最も長い月日(63年2月−64年7月)

*1


 1963年3月、SIは雑誌『アルギュマン』*2の廃刊について、『歴史の屑かごへ』*3と題された資料を発行した。この資料の中には、「コミューンについて」*4というシチュアシオニストの文章とならんで、アンリ・ルフェーブルが自分の署名の下に『アルギュマン』最終号にこっそり発表した、その水増しされたコピーが転載されている。このように、彼は、この現代思想のインチキ仕事のカー二ヴァルに、大げさに署名するのだが、このようなインチキは、フランスでは『アルギュマン』がその最も純粋な表れであった。


 次に挙げるリストは『アルギュマン』誌の協力者*5のリストである。J・M・アルベルティーニ、K・アクセロスロラン・バルトアベル・バンシ、ジャック・ベルク、イヴォン・ブールデ、ピエール・ブルーエ、T・カプロゥ、ベルナール・カゼス、フランソワ・シャトレ、ジャン・ショエ、チョー・ミン・リー、ミシェル・コリネ、ルイス・コーザー、ミシェル・クロジェ、ミシェル・ドゥギィ、ジル・ドゥルーズ、ロマン・ドゥニ、アルベール・デトラーズ、マヌエル・ド・ディエゲーズ、ジャン・デュヴィニョー、クロード・フォシュー、F・フェイトー、レオポルド・フラム、J・C・フィユー、P・フージェロラス、ジャン・フラスティエ、アンドレ・フランカン、F・フランソワ、G・フリードマン、J・ガベル、P・ゴーディベール、ダニエル・ゲラン、ロベルト・グイドゥッチ、リュック・ド・ウーシュ、ロマン・ヤコブソン、K・A・イェレンスキー、ベルトラン・ド・ジューヴネル、ジョルジュ・ラパサード、アンリ・ルフェーヴル、O・ロラス、ステファヌ・リュパスコ、ティボール・マンデ、メン・ユー・クー、ロベール・ミスライ、アブラハム・モール、ジャック・モンバール、E・モラン、V・モラン、セルジュ・モスコヴィッチ、ロジェ・ミュニエ、ピエール・ナヴィル、マックス・パジェス、R・パジェス、ロベール・パリ、フランソワ・ペルー、A・フィリップ、アンドレ・ピディヴァル、アレクサンドル・ピッゾルノ、ダヴィッド・ルーセ、マクシミリアン・リュベル、オットー・シラー、ヴァルター・シュルツ、H・F・シュルマン、M・シェパード、ジャン・スタロビンスキー、A・スタヴァール、ヤン・ティンベルゲン、ジャン・トゥシャール、アラン・トゥレーヌ、ベルナール・ユルマン、エメ・ヴァルドール。


 コミューンに関するシチュアシオニストのテーゼはイタリア語に翻訳されて、雑誌『ヌオヴァ・プレゼンツァ』第9号(1963年春)に発表されたが、これはルフェーヴルの手になるシチュアシオニストのコピーの真正面に掲載された。この雑誌の2人の編集者は、2つの記事の中でかなり異なる見解を示していたが、2人とも、SIの理論の要点と現代におけるその存在の重要性は、1871年のコミューンの解釈に帰着すると信ずるふりをしているのだということを指摘することは重要である。そして、とりわけ、このテーゼの発表が、現在、真に体制転覆的な諸問題を隠蔽している目覚ましい(スペクタキュレール)ごまかしに反対しているSIの実践的闘争(この場合はわれわれによる『アルギュマン』のボイコットとその完全な成功の証明)に関わる資料の中の細部にすぎない、ということを2人とも指摘していないということを指摘しなければならない。だからこそ、彼らには「実践面での弱さ」とか「歴史的展望の欠如」といった言葉を容易に口にしえたのである。それが問題である。


 「シチュアシオニスト・インターナショナルは、『スペクタクルの社会』、すなわち、消費産業の目的に応じて、人間の創造性のすべての表明を操作することをめざす現代の技術官僚(テクノクラート)によって支配された科学技術(テクノロジー)的体制に対して、根本的な批判を行う立場に立つ若者のグループの機関であるということをはっきりさせておこう。(……)その根を初期のロマン主義に持ち、ランボーや、シュルレアリストや、バタイユ*6や、クロソフスキー*7を通して続けられた理論運動の継続である。歴史的展望の欠如によって、現代の官僚の支配横領機構の下に倒れる運命にあるが、その実践面での弱さをこえて、この運動は、韜晦と虚偽の上に築かれた社会に直面している新しい世代の拒否の表現を代表している。」

フランコ・フロレアニーニ

(「技術官僚(テクノクラート)による全体主義と、社会主義の官僚とスターリン主義者たちのイデオロギー的硬直化に反対する闘争におけるコミューンの価値」)

