『一つの時代の始まり』 訳者解題

 『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第12号の冒頭に置かれたこの長い──全体の4分の1強の頁数がある──テクストは、 1968年の「五月革命」についてのSIの「総括」とも言えるテクストである。「五月革命」をめぐっては、それが勃発した直後からさまざまな者がさまざまな観点から膨大な数の文章を発表したが、SIのこのテクストがそれらのどれとも異なるのは、第一に「五月革命」が従来からSIの 主張してきた理論──スペクタクル=商品社会批判、状況の構築など──の部分的実現であったということ、第二にSIのメンバー自身がソルボンヌの占拠をはじめこの「革命」の中心で実践的に行動したこと、という二点に規定されている。これらの点から来るSIの独自性については最後に述べるとして、まず、この「五月革命」のプロセスを簡単にふり返っておこう。
 5月3日のソルボンヌでの学生と警官隊との衝突に始まり、6月30日の選挙でのド・ゴール派の勝利まで「五月革命」の全過程は普通、4つの段階に分けられる。すなわち、学生の街頭闘争と警官隊との激しい衝突が連日繰り広げられた5月3日から13日までの第1期、学生の運動に「影響」されて労働者の工場占拠と山猫ストが一挙に全国化した14日から24日までの第2期、共産党などの既成左翼政党の介入によって労働者の異議申し立ての運動がド・ゴール政府と組合との交渉と左翼政党による「人民政府」運動へ矮小化されていった25日から29日までの第3期、5月30日のド・ゴールによる国民議会の解散と総選挙の実施のラジオ演説に始まり、6月30日の選挙でのド・ゴール派の勝利までの体制派の巻き返しの時期である第4期である。
 第1期、「学生危機」の時期──3月ごろから学生闘争が激化していたパリ大学ナンテール分校*1がグラパン学部長の命令で閉鎖されたことに抗議して、5月3日に同校の学生約6百名がパリ中心部のソルボンヌ大学の中庭で集会を開いたのに対して、ソルボンヌのロシュ学長が警官隊を導入、学生らがこれに抗議してカルチェ・ラタン一帯でバリケードを築き、警官隊と対決するが、警官隊は催涙弾で弾圧し、596名の逮捕者と多くの負傷者が出た。この時の警官の暴力的な弾圧は、全国に報道され、フランス共産党を除く多くの国民が学生に同情する雰囲気のなか、フランス全学連 (UNEF*2)と全国教員組合 - 高等部(SNE-Sup*3)が無期限ストを宣言、5月4日以降、学生の抗議行動が全国に拡大する。5月6日にはUNEFの呼びかけで2万名の学生がパリで集会とデモを行うが、サン=ジェルマン通りで警官隊と衝突、再び多数の逮捕者と負傷者を出す。5月7日にも3万人の学生がパリでデモを行い、UNEFとSNE - Supは学生の即時釈放、カルチェ・ラタンを制圧している警察の引き上げ、学部再開などを求める声明を発表、同時に、闘争は高校生にも拡大する。5月9日には、一旦は学長らによってソルボンヌの再開が決定されるが、夜になってペイルフィット文相が閉鎖の継続を宣言、この間、学生らはソルボンヌ前で座り込みを行い、逮捕学生の釈放やソルボンヌ占拠などを話し合う。 「バリケードの夜」と呼ばれる5月10日には、午後5時からダンフェール=ロシュローで高校生の集会が開かれ、6時には同じくダンフェール=ロシュローでUNEFとSNEーSup共催の集会が2万から3万人の学生を集めて行われ、その後、サン=ミシェル通りをデモ行進した際に、一部の学生らがソルボンヌ周辺に敷石や自動車などで約60のバリケードを築く。 午前2時に警官隊がバリケードに突入、翌朝5時頃まで衝突が続きこれを排除、逮捕者460名、負傷者367名を出す。5月11日、ポンピドゥ ー首相が急遽アフガニスタンから帰国、事態収拾のため13日の月曜日からのソルボンヌの再開、裁判中の学生の大半の釈放などを約束するが、労働組合のCGT、CFDT、FOは13日に24時間のゼネストとデモを決定。5月13日にはゼネストが行われ、組合発表で50万人のデモ隊がレピュブリック広場からダンフェール=ロシュローまでデモ行進、学生らは組合のデモ隊解散の指令を無視してシャン・ド・マルス終結、午後 9時半頃再開されたソルボンヌを占拠した。
