われわれの普及について

 パンフレット『学生生活の貧困』のフランス語版第1刷1万部が2ヶ月のうちに売り切れたので、SIは3月に、その第2刷を同じく1万部印刷した。このパンフレットは、その後数ヵ月にさまざまな国で翻訳され再版された。イギリスでは、その最初の全訳に続いて、注とテクスト「社会革命をするのなら、快楽のためにそれをしたまえ」を加えた増補版が、『大学を揺るがした10日間(ストラスブールシチュアシオニスト)』*1という総題のもとに出版された。合州国では、ニューヨークでトニー・ヴァラーン*2監修による別の翻訳が出た。しかも、それとは異なる部分訳(ジム・エヴラードの訳)がシアトルで出版された。スウェーデンでは、アンデルス・ロフヴィストとグンナー・サンディン校訂の全訳がルントそれからストックホルムで出た。いくつかの抄訳が、スペインの革命的雑誌『アクシオン・コムニスタ』*3、イタリアの雑誌ではミラノの『ヌオヴァ・プレゼンツァ』*4とローマの『ファンタツァリア』に掲載された(ローマの雑誌の方は、マリオ・ペルニオーラによるものだが、彼は、12月にSIに好意的な論文「芸術と革命」を雑誌『テンポ・プレセンテ』*5に発表していた)。ほかにも、未刊の全訳が、スペイン、オランダ、西ドイツ、デンマークですでに完成している。
 ワッツ蜂起に関するわれわれの1965年の英語パンフレット(『「スペクタクル的」商品経済の衰退と崩壊』)が、1966年にロンドンの雑誌『カドンズ』に再録された。同年に、ヴァネーゲムのテクスト「当たり前の基礎事実」がパンフレットとして「子供のための全体性(ザ・トータリティ・フォー・キッズ」という題名で出版された(翻訳はクリストファー・グレイ*6)。このパンフレットは近く再版されることになっている。イギリスの雑誌『シチュアシオニスト・インターナショナル』*7の第1号は、1968年のはじめに出るだろう。
 SIは、1月にビラ『注意! 3人の挑発者が』*8を発表したが、そこには、ガルノー派の不名誉な除名のことが説明されている(この資料は、われわれに注文してくれさえすれば、まだ誰の手にも入る)。
 8月に『中国におけるイデオロギーの発火点』がパンフレットとして出版され、その発行部数は6週間でほぼ完全になくなった。
 『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌本号は、5千部発行される。

*1:『大学を揺るがした10日間(ストラスブールシチュアシオニスト)』 『学生生活の貧困』の全訳と注、序文、後記「”社会変革をするのなら、快楽をもってしたまえ”」が収められ、67年にロンドンで出版された。 「序文」はストラスブール事件の経緯を簡潔にまとめたものだが、 「後記」はかなり長いもので、シチュアシオニストの理論の分析、「転用」などの戦術の意味づけ、「労働」の拒否と「遊び」の要素の顕揚などについて書いた後、イギリスでのシチュアシオニスト的戦術の応用の可能性について述べている。

*2:トニー・ヴァラーン オランダ国籍の米国のシチュアシオニスト。〈クリエイト・シチュエイションズ〉の名でSIのテクストをいくつか翻訳。1970年12月に分派行動を行ってSIを脱退。

*3:アクシオン・コムニスタ』 76頁の記事を参照。

*4:『ヌオヴァ・プレゼンツァ』 イタリアのミラノで1961年1月に創刊された季刊雑誌。フランコ・フロレアニーニとマルチェロ・ゲンティーリを編集長に、反体制的な文化雑誌として、アルトーの草稿やアルトー論、コスタス・アクセロスの文章などを掲載する一方で、SIに早くから関心を寄せ、63年春の第9号に「コミューンについて」、66年秋の第23号に「新しい革命」と題するSIの紹介記事、67年春夏の第25−26号に「SIの危機について」、68年春夏の第29−30にドゥボールの『スペクタクルの社会』の抄訳とヴィエネの「シチュアシオニ トと、政治および芸術に反対する新しい行動様式」の翻訳などを掲載している。

*5:『テンポ・ブレセンテ』  1956年にローマで創刊された月刊誌。「情報と討論のための月刊雑誌」と銘打った政治情報誌で、66年12月の第12号の「討論」欄に、マリオ・ベルニオーラの「芸術と革命」と題するSI論が掲載されている。

*6:クリストファー・グレイ イギリスのシチュアシオニスト。ティモシー・クラーク、ドナルド・ニコルソン−スミスらとともにSIイギリス・セクションで活動したが、1967年12月に合州国のオカルト的親シチュアシオニストの雑誌『ブラック・マスク』に接近して、他の2名とともにSIを除名。編著に「20世紀を去りながら──シチュアシオニスト・インターナショナルの未完の作品」(74年)。

*7:イギリスの雑誌『シチュアシオニスト・インターナショナル』 グレイらの除名によって結局、刊行されなかった。

*8:『注意! 3人の挑発者が』 1964年1月二22日にSIがストラスブール掲示したビラ。テオ・フレー、ジャン・ガルノー、エルベール・オールの3人をSIから除名した経緯か書かれている。左の訳注「ガルノー派」を参照。