『一つの時代の始まり』 訳者解題
*1:パリ大学ナンテール分校 パリ郊外ナンテールにあるパリ大学の分校。現在はパリ第十大学。60年代の学生数の飛躍的増大によってソルボンヌが手狭になったため、64年に文学部の教養課程がナンテールに開設され、翌年から社会学部、 心理学部、哲学部、法学部などの学部が新設され、68年には文学部系学生1万名、法学部学生4千名が学んでいた。設置当初から教育プログラム、寮や食堂などの大学施設をめぐって、当局、教師、 学生の間でさまざまな綱引きが行われ、 フランス全学連(UNEF)のほか、アナキスト、毛沢東主義者、トロツキストなどの多くの極左諸党派が活動し、67年1月からはシチュアシオニストの理論と実践を身に付けた「〈怒れる者たち〉(アンラジェ)」グループがまったく新しいスタイルの活動を開始していた。
*2:フランス全学連(UNREF) 「フランス 全国学生連合」 Union National des Etudiants Francais のこと。1907年に リールで学生自治会(AFG)の総連合として設立(設立時の名称は「フランス学生総協会全国連合」(UNAGEF))、 62年に学生組合として政府に認められる。54年から60年まではアルジェリア戦争に反対の立場を明確にしない社会党や共産党を批判して、アルジェリア反戦運動を牽引、学生の支持を得る。62年のアルジェリア戦争終結後の混迷の中で、63年のディジョン大会、64年の トゥールーズ大会で大学内の要求闘争から社会構造全体の改革をめざす「組合主義左翼」へと方針を転換、63年から66年までこの方針で活動したが、観念的な執行部の考えと学生の関心とが一致せず、急激に組織率が落ちた(60年に学生の2分の1を組織し加盟者10万名を 数えたのが65年には5万名、67年 には3万名、68年五月革命直前には1万名程度)。66年以降、フランス共産党系のUEC、社会党系のESU、UECから分かれたトロツキストのJCRや毛沢東主義のUJC(ML)、別のトロツキストのCLERなどが入り乱れて多数派を争い、67年にはESUが執行部を取ったものの、混乱は収まらなかった。68年4月の大会では、極右集団オクシダンの襲撃などさまざまな事件の中で委員長のペローが辞任したが、後任委員長は決定できず、68年5月の時点では、 ジャック・ソヴァージョが副委員長として臨時委員長の役目を果たしていた。五月革命の当初、UNEFは学生の闘争を押し止める態度を示したが、闘争が進展すると、ソヴァージョを中心にデモを呼びかけたり、ソルボンヌの占拠にも参加したり、批判大学の創設や大学外への運動の拡大を追求したりしたが、6月以降、再び、路線闘争に終始することになった。
*3:全国教員組合 - 高等部(SNE - Sup) 大学教員の教員組合で、68年当時、全教員の3分の1、約5千名から6千名を。組織。66年以降、大学改革と社会変革の問題とを結びつける路線を取り、社会主義色を帯びていった。大学改革に関しては、政府の主張する「量的改革」に反対、大学の構造改革を主張、67年秋以 降、ナンテールでの学生の闘争に呼応して、自らも闘争に参加するようになっていった。
*4:シュッド = アヴィアシオン(南方航空機 製造会社) ナントにあるフランス国営飛行機製造会社。68年5月の早い段階から、工場占拠が開始されていたが、14日に、労働者らが経営者を監禁したため、一挙にフランス中に知れ渡ることになった。68年5月における最も早い工場占拠となったこの闘いは、五月革命が学生の運動から労働者の工場占拠運動へと拡大するきっかけとなり、その後、15日、 16日と、フランス中の工場が次々と労働者によって自発的に(組合の統制を離 れて)占拠されていった。
*5:ルノーのビヤンクール工場 パリの西の郊外ブーローニュ=ビヤンクールにある 国営自動車会社ルノーのフランス最大の工場。ここの労働者たちは、5月16日から工場を占拠してストライキを行っていた。ソルボンヌを占拠中の学生たち3千名から4千名は、5月17日、労働者との連帯の最初の行動として、このルノーのビヤンクール工場への行進を行うが、 ルノーのCGT組合幹部らは、労働者と学生の接触を妨害するために工場の門を閉ざし、学生らのデモ隊もUNEF(フランス全学連)やトロツキストのJCR や毛沢東主義者のUJC(ml)などの新左翼諸党派の幹部の指令によって整然 とした行進をするだけで、門の柵ごしに眺める労働者らを前にして、ソルボンヌに引き返してしまった。