 第二期、「社会危機」の時期──何よりもまず、この時期を特徴付けるものは5月14日のシュッド=アヴィアシオン(南方航空機製造会社)*4のナント工場の労働者による工場占拠である。このフランスで初の自然発生的な(すなわち組合の指令によるのではない)工場占拠と山猫ストは15日のボルドーの造船所での山猫スト、16日のルノーのビヤンクール工場*5の工場占拠、リヨンのロディアセータの工場占拠と、たちまちにして全国の労働者に波及してゆき、5月20日には鉄道、地下鉄、バス、航空、郵便、国営放送の労働者ら700万人がストに入り、21日には教育、繊維、デパート、銀行にもストが拡大、900万人が労働を放棄しさまざまな異議申し立てを行い、農民も闘争に参加し始める。22日にはさらにストが広がり、サービス部門、中小企業、ガソリン・スタンド、タクシー、サッカー選手までもがストを行い、スト参加者はフランスの全人口5千万のうち1千万に達した。こうした運動の拡大を目にして、共産党とそれに指導された労働組合CGTは、学生の運動に対しては「冒険主義」だと決めつけて批判、労働者の自発的なストに対しては自主管理を「空疎な方針」 として批判し、「挑発的」性格のデモを否定するとともに、日常的な要求闘争を主張する。こうしたなか、占拠されたソルボンヌには学生だけでな く労働者や高校生なども集まり、さまざまな「行動委員会」が結成されて、あらゆる場所に異議申し立ての運動が波及してゆくとともに、「学生」運動と労働者の闘争を結合させる試みが追求される。5月15日にはパリの国立劇場オデオン座が占拠され、占拠運動が国家機関にも拡大、16日には工場占拠中の労働者を支援するために、パリ郊外のルノーのビヤンクール工場に学生4千名が大挙して訪れるが、CGTの幹部は工場の門を閉ざして労働者と学生の接触を妨害する。17日から20日にかけて、パリの高校生らが行動委員会を結成、多くの高校の建物占拠が開始され、医学部やグランド・ゼコール準備学級などの保守的な学部にも異議申し立ての運動が広がり、自主管理が行われる。また、地方の各大学にも闘争が波及し、14日にはストラスブール大学自治が宣言され、それ以降も多くの都市でデモと学部占拠が行われ、24日にはリヨン、ボルドー、ナント、ストラスブールなどで警官隊との激しい衝突が暴動にまで発展、このうちナントでは労働者と学生が共同して市の支配権を奪う一種のコミューンが出現した。この日、パリではリヨン駅を中心に、UNEFとSNE-Supの呼びかけた5万名のデモが、警官隊と激しい衝突を繰り返し、カルチエ・ラタンの市街戦に発展、証券取引所や警察署などの政府機関に放火、第二の「バリケードの夜」と呼ばれ、逮捕者648名、重軽傷者数百名を出した。 
 こうしたなか、5月22日にド・ゴールは議会の信任を取り付け、24日夜のテレビ放送で「国民参加の政治原則」を発表、労働者の経営参加、学生の大学管理参加に関する国民投票を6月中旬に行う提案をして、 事態の収拾に動き始める。
 第3期、「政治危機」の時期──この時期は、5月25日、ポンピド ゥー首相がCGT、CFDT、FOなどの各労組の代表と、経営者側代表 をパリのグルネル通りの社会問題省に集めて交渉を開始した時点から始まる。この交渉は26日にも続けられ、27日に政府、労使の三者協定 「グルネル協定」*6として「結実」するが、その「成果」とされた10パー セントの賃上げは、スト中の賃金保証のないもので、実質的には、賃金の自然増とほとんど変わりなかった。また、労働時間の短縮も、その「労働」 の内容は問わず、逆に労働強化につながることが危惧された。全体として、 この協定の内容は、非人間的な職場環境や管理体制を問題としていた労働者の意識とかけ離れていたために、ストライキ中の労働者のほとんどから拒否された。一方、共産党などの既成政党は、24日のド・ゴール国民投票提案以降、政権の奪取に向けて動きだし、左翼連合、共産党がそれぞれ「人民政府」を呼びかける。29日には左翼連合のミッテランが左翼臨時政府を提唱、マンデス=フランスを大統領候補に担ぎ出し、CGT と共産党は「人民政府」と「ド・ゴール政権打倒」を求めて50万人のデモを行うが、最終的には左翼の統一は破産する。こうした情況のなか、ド・ゴール*7は29日に秘密裏に西ドイツ駐留のフランス軍の同意を受け付け、30日に突如、国民投票の提案を取り消し、国民議会の解散と6月末の総選挙実施を発表して、巻き返しを図り始めるのである。