 「コミューンに関してルフェーヴルが持ち出す解釈を検討するには、数行では不十分だろう。とりわけ、その数行を、シチュアシオニスト・インターナショナルのテーゼ──これの批判からルフェーヴルの解釈は由来する──と突き合わせることだけに使わねばならない場合には。ここでは、彼らのテーゼと、それに対してルフェーヴルが行った批判的検討を考察するだけにとどめよう。われわれの見るところ、どちらについても、はっきりと否定的な判断を下すことしかできないようである。スターリン主義という複雑な歴史的現象──これはソ連においても、フランス共産党のエリートにおいても、いまだ克服されていない──に対して、神秘主義的歴史形態が対置される。つまり、『プロレタリアートの独裁』というような神秘主義的形態の中に、プロレタリア勢力の自律性とそのような勢力の権力への直接および間接的参加──これは不動の官僚制度と反人間主義の中にどっぷり浸かったスターリン主義にはないものであるを見いだそうとする。しかし、このような参加は、その歴史的で構造的な問題系から完全に切り離されてしまって、現実のイデオロギー的目標を持たない、混乱した非理性的な憧れになっている。プロレタリア勢力の自律、彼らの権力への参加という歴史的で原理的な問題は、『権力との日常的戯れ』とか、民衆の『祭り』とか、武装した大衆集団の『自律』とかいうような超越的で暗示的な神話に還元されてしまう。そして、このようなユートピア的な昂揚の中で、ためらうことなく、はっきり言って平凡で、ほとんど迷信の域に達している文句を混ぜ合わせる。たとえば、『いかなる記念建造物も潔白ではない』とする『革命的都市計画』の彼らが言うところの独創性とか、ノートルダム大聖堂を彼壊して、『この破壊によって社会に対する全面的挑戦』を示そうとしていた者たちの反人間主義的弁明とか、『計画された』だけにとどまっていて、そういうものとして『残虐』とみなされている行為に対する、これも劣らず反人間主義的な未練とかである。こうした非理性の絡み合いは、歴史的に生きられていない、距離をおいた経験にその当然の基礎を置いているのだが、それらはすべて、ルフェーヴルが再検討したものの中に実質的に統合されている。もっともルフェーヴルは、最も抽象的な文言のいくつかを除外することにしか成功していないのであるが。(……)今日の歴史的現実と接触を持だないし、持とうとしない抗議(……)。スターリン主義は(……)彼にとって、非理性的な韜晦であり、抽象的な憧れをプロレタリア勢力の上に投影したものである。この憧れは、その図式性において、シチュアシオニスト・インターナショナルのコミューンに関するテーゼの中に見られるものと、そっくりである。共産主義者たちは、そろそろ、労働者階級の勢力と社会革命の指導を引き受ける勢力との間に弁証法を保証する制度化された形態によって、政治的でイデオロギー的な生活の合理化を通して、スターリン主義止揚の問題を提起すべきであろう。」

マルチェロ・ジェンテイーリ

(「スターリン主義に対する2つの非理性的な抗議」)

 


 シュルレアリスムスターリンじみた残党が、まったく夢のような反ファシズムという口実で、アントワープシチュアシオニストを追い回しに来たので、1963年2月27日付けのオランダ話とフランス語のビラ『うさん臭い奴らと話し合う必要はない! 馬鹿な奴らと話し合う必要はない!』*8のなかで、彼らの追放について述べておいた。

 ドイツ語のSIの雑誌『デァ・ドイチェ・ゲダンケ〔ドイツ思想〕』*9の第1号が、ラウル・ヴァネーゲム編集の下で、1963年4月に発行された。さまざまな実践的条件を考慮した結果、宛先は結局、ブリュッセル31、私書箱155号に落ち着いた。

 1963年6月に、SIはJ・V・マルティンの指導の下、デンマークで、「RSG6粉砕」という示威集会*10を組織した。その際、シチュアシオニストは、『危険! オフィシャル・シークレットRSG6』と題され、「平和のためのスパイ」と署名された英文ビラを非合法に再版して配布した。これは、「政府管轄地域シェルター第6号」の計画と機能を暴露したものである。『シチュアシオニストと、政治および芸術における新しい行動形態』という理論的文書も、デンマーク語、英語、フランス語で発表された。この集会の舞台装置となった拠点──挑発的な──の第1ゾーンは、核シェルターの復元模型で構成され、第2ゾーンは、とりわけ、マルティンの熱核地図でできていた。これはポップ・アートの転用で、第三次世界大戦の間の地球のさまざまな地域を描いたものである。