*6:「グルネル協定」 5月25日土曜日に、ポンピドゥー首相、労働組合CGTのジ ョルジュ・セギー総書記、企業の経営者代表らが、パリ7区、アンヴァリッドの東のグルネル通りにある社会問題省に集まり、交渉を開始、27日に締結した労使協定。最低賃金と給与の増額、労働時間の短縮など、労働者の意識とかけ離れた旧態依然とした協定の内容は、工場を占拠してストライキ中の労働者のほとんどから拒否された。
*7:シャルル・ド・ゴール(1890-1970年) フランスの軍人・政治家。 1912年、士官学校卒業後、第一時大戦に従軍、19年、ポーランドでの対ソ反革命戦争参加、戦術理論家として軍の機械化を訴えて注目される。37年に大佐、 第二次大戦ではドイツの侵入阻止に尽力するが、40年休戦に反対、ロンドンに亡命、自由フランス政府を結成、国内でのレジスタンスを呼びかけ、43年自由フランス軍を率いてパリ入城、臨時政府議長、45年から46年には首相。58年のアルジェリア危機の年に〈挙国一致内閣〉首相となり、憲法を改正し、第五共和国大統領となる。以後、69年まで大統領の独裁的権限を強化して、ド・ゴール体制のもと、NATO脱退、核保有、 EEC結成、中国承認など、フランスの独自政策を追求してゆく。68年五月革命に際しては、学生の異議申し立てと労働者のストの全国化を収拾するため、24日に、大学と社会、経済の改革に関する国民投票の実施を呼びかけ、大統領提案が拒否されれば職を辞することを予告する一方で、29日にエリゼー宮を脱け出し西ドイツのバーデン=バーデンで軍指導部のマシュー将軍と密会、紛争解決のために軍の投入を取り付けたうえで、30日には、前言を覆し、6月16日に予定されていた国民投票を取り消し、 国民議会を解散、内閣改造と総選挙の実施を告げる。同時に、国民に対して「共和国防衛委員会」結成を呼びかけて、 ド・ゴール派を動員して、シャンゼリゼで百万人のデモを組織して反撃に転じ、 以後、次々とストを破壊、デモを弾圧して、結局、6月23日と30日の総選挙では、ド・ゴール派の勝利に終った。
*8:アラン・トゥレーヌ(1925-) フランスの社会学者。45年にエコー ル・ノルマル・シュペリウールに入学後、 1年間、鉱山で働いた経験から社会学を志し、卒業後50年にジョルジュ・フリ ードマンの影響でCNRSの社会学研究センターに入り、自動車工場ルノーやフランス内外の鉱山労働者の社会学を始め る。60年に高等研究所の主任研究員になり、雑誌『労働の社会学』を創刊、高度資本主義社会での労働者階級と階級闘争の変質について積極的に発言し出し、 『アルギュマン』誌、『社会主義か野蛮か』誌 などに協力して「新左翼」の社会学者として注目される。1966年からパリ大学ナンテール分校の社会学部の教授となり、68年3月までのナンテールの闘争に対してはシチュアシオニストやアナキストの批判を封じて、弾圧側に回り、 68年五月革命では労働者本隊のストだけを評価してソルボンヌやオデオンの占拠は批判した。著書に『労働者意識』(66年)、『五月の運動、あるいはユートピア的共産主義』(68年)、『社会の生産』(73年)など。
*9:アンリ・ルフェーヴル(1901-91年) フランスの社会学者。1930年代にマルクス主義に接近し、58年にスターリン批判と共産党のアルジェリア政策批判を軸とした雑誌『レタンセル(火花)』を発行してフランス共産党を除名されるまで、党の理論家の一人として活動。高度資本主義社会の日常生活を社会学的に研究し、正統派マルクス主義の変更を迫る大著『日常生活批判』(第1部、 1958、第2部、61年。その『序説』 は1974年に発表)や、スターリン主義を告発した『マルクス主義の当面の諸問題』(58年)により、左翼・知識人から芸術家までに大きな影響を与えた。 50年代末から60年代にかけては、雑誌『アルギュマン』に協力しつつ都市論や大衆社会論に関心を向けはじめ、シチュアシオニストとも交流、『現代への序説』、『総和と余剰』、『ひとつの立場── テクノクラートに抗して』などのなかで、頻繁SIに言及している。しかし、『コミューンの宣言』(邦題『パリ・ コミューン』)で、ドゥボールらの書いたテーゼを盗用したことをきっかけに、SIから断交を言い渡され、その後、厳しく批判されることになった。