  第4期、「体制復帰」の時期──5月30日にド・ゴールが国民に呼びかけた「共和国防衛委員会」結成に応えて、それまでなりを潜めていたド・ゴール派は反撃に転じ、6月1日にはシャンゼリゼで百万人のデモを行う。一方、共産党と左翼連合は、選挙戦にすべてを流し込み、それらに指導されたCGTなどの労組も職場再開を決定、6月2日以降、多くの職場でストを停止させ、それに従わない労働者を暴力的に排除して労働を再開させてゆく。最後までストを行っていたルノーのフラン工場やプジョーのソショー工場なども、労働者と支援の学生らと機動隊との激しい衝突でそれぞれ死者を出しながら、6月11日までにはストを終結させられてゆく。6月12日には、政府はフランス全土でのデモを禁止、11の極左組織に解散命令を出し、学生運動の弾圧に乗りだし、14日にはオデオンで、16日にはソルボンヌで占拠を解除し、「正常化」を果たしてゆく。そうして結局、6月23日と30日の総選挙では、ド・ゴール派の勝利に終わるのである。
 こうしたプロセスを経た「五月革命」に対して、多くの者は、それは、その形態においても目的においても、「プロレタリアート」の「革命」ではなく、「若者」あるいは「学生」の「異議申し立て」の「運動」、「出来事=事件」、一種の「文化革命」だったとさえ言ってきた。例えばアラン・トゥレーヌ*8(Alain Touraine, Le Mouvement de nai ok le communisme utopique, Seuil, 1968; livre de poche, 1998, pp. 11-12) は、60年代の高度資本主義の発展によってフランスは豊かな消費社会を実現したが「フランスの社会組織の形態は著しく古風なまま」であり、この矛盾が社会の指導部門を牛耳る「テクノクラート」と社会の「実行者 = 消費者」との間の対立や、「この社会の技術的、文化的現実」と「過去から受け継がれた組織形態と諸制度」との対立として、一見平穏なフランス社会に潜在的に存在していたところに、「五月の運動」が生じたのであり、それは「この衝突を暴露するものであると同時にこの危機への反動でもあった」と性格付けている。アンリ・ルフェーヴル*9(Henri Lefevbre, LIrruption-de Nanterre au Sommer, Edition Anthropos, 1968 邦訳『「五月革命」論──突入──ナンテールから絶頂へ』森本和夫訳、筑摩書房、1969年、61-65頁、75-76頁)も、この「事件」は、正統的ブルジョワジーの古い秩序を守ろうとする「旧派」と、合理的な経済主義者や技術主義者、構造改革派の「中道自由主義者」、中央集権化された国家的計画化を追求する「マルクス主義者」の三者から成る「近代派」という2つの硬直した権力の中核の間で生じたイデオロギー的・政治的空白を、自然発生的な「異議申し立て」によって満たす一種の「文化革命」であったとしている。トゥレーヌ もルフェーヴルも、運動の主体が本質的には「学生」であり「青年」であ ったことを強調し、政治的危機や経済的危機──そのようなものは68年には存在しなかった──ではなく社会的危機に最も強く曝され、既存の政治機構や諸々の専門化された活動の還元的性格を最も耐え忍ぶことのできない彼らこそが、その社会に対する非 - 還元的な否定の声を上げ、分業や専門の断片化、専門化の物神崇拝を強いる資本主義社会のイデオロギーを 乗り越えた「単一の文化」の支配する「具体的ユートピア」(ルフェーヴ ル)を異議申し立ての言葉の爆発によって示したのであり、この「学生」 たちの運動は資本主義が産業主義的なものから技術主義(テクノクラート)的なものへと転換する68年という時点において出現した「ユートピア共産主義」(トゥレ ーヌ)の表現であったとする。「具体的ユートピア」にせよ「ユートピア共産主義」にせよ、それらに共通した認識は、この運動が、国家権力や経済的な土台を奪取し変革する意志を持たず、社会化され政治化された「文化」という象徴的権力をもっぱら攻撃したということであり、この攻撃において「労働者階級」はむしろ「後衛」であり、「前衛」の役割を果たし たのはむしろ「学生」だったということである。こうした把握は、エドガール・モラン*10の「学生コミューン」(Edogar Morin, Claude Lefort, Jean Marc Coudray, Mai 1968──la Breche, Artheme Fayard, 1968  邦訳『学生コミューン』西川一郎訳、1969年、合同出版)という考えにおいてより鮮明に示される。