〉、以前と以後」と題された記事からのものである。

*14:『日常生活批判』 ルフェーヴルの1957年の著作『日常生活批判』(邦訳『日常生活批判 序説』)と62年の『日常生活批判2 日常性の社会学の基礎』(邦題『日常生活批判1』のこと。前者は1946年発表の『日常生活批判序説』に新たに長い序文を付けて再刊したもの。本書第3巻52頁の「日常生活の意識的変更のパースペクティヴ」の訳者改題を参照。

*15:アンリ・ルフェーヴル(1901−91年) フランスの社会学者。1930年代にマルクス主義に接近し、58年にスターリン批判と共産党アルジェリア政策判を軸とした雑誌『レタンセル(花火)』を発行してフランス共産党を除名されるまで、党の理論家の1人として活動、高度資本主義社会の日常生活を社会学的に研究し、正統派マルクス主義の変更を迫る大著『日常生活批判』(第1部、1958、第2部、61年。その『序説』は、1947年に発表)や、スターリン主義を告発した『マルクス主義の当面の諸問題』(58年)により、左翼・知識人から芸術家までに大きな影響を与えた。50年代末から60年代にかけては、都市論や大衆社会論に関心を向け、シチュアシオニストにも接近した。

*16:テクノクラートに反対する立場』 1967年、パリのゴンティエ書店から出されたルフェーヴルの著書。邦訳。紀伊国屋書店。1970年。

*17:力−ル・コルシュ(1886−1961年) ドイツのマルクス主義哲学者,1919年独立社会民主党に入党、翌年からドイツ共産党員となり、23年に『マルクス主義と哲学』を発表、第2インターナショナルの実証主義唯物論と意識反映論の独断性を批判、唯物論の内部に弁証法哲学を復権させ、唯物史観における社会的意識の役割を評価した。また、共産主義運動の新たな組織原理としてレーテ(自主管理)連動を提唱し、積極的に実践活動にも参加したが、党主流派との意見の不一致から26年に除名。36年には米国に亡命した。

*18:プリズユニック フランス全国にチェーン店を持つスーパーマーケット。そこから「大最消費社会」の比喩として用いているものと思われる。

*19:ゴンディ 16、7世紀以来、銀行家や外交官を輩出したフィレンツェの名家で。フランスに定住。青年期に決闘、恋愛の奔放な生活を送り、フロンドの乱で反マザラン派として活躍、投獄されたレス枢機卿を産んだ家系で、ゴンディだけでレス枢機卿を指すこともある。「プリズユニックのゴンディ」とは、「大最消費社会の不屈の貴族的活動家」というような意味で言われているものと思われる。

*20:ある幻滅した枢機卿 レス枢機卿 (490頁の訳注を参照)のこと、彼はゴンディ家の出身である。

*21:テオ・フレー  フランスのシチュアシオニストストラスブールで活動したが、「ストラスブールのスキャンダル」以降、ジャン・ガルノーらと分派活動を行ったため1967年1月に除名。

*22:ジャン・ガルノー フランスのシチュアシオニスト。1967年1月に除名。アンテルナシオナル・シチュアシオニスト 第11号『アルザスイデオロギー』の「訳者解題」を参照。

*23:『唯一者とその所有』 正確なタイトル『唯一者とその所有──前衛主義の批判のために──シチュアシオニスト・インターナショナル崩壊に関する資料付』といい、エディット・フレー、エルべール・オール、テオ・フレー、ジャン・ガルノーの4名の元シチュアシオニストが刊行した。内容は、4名の署名のある1967年3月付けの4ページの文章(SIのここでの引用は、この文章から取られている) の他は、「ストラスブールのスキャンダル」以降のSIと「ガルノー派」それぞれのビラやパンフレットの復刻である。すなわち、ガルノー派の除名を告げる67年1月15日付の 「SIの回状」、自分たちの除名を隠して脱退を宣言したガルノー派のビラ「真理は革命的である」(67年1月16日、がルノー派4名の署名)、SIを批判するガルノー派のピラ「シチュアシオニスト生活の糞」(67年1月19日付)、SIによるガルノー派批判のビラ「注意! 3人の挑発者が」とそのビラにガルノー派が付けたノスケによる共産主義者への投降勧告文の復刻、最後に、ガルノー派のビラ「ただ糞だけ、だがすべて糞」(67年2月2日付)である。「唯一者とその所有」はもちろん、アナキズムの元祖としてマルクスに批判されたマックス・シュティルナーの主著のタイトルをそのまま用いたものである。