 「シチュアシオニストの運動は、ひとつの考えをもって、こういって良ければ、展覧会を開く。彼らは、絵の具やスローガンを跳ねかけられた、石膏や髪の毛や鉛の兵隊を基礎とした混沌とした作品を用いて、核戦争の場合の防御施設として建設されたRSG6というイギリス政府のシェルターの破壊を求めて、示威集会を行う。もちろん、彼らは、実際は、戦争そのものに対して、全体主義国家に対して抗議しているのである。彼らはそれを芸術的手段を用いてはしなかったといえば、おそらく誉め言葉に取ってくれるだろう。ともあれ、わたしはそれが誉め言葉になり得るとは思わない。」

ピエール・リュベッカー、『ポリティケン』紙、1963年7月3日付


 スウェーデンの雑誌『コンストレヴィ』の第5−6合併号(1963年12月)には、エルゼ・ステーン・ハンセンによって、「ホモ・ルーデンス」と題された、知的な報告がなされている。


 シチュアシオニストのルディ・レンソン*11は、この同じ示威集会に向かう途中、デンマーク国境で不法にも追い返されてしまった。数日にわたって、あらゆる国の新聞によって書きたてられたスキャンダルのせいで、国境警察は、彼がパスポートを持っていないだの、全を十分に持っていないだの、顔つきが悪いだのと、言い張ったのだ。最後の点は明らかに議論の余地があるとはいえ、残りの2点の誤りは証明された(しかし、以来、この国境でのシチュアシオニストの出版物の押収は続いている)。レンソンは現在、『建築と転用』に関するSIの論文集を準備している。


 1963年春に、全学連という日本の運動からヨーロッパに代表として派遣されてきたT・黒川と高木徹は、ここで、革命組織の新たな出発についての議論に貴重な貢献をしてくれた。宛先は、前進社、東京都豊島区池袋東1−50、である。


 「さまざまな知的専門化と同じ理由で、詩は、『専門的技術者』と文学的達人の閉鎖的特権階級(カースト)の特殊な実践としては消滅し、人間のあらゆる創造行為の中に──書くという行為を含めて──直接的に現れなければならない。このことを、レトリストとかシチュアシオニストとかいうパン屑掃除ブラシたちは理解することができない。彼らにとっては、文法的に正しい文章や芸術表現を無制限に廃止することが、詩的表現の危機に対する奇跡の特効薬なのだ。」

『フロン・ノワール〔黒色戦線〕』誌、第1号(1963年6月)


 『解きほぐせるもの』という本の中で、レーモン・ボルド*12は、下品極まりない冗談というソースに混ぜて、いくつかの事実と観念──それらはまもなく実際に流行りだすだろう──を振り回しているが、そこには次のような奇妙な告白が書かれている。「シュルレアリスムの側では、観念は現実離れしている。それは、シチュアシオニストによって再び取り上げられたが、偶然の状況においてである。それは、ひょっとすると革命理論の鍵となるかもしれない(……)」。周知のように、レーモン・ボルドは、いつでも、彼の文体練習を偶然でない状況に置くことができたのである(今号の19ページ〔本書250ページ〕を参照のこと)。彼は制服を取り替えただけなのだ。


 1963年2月7日付けの『フランス=オプセルヴァトゥール』誌が書いたように、ロベール・ドゥウー*13の本『テイヤールは間抜け(コン)だ』(たとえ、われわれがこの題名に完全に同意しようとも)が「シチュアシオニストとの付き合い」を暴露していると書くのは、まったく見当はずれである。しかしながら、ロベール・ドゥウーが自立していることは明らかであり、それは最近の彼の2番目の著書『ワレヲ見ヨ(エッセ・エゴ)』によっても確認されている。幾人かの批評家は、SIを知らないふりをする模倣者を見るのにひどく慣れてしまったために、われわれを真面目に引用して、自分の目的のために有益に思えるシチュアシオニストの参照文献を挙げる者に出会うと、すぐにこの忌ま忌ましい略号〔SI〕のせいにするのである。


 1963年10月27日、アッティラコターニィ*14はSIから除名された。その3週間前に、彼は、基本的理論方針の見直しを求める文書をシチュアシオニストに提出していた。この新しい方針たるや、きわめて反動的なもので、神秘主義まで含んだものだった。その作者は全員一致で除名された。ただ1人、デンマークシチュアシオニストであるぺー夕ー・ラウゲゼン*15だけは、その中に特に気になる点は何も見あたらないと言ってのけた。したがって、彼も即座に除名された(12月に配布された回状『アッテイラ・コターニイの除名について』を参照のこと)。それ以来、ラウゲゼンは、「あいつらはひどい奴らだ。自分が何を言っているかくらいわかっている。あそこにいたのは不幸なことだった」という語り尽きせぬテーマで、スカンディナヴィアの新聞や雑誌に、しょっちゅう顔を出している。A・コターニィは、ナッシュ主義に向かって少なくとも1歩進み、一切は悲しむべき誤解で、自分はまもなくSIと接触を再び取り始めるだろうという噂を広めようとしている。われわれは否と言わねばならない。彼の文章はまったく明快だった。われわれのも、そうである。