モランは、「五月革命」 ──この言葉を彼は決して使わな いが──をあくまでも「若者」の間に生じた「学生反乱」ととらえ、パリ大学ナンテール分校でそれが生じた原因は、「ますます多くなる卒業証書の生産と就職先の少なさとのあいだのあまりに大きな不適合と、人文諸科学──とくに社会学──の社会へのあまりに見事な適合」という2つの要因の組み合わせにあったとする。こうした要因があったところに、既存の学問領域に疑問を持って入学してきた社会学科(社会学科は1964年に 開校されたナンテールにはじめて作られた新しい学科だった)の学生たちが「批判的社会学」の研究を始め、「革命的社会学」を発見し、この社会学の批判的潮流とマルクス主義の「離教的潮流」とが合流して、ブルジョ ワ社会の最大の砦であると同時にその最も弱い環でもある大学を攻撃しはじめた。そうして、大学を舞台にした「遊びとまじめ」の祭典、「青年連帯の大きな祭典、諸派合同の大がかりな革命の遊戯」が「学生コミューン」 として出現し、それは「諸思想の祭り・広場 ・ 実験室」として機能し、 「夢見られてきたあらゆる革命を一度で演じる」ある種の「ユートピア的、 非建設的な経験」の場が作り出されたのだと、モランは述べている。モランはさらに、占拠されたソルボンヌでは、「労働者階級」という言葉をもてあそぶ者たちの登場とともに、この「学生コミューンの豊かな、勝利に輝く統一が崩れはじめ、政治コミューンが大学コミューンから分離し、時にこれと対立」し始めたとも主張している。 
 これらの「社会学者」の意見とは逆に、SIは、「五月革命」は社会の変動期に出現した「学生の反乱」や、体制不適応者たちの単なる「異議申 し立て」の表現だったとは考えない。この論文の冒頭で、SIは、「先進工業国の経済を麻痺させた歴史上最大のゼネスト」であり「歴史上最初の 自然発生的なゼネスト」によって、2週間近くの間に「国家権力を次第に 完全に消滅」させていった「五月革命」を、「現代プロレタリア運動の最も重要な体験」であったと明確に規定し、その本質である「占拠運動」は 「歴史的な階級としてのプロレタリアート現代社会の賃金生活者の大多数にまで拡大され、階級と賃金制の実際上の廃絶へと常に向かっていたプロレタリアートの突然の回帰」であり、「個人的な歴史の再発見、歴史に対する可能な介入の意味であり、取り消し不可能な出来事の意味」であったとして、現代の高度資本主義社会の中で形を変え、賃金労働者の全体にまで拡大された新しい「プロレタリアート」による「歴史」への介入の運動だったことを何よりも強調する。また別の箇所ではSIは「五月の運動は学生運動ではなかった。それは半世紀に及ぶ圧殺から再生してきた、当然ながらすべてを奪われていたプロレタリアートの革命運動だった」と明言している。「学生の反乱」という外見は、この「すべてを奪われ」、組合による「あらゆる形態の弾圧によって分断されていた」労働者たちが、唯 一、声を発することのできた「不都合な地盤」であり、この労働者たちは 「学生の反乱」という形を通して擬態して自らの姿を現したのである。
 SIが、「五月革命」を「学生運動」ではなく「プロレタリアート」の運動だったとする根拠は、この論文の中でさまざまな形で挙げられている。 「五月革命」の先駆と言われている68年初頭のナントとナンテールでの 「大学の破壊活動(サボタージュ)」の実行者が正確には学生ではなく、その行動も68年1月のルドンやカーンの労働者暴動の際の「直接闘争」の形態を発展させたものであったこと、カルチェ・ラタン周辺での暴動やソルボンヌの占拠に多くの労働者が参加していたこと、最も激しい街頭闘争に参加した学生はパリの15万人のうちわずか数千人(それらのラディカルな学生の行動は称賛されるべきだが)でしかなく、大部分の学生は68年の経験を経ても変わらなかったこと、現代産業社会の幹部育成装置としての大学の社会的機能も何一つ変化しなかったこと、一方、5月14日から16日にかけての多くの工場での山猫スト突入こそが全面的な革命的危機を引き起こし た原因であり、27日の組合、経営側、国の三者での手打ち(グルネル 協定)による圧力にも関わらずその後も一週間にわたって継続された労働者のストライキこそが国家権力を崩壊の瀬戸際まで追い込んだことなどである。しかしながら、これらの労働者には現代の社会における新しい階級闘争(日常生活批判、スペクタクル=商品批判、イデオロギー批判、ラディカルな直接民主主義など)の理論が欠如していたために、山猫ストと占拠運動という自分たちが開始したラディカルな行動の意味を真に認識することができず、組合に統制されるにまかせてしまい、労働者たちは個々の企業の中に孤立させられ、自分たちの自律した行動も自律した権力も持つにはいたらなかった。