*10:エドガール・モラン(1921-) フランスの社会学者。レジスタンスの時代にトゥールーズで「亡命学生収容センター」で活動し、共産党に入党。戦後、 強制収容所の存在を知ったことを契機にスターリン主義を告発し、51年、フラ ンス共産党を除名。50年から社会学者として国立科学研究センターで教え、56年から62年にかけて、雑誌『アルギュマン』誌の編集長を勤める。著書に、 『映画──あるいは想像上の人間』(56年)、『スター』(57年)、『自己批判』 (59年)、『政治的人間』(65年)など。
*11:「3月22日運動」 ナンテールの大学当局と警察による弾圧への抗議行動の中で、1967年3月22日、当局が持っているとされていた「ブラック・リスト」を暴くために行われた大学本部の管理棟占拠の日の夜に結成された運動体。3月22日、パリでの反帝闘争で6名のヴェトナム委員会の活動家が逮捕されたことに抗議してナンテールの極左グループらが呼びかけた集会への参加者が、学生管理の象徴である管理棟占拠を決定、 その日の夕方、142名が「教授会室」 を占拠、2時間後に撤退した。この行動を記念して、当初「142人運動」を名乗っていた彼らは、以後、キューバのカストロの「7月26日運動」を真似て 「3月22日運動」を自称、ナンテールでの3月から4月にかけての闘争、5月3日以降のパリのソルボンヌへの運動の波及において重要な役割を演じた。この〈運動〉は、参加者がすべて個人の資格で関わり、統一した綱領や理論は存在せず、その不在を「共同行動」によって乗り越える一種の闘争委員会の形式をとり、運動全体の「コンセンサス」としては、反帝主義と直接民主主義という2つ の大きな柱があるだけの開かれた組織だった。そのため、運動の拡大において一定の力があったが、実際の参加者は毛沢東主義者・トロツキスト・アナキスト諸派などさまざまな組織のメンバーの寄せ集めだったため、その反帝主義の内容はメンバー間でまちまちで、直接民主主義も参加者の「二重加盟」によってうまく機能しなかった。ダニエル・コーン=ベンディットはこの〈運動〉の理論的主導者として、たびたびマスコミの前でスポークスマンとして話したが、組織的代表を持たないこの〈運動〉の「代表」ではなく、五月革命の進展とともに、そのスタンド・プレーによって、「3月22日運動」のメンバーから批判されてゆく。
*12:〈怒れる者たち(アンラジェ)〉 1968年初頭に、シチュアシオニストの影響を受けてナンテールに結成された最左派のグループで、 正式な名称は「ナンテールの 〈怒れる者たち(アンラジェ)〉」。ルネ・リーゼル、パトリック・シュヴァル、ジェラール・ビゴルニュらを中心に、十数名のメンバー (最低で5,6名、最高で15人程度))を擁し、68年1月以来、大学への私服警官の潜入を告発するためにその写真を撮って大きなポスターにして掲示したり、 警察と一体となって学生の運動を弾圧するグラパン学部長を攻撃したり(そのための替え歌やポスター、コミックを転用 したビラなどを製作)、体制を支える役目しかない大学の──とりわけ社会学の──授業をヤジと議論で破壊したりと、 それまでにないスタイルで過激な行動を積極的に行った。3月22日の大学本部棟占拠の際には、後の〈3月22日運動〉のメンバーらよりも早く建物の占拠を行うが、この〈運動〉のグループのなかにフランス共産党員で学生の運動に敵対し、占拠にも批判的な学生が「オブザーヴァー」として交じっていることを批判し、彼らの排除を聞き入れない、〈運動〉の多数派と決裂、「ここで自由は終った」などの落書きを残して建物を去り、その後はナンテールには戻らなかった。しかし、5月13日のソルボンヌ占拠の際には、SIとともにただちに 「〈怒れる者たち(アンラジェ)〉ーSI委員会」を結成、〈占拠委員会〉の中心になって闘い、「五月革命」の終結後、〈怒れる者たち〉のメンバーのうち、パトリック・シュヴァルとルネ・リーゼルらがSIに加入した。「〈怒れる者たち(アンラジェ)〉」の名称は、シチュアシオニストがしばしば引き合いに出すフランス革命時の同名の最左派グループから転用した固有名詞だが、〈3月22日運動〉のダニエル・コーン=ベンディットらも普通名詞としてその名を名乗り、その後、マスコミがこれらを混同して用い、また漫画家のシネらが発刊したパロディ・コミック雑誌のタイトル としても使われた。