*24:第五列 スペイン戦争の時、フランコ派の4つの縦隊に攻撃された共和派のマドリードで、市内からフランコ軍に呼応して行動したフランコの信奉者。転じて、自国にいて敵と通じた者を指す。

*25:モーリス・ジョワイユー フランスのアナキスト。戦後に再結成されたアナキストの連合組織〈アナキスト連盟〉(FA)の中核であるルイーズ・ミシェル・グルーブの中心人物として一貫してFAの中心で活動した。67年5月のFAボルドー大会は、ヴェトナム反戦運動など現実の闘争の高まりに呼応して実践闘争を強化すべきだという意見がFA内の諸グループのあいだで高まり、また多くのアナキストがSIの影響を受けてFAの組織的統一にとって脅威となったなかで開催されたが、ジョワイユーはFA反対派のそうした議論に強く反対し、結果としてFAから多くの離反者を出すことになった。「レルネのヒュドラ」とはギリシャ神話のレルネ湖に住む蛇の怪獣のことだが、ここでは同名の機関紙を出していたFA反対派でアナキストの実践活動を主張し、67年大会後にFAを去ったグループを差している。

*26:フランシス・ジャンソン(1922−) フランスのジャーナリスト、アルジェリア反戦運動の活動家。第二次大戦陵、サルトルが創刊した『レ・タン・モデルヌ』の編集委員として活勤していたが、1955年、FLNの初期の闘いとフランス植民地軍の弾圧を描いた『法の外のアルジェリア』の発表をきっかけに、翌年、FLNと接触、57年10月からFLNを支援する非合法のネットワークを形成する。「ジャンソン機関」と呼ばれるこのネットワークにはキリスト者共産党を離脱した知識人・青年ら多くの人間が連なり(1960年始めには、その数は4千名にまでなっていた)。トゥールーズ、リヨン、マルセイユなどフランスの各都市のみならずベルギーなど国外にも広がっていった。ジャンソンのネットワークは、FLNがフランス国内で調達した資金を第三国(特にスイス)の銀行に運搬したり、FLNの活動家へのアジト提供や移送というFLN支援の具体的活動のほか、フランス人の若者に対して脱走と戦闘拒否の呼びかけを行い、〈若きレジスタンス〉という反戦青年組織を作り出すなどの成果を上げた。ジャンソンのネットワークは創設から3年間もフランス警察の網をくぐり持ちこたえたが、1960年2月に初の逮捕者を出し。大々的に弾圧され、ジャンソン自身は地下に潜行した後、スイスに亡命した。

*27:デ・フリース プロヴォの指導者の1人ベルンハルト・テ・フリースのこと。プロヴォのなかでは最も穏健派で、1966年6月のアムステルダム市議会選挙でプロヴォが1議席を穫得したときに、アナキスト式のローテーションに従って、最初に議員を務めたことから、マスコミではプロヴォの代表と誤解されている。 参照

*28:ルネ・ルロー フランスの社会学者、66年、元〈社会主義か野蛮か〉のメンバーのイヴォン・ブールデ、ダニエル・モテとともに『オートジェスチオン〔自主管理〕』の編集委員を務め、ラパサードの唱える「制度分析」を自らも行う。著書に『制度分析』(70年)、『教会の分析──制度分析とキリスト教界』(72年)、『自主管理に関する問い』(79年、共著)など,ルフェーヴルの大著『総和と余剰』(1989年版)に序文も書いている。