毛沢東主義やトロッキズム、カストロ主義やアナキズム、さらにはシチュアシオニスムでさまざまに味付けした「革命的学生」──その最たるものが、それらすべてを折衷主義的に取り入れたコーン=ベンディットに代表される「3月22日運動」*11である──の欠陥にくらべて、労働者の大群のこの理論的・実践的欠陥こそが、「五月革命」にとって決定的なものだったのである。しかし、だからといってSIは、モランとともに労働者の無能をあげつらって悦に入るクードレー(カストリアデ ィス)のように、この労働者たちに絶望しているわけではない。労働者は「無意志」だとする組合官僚が、自分たちの「意志」に反して開始された労働者のストライキに対して、「嘘と不安」をまき散らしながら、あらゆる手段でこれを阻止し、回収しようとしたことは、逆に、「武装解除されてはいるが恐るべき彼ら 〔=労働者〕の本当の意志の最良の証明」であると、SIはこの労働者の可能性の方に希望を寄せている。さらに、SIは、5月16日から30日までの決定的な革命的危機の時期に、たった1つでもいいから大工場で、「すべての決定権と執行権を有する、〈評議会〉」が組織され、工場占拠運動全体の中心になって明確な方針(あらゆる資本の接収、生産手段の共有化など)を出して行動していれば、運動は即座に最終的闘争にまで引き上げられていただろうとまで仮定するが、この仮定は「ユートピア」の夢想などではまったくなく、「まさに、占拠運動が客観的に見て、このような結果をもたらす寸前にまで、何度にもわたって達したからこそ、運動はあれほどの激しい恐怖を巻き起こしたのだ」と、その中に労働者が実現しえたであろう具体的可能性を読み取っている。SIにとっては、まさにこれらの「可能性」こそが「五月革命」を「革命」と形容するにふさわしい何よりの内容だったのである。
 一方における「学生コミューン」の「ユートピア」と「文化革命」、他方における「評議会権力」の可能性と「プロレタリアートの革命運動」──この差異はいったい何に由来するのだろう。第一に、モランやルフェーヴルらにとって、「五月革命」は自分たちが想像もしていなかった「事件」として到来したのに対して、SIにとって、それは自分たちが意識的 に追求してきたものの部分的な実現として現れたということがある。これは、SIが「五月革命」を「予言した」とか、「五月革命」がSIの理論の直接的影響を受けて生じたということではない。ただ、「五月革命」の本質──組合の統制を無視した自然発生的な闘争、直接的コミュニケーションと「暴力」的な直接闘争の爆発、スペクタクル=商品社会と代理=表象システムの批判、イデオロギーの批判などが、60年代以降のSIの主張をほとんどそのままの形で裏付ける結果になったということであり、 「シチュアシオニストの功績はただ単に、現代社会における反乱の新しい適用地点──都市計画、スペクタクル、イデオロギー等──を認め、それを指し示したこと」にあるのである。SIの理論はいわば、「五月革命」 にとっての「歴史的無意識」であるが、SIという組織はこの「歴史的無意識」を意識化させるために、10年以上も前から一貫してその理論的・実践的活動を続けてきたのだと言えるだろう。第二に、「五月革命」そのものを、ルフェーヴルら社会学者は外部から──文字通り「保護区にいる年寄り猿ども」として、あるいは「スペクタクル」の観客として──観察していただけであるのに対して、SIはその内部にいて闘争のいくつもの、 とりわけ重要な局面に主体的に関わり、それらの闘争の深化に積極的に努めたということがある。67年末から68年3月までの時期にナンテールの〈怒れる者たち(アンラジェ)〉*12の行動と理論、さらに遡って66年秋のストラスブール大学の学生らのUNEFへの反乱、「五月革命」の先駆をなすこの2つの闘争は、まさにSIの「直接的影響」を受けた学生や反-学生によって引き起こされたものである。また、5月13日以降の占拠されたソルボンヌの〈占拠委員会〉で〈怒れる者たち(アンラジェ)〉のルネ・リーゼルが果たした中心的役割、〈怒れる者たち〉ーSI委員会によるソルボンヌの直接民主主義貫 徹の活動、「大学改革」ではなく「労働者評議会」の結成を呼びかけるさまざまな彼らの活動などは、どれも「占拠運動」の全面化と「評議会権力」の樹立に向けた具体的な行動として、SIがついに部分的に実現された自らの理論をさらに拡大させ深化させるために行った決定的に重要な実践だった。SIは、こうした実践を通して常に「五月革命」とともにあったからこそ、彼らにはこの「革命」をその可能性の相において見ることが可能だったのだと言えるだろう。

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*1:パリ大学ナンテール分校 パリ郊外ナンテールにあるパリ大学の分校。現在はパリ第十大学。60年代の学生数の飛躍的増大によってソルボンヌが手狭になったため、64年に文学部の教養課程がナンテールに開設され、翌年から社会学部、 心理学部、哲学部、法学部などの学部が新設され、68年には文学部系学生1万名、法学部学生4千名が学んでいた。設置当初から教育プログラム、寮や食堂などの大学施設をめぐって、当局、教師、 学生の間でさまざまな綱引きが行われ、 フランス全学連(UNEF)のほか、アナキスト毛沢東主義者、トロツキストなどの多くの極左諸党派が活動し、67年1月からはシチュアシオニストの理論と実践を身に付けた「〈怒れる者たち〉(アンラジェ)」グループがまったく新しいスタイルの活動を開始していた。

*2:フランス全学連(UNREF) 「フランス 全国学生連合」 Union National des Etudiants Francais のこと。1907年に リールで学生自治会(AFG)の総連合として設立(設立時の名称は「フランス学生総協会全国連合」(UNAGEF))、 62年に学生組合として政府に認められる。54年から60年まではアルジェリア戦争に反対の立場を明確にしない社会党共産党を批判して、アルジェリア反戦運動を牽引、学生の支持を得る。62年のアルジェリア戦争終結後の混迷の中で、63年のディジョン大会、64年の  トゥールーズ大会で大学内の要求闘争から社会構造全体の改革をめざす「組合主義左翼」へと方針を転換、63年から66年までこの方針で活動したが、観念的な執行部の考えと学生の関心とが一致せず、急激に組織率が落ちた(60年に学生の2分の1を組織し加盟者10万名を 数えたのが65年には5万名、67年 には3万名、68年五月革命直前には1万名程度)。66年以降、フランス共産党系のUEC社会党系のESU、UECから分かれたトロツキストのJCRや毛沢東主義のUJC(ML)、別のトロツキストのCLERなどが入り乱れて多数派を争い、67年にはESUが執行部を取ったものの、混乱は収まらなかった。68年4月の大会では、極右集団オクシダンの襲撃などさまざまな事件の中で委員長のペローが辞任したが、後任委員長は決定できず、68年5月の時点では、 ジャック・ソヴァージョが副委員長として臨時委員長の役目を果たしていた。五月革命の当初、UNEFは学生の闘争を押し止める態度を示したが、闘争が進展すると、ソヴァージョを中心にデモを呼びかけたり、ソルボンヌの占拠にも参加したり、批判大学の創設や大学外への運動の拡大を追求したりしたが、6月以降、再び、路線闘争に終始することになった。

*3:全国教員組合 - 高等部(SNE - Sup) 大学教員の教員組合で、68年当時、全教員の3分の1、約5千名から6千名を。組織。66年以降、大学改革と社会変革の問題とを結びつける路線を取り、社会主義色を帯びていった。大学改革に関しては、政府の主張する「量的改革」に反対、大学の構造改革を主張、67年秋以 降、ナンテールでの学生の闘争に呼応して、自らも闘争に参加するようになっていった。

*4:シュッド = アヴィアシオン(南方航空機 製造会社) ナントにあるフランス国営飛行機製造会社。68年5月の早い段階から、工場占拠が開始されていたが、14日に、労働者らが経営者を監禁したため、一挙にフランス中に知れ渡ることになった。68年5月における最も早い工場占拠となったこの闘いは、五月革命が学生の運動から労働者の工場占拠運動へと拡大するきっかけとなり、その後、15日、 16日と、フランス中の工場が次々と労働者によって自発的に(組合の統制を離 れて)占拠されていった。

*5:ルノーのビヤンクール工場 パリの西の郊外ブーローニュ=ビヤンクールにある 国営自動車会社ルノーのフランス最大の工場。ここの労働者たちは、5月16日から工場を占拠してストライキを行っていた。ソルボンヌを占拠中の学生たち3千名から4千名は、5月17日、労働者との連帯の最初の行動として、このルノーのビヤンクール工場への行進を行うが、 ルノーのCGT組合幹部らは、労働者と学生の接触を妨害するために工場の門を閉ざし、学生らのデモ隊もUNEF(フランス全学連)やトロツキストのJCR や毛沢東主義者のUJC(ml)などの新左翼諸党派の幹部の指令によって整然 とした行進をするだけで、門の柵ごしに眺める労働者らを前にして、ソルボンヌに引き返してしまった。

*6:「グルネル協定」 5月25日土曜日に、ポンピドゥー首相、労働組合CGTのジ ョルジュ・セギー総書記、企業の経営者代表らが、パリ7区、アンヴァリッドの東のグルネル通りにある社会問題省に集まり、交渉を開始、27日に締結した労使協定。最低賃金と給与の増額、労働時間の短縮など、労働者の意識とかけ離れた旧態依然とした協定の内容は、工場を占拠してストライキ中の労働者のほとんどから拒否された。

*7:シャルル・ド・ゴール(1890-1970年) フランスの軍人・政治家。 1912年、士官学校卒業後、第一時大戦に従軍、19年、ポーランドでの対ソ反革命戦争参加、戦術理論家として軍の機械化を訴えて注目される。37年に大佐、 第二次大戦ではドイツの侵入阻止に尽力するが、40年休戦に反対、ロンドンに亡命、自由フランス政府を結成、国内でのレジスタンスを呼びかけ、43年自由フランス軍を率いてパリ入城、臨時政府議長、45年から46年には首相。58年のアルジェリア危機の年に〈挙国一致内閣〉首相となり、憲法を改正し、第五共和国大統領となる。以後、69年まで大統領の独裁的権限を強化して、ド・ゴール体制のもと、NATO脱退、核保有、 EEC結成、中国承認など、フランスの独自政策を追求してゆく。68年五月革命に際しては、学生の異議申し立てと労働者のストの全国化を収拾するため、24日に、大学と社会、経済の改革に関する国民投票の実施を呼びかけ、大統領提案が拒否されれば職を辞することを予告する一方で、29日にエリゼー宮を脱け出し西ドイツのバーデン=バーデンで軍指導部のマシュー将軍と密会、紛争解決のために軍の投入を取り付けたうえで、30日には、前言を覆し、6月16日に予定されていた国民投票を取り消し、 国民議会を解散、内閣改造と総選挙の実施を告げる。同時に、国民に対して「共和国防衛委員会」結成を呼びかけて、 ド・ゴール派を動員して、シャンゼリゼで百万人のデモを組織して反撃に転じ、 以後、次々とストを破壊、デモを弾圧して、結局、6月23日と30日の総選挙では、ド・ゴール派の勝利に終った。

*8:アラン・トゥレーヌ(1925-) フランスの社会学者。45年にエコー ル・ノルマル・シュペリウールに入学後、 1年間、鉱山で働いた経験から社会学を志し、卒業後50年にジョルジュ・フリ ードマンの影響でCNRSの社会学研究センターに入り、自動車工場ルノーやフランス内外の鉱山労働者の社会学を始め る。60年に高等研究所の主任研究員になり、雑誌『労働の社会学』を創刊、高度資本主義社会での労働者階級と階級闘争の変質について積極的に発言し出し、 『アルギュマン』誌、『社会主義か野蛮か』誌 などに協力して「新左翼」の社会学者として注目される。1966年からパリ大学ナンテール分校の社会学部の教授となり、68年3月までのナンテールの闘争に対してはシチュアシオニストアナキストの批判を封じて、弾圧側に回り、 68年五月革命では労働者本隊のストだけを評価してソルボンヌやオデオンの占拠は批判した。著書に『労働者意識』(66年)、『五月の運動、あるいはユートピア共産主義』(68年)、『社会の生産』(73年)など。

*9:アンリ・ルフェーヴル(1901-91年) フランスの社会学者。1930年代にマルクス主義に接近し、58年にスターリン批判と共産党アルジェリア政策批判を軸とした雑誌『レタンセル(火花)』を発行してフランス共産党を除名されるまで、党の理論家の一人として活動。高度資本主義社会の日常生活を社会学的に研究し、正統派マルクス主義の変更を迫る大著『日常生活批判』(第1部、 1958、第2部、61年。その『序説』 は1974年に発表)や、スターリン主義を告発した『マルクス主義の当面の諸問題』(58年)により、左翼・知識人から芸術家までに大きな影響を与えた。 50年代末から60年代にかけては、雑誌『アルギュマン』に協力しつつ都市論や大衆社会論に関心を向けはじめ、シチュアシオニストとも交流、『現代への序説』、『総和と余剰』、『ひとつの立場── テクノクラートに抗して』などのなかで、頻繁SIに言及している。しかし、『コミューンの宣言』(邦題『パリ・ コミューン』)で、ドゥボールらの書いたテーゼを盗用したことをきっかけに、SIから断交を言い渡され、その後、厳しく批判されることになった。

*10:エドガール・モラン(1921-) フランスの社会学者。レジスタンスの時代にトゥールーズで「亡命学生収容センター」で活動し、共産党に入党。戦後、 強制収容所の存在を知ったことを契機にスターリン主義を告発し、51年、フラ ンス共産党を除名。50年から社会学者として国立科学研究センターで教え、56年から62年にかけて、雑誌『アルギュマン』誌の編集長を勤める。著書に、 『映画──あるいは想像上の人間』(56年)、『スター』(57年)、『自己批判』 (59年)、『政治的人間』(65年)など。

*11:「3月22日運動」 ナンテールの大学当局と警察による弾圧への抗議行動の中で、1967年3月22日、当局が持っているとされていた「ブラック・リスト」を暴くために行われた大学本部の管理棟占拠の日の夜に結成された運動体。3月22日、パリでの反帝闘争で6名のヴェトナム委員会の活動家が逮捕されたことに抗議してナンテールの極左グループらが呼びかけた集会への参加者が、学生管理の象徴である管理棟占拠を決定、 その日の夕方、142名が「教授会室」 を占拠、2時間後に撤退した。この行動を記念して、当初「142人運動」を名乗っていた彼らは、以後、キューバカストロの「7月26日運動」を真似て 「3月22日運動」を自称、ナンテールでの3月から4月にかけての闘争、5月3日以降のパリのソルボンヌへの運動の波及において重要な役割を演じた。この〈運動〉は、参加者がすべて個人の資格で関わり、統一した綱領や理論は存在せず、その不在を「共同行動」によって乗り越える一種の闘争委員会の形式をとり、運動全体の「コンセンサス」としては、反帝主義と直接民主主義という2つ の大きな柱があるだけの開かれた組織だった。そのため、運動の拡大において一定の力があったが、実際の参加者は毛沢東主義者・トロツキストアナキスト諸派などさまざまな組織のメンバーの寄せ集めだったため、その反帝主義の内容はメンバー間でまちまちで、直接民主主義も参加者の「二重加盟」によってうまく機能しなかった。ダニエル・コーン=ベンディットはこの〈運動〉の理論的主導者として、たびたびマスコミの前でスポークスマンとして話したが、組織的代表を持たないこの〈運動〉の「代表」ではなく、五月革命の進展とともに、そのスタンド・プレーによって、「3月22日運動」のメンバーから批判されてゆく。

*12:〈怒れる者たち(アンラジェ)〉 1968年初頭に、シチュアシオニストの影響を受けてナンテールに結成された最左派のグループで、 正式な名称は「ナンテールの 〈怒れる者たち(アンラジェ)〉」。ルネ・リーゼル、パトリック・シュヴァル、ジェラール・ビゴルニュらを中心に、十数名のメンバー (最低で5,6名、最高で15人程度))を擁し、68年1月以来、大学への私服警官の潜入を告発するためにその写真を撮って大きなポスターにして掲示したり、 警察と一体となって学生の運動を弾圧するグラパン学部長を攻撃したり(そのための替え歌やポスター、コミックを転用 したビラなどを製作)、体制を支える役目しかない大学の──とりわけ社会学の──授業をヤジと議論で破壊したりと、 それまでにないスタイルで過激な行動を積極的に行った。3月22日の大学本部棟占拠の際には、後の〈3月22日運動〉のメンバーらよりも早く建物の占拠を行うが、この〈運動〉のグループのなかにフランス共産党員で学生の運動に敵対し、占拠にも批判的な学生が「オブザーヴァー」として交じっていることを批判し、彼らの排除を聞き入れない、〈運動〉の多数派と決裂、「ここで自由は終った」などの落書きを残して建物を去り、その後はナンテールには戻らなかった。しかし、5月13日のソルボンヌ占拠の際には、SIとともにただちに 「〈怒れる者たち(アンラジェ)〉ーSI委員会」を結成、〈占拠委員会〉の中心になって闘い、「五月革命」の終結後、〈怒れる者たち〉のメンバーのうち、パトリック・シュヴァルとルネ・リーゼルらがSIに加入した。「〈怒れる者たち(アンラジェ)〉」の名称は、シチュアシオニストがしばしば引き合いに出すフランス革命時の同名の最左派グループから転用した固有名詞だが、〈3月22日運動〉のダニエル・コーン=ベンディットらも普通名詞としてその名を名乗り、その後、マスコミがこれらを混同して用い、また漫画家のシネらが発刊したパロディ・コミック雑誌のタイトル としても使われた。