 『記号の運動』という本の中で、エスティヴァル*16は、その理性の見かけとはまったく逆に、あくまでSIを理解しようと努めている。馬鹿馬鹿しいことは山ほどあるのだが、その中でも、彼がその「不可避的な分裂を予言し、説明した」とあるのには驚かされる。彼にとって、この離反の運動は、早くも、最初の除名の1つであるラルフ・ラムネイ*17の除名で、その本性をあらわにしたのである。つまり、われわれが1つも文章を発表しないうちに。彼が除名の本当の意味に目を閉ざしているのは、彼も、間違いなく「除名される機会すらなかった」(『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第8号)人々に属しているからなのかもしれない。ひょっとすると、彼は、このSIの分裂の衝撃波が、彼が冬眠している不毛の精神領域にすでに達したと思っているのだろうか? それなのに、彼は、シチュアシオニストと共通点があると自称して、パリのいくつかの雑誌──少なくとも、『レットル・ヌーヴェル』誌*18と『フランス=オプセルヴァトゥール』誌──の編集部に姿を見せたのだ。当然だが、詐欺はだまされたいと思っているものしかだませないのである。それは、単にシチュアシオニストが賢く、エスティヴァルが、たとえCNRS〔国立科学研究センター〕の研究員としても、おつむが異例に弱いように見えるという理由だけからではなく、とりわけ、よく知られているように、シチュアシオニストはこの種のやり方をしないという理由によっている。


 ナッシュ主義は弱体化して、主に2つの方向に散りぢりになった。オランダの雑誌『〔ザ・〕シチュアシオニスト・タイムズ』*19は、時にはとてもうまく選んだテーマ(迷路)についての、非常に豊かな図版を集める、いくらか学術的な美術雑誌に変わった。注釈に取っておかれた、ごくわずかな部分は、残念ながら、この大学的歴史的努力の高さに達していない。著名な博物館史学者であるH・L・C・ヤッフェ博士*20は、『神曲』の最初の3つの詩句をイタリア語で引用しているが、6つもの間違い(意味の取り違いないし意味不明)を重ねている。この考えからすれば、どんなことでも証明できよう。この雑誌の説明されていないタイトルには意味があった、ということさえもが、ひょっとすると証明されるかもしれない。他方、ナッシュと彼のスウェーデンの友人たちは、スカンディナヴィアの神秘にまぶしたホップ・アートの熊使いと火飲み芸人になって、公道で寄付を募っている。最近のビラでは、当を得たことに、ナッシュは、自分は「神の息子」であると宣言した。この父にしてこの子あり。


 「科学と技術が、時にばかげた役割を演じる時代の瀬戸際にあって、第3回ビエンナーレ*21に際して、〈視覚芸術探究グループ〉がパリ市立近代美術館に運び入れた、芸術というよりは遊戯に近い、大人のための活動、サイバネティックスとかリモコンを使ったゲームについて、一言いわねばならないだろう。あれは、どこかの数学的ルナ・パークにふさわしいゲームである。作品と観客の関係を変えるという口実の下に、このグループは観客の参加を求める。ボールを投げたり、さまざまな要素を操作することで、来訪者は多種多様な状況を作り出す(……)」

ラベック=マヤール、(「遊戯と現実性」、『ラ・ネフ〔外陣〕』誌

第16−17合併号、1964年1月)


 1963年の分裂*22以来、雑誌『社会主義か野蛮か』は、『アルギュマン』誌の後を継ごうと躍起になっている(新編集委員会が、読者を取り込もうとして読者宛に出した、1964年1月20日付けの回状には、「あなたが『アルギュマン』誌の定期講読をしているのは、同じような関心からだということをわたしたちは知っています」とある。参照のこと)。だが、それは遅すぎたし、雑誌自体がはっきりと〔『アルギュマン』誌より〕弱々しく、無意味である。政治的には、それは、左翼のあの経営者や中間管理職の中の最も急進的で、最も空想的な少数派のあらわれである。彼らは、社会における彼らの実際の職業の革命理論や、それと同じくらい、そのような「革命理論」に開かれた社会的職業を持ちたいと思っているのだ。しかし、マレ一派*23とかゴルツー派*24は、この種の活動のプロなのに対して、『社会主義か野蛮か』の連中は、明らかにアマチュアのように見える。つまり、本当の職業はよそにある、経営者たちの週末のための休息である。マルクス主義への忠実さから挟を分かった少数派は、最も間違った地盤の上での討論を受け入れた。「現代」がカルダン主義者の専有物だったのに対して、「革命」は少数派の旗だったのである。しかし、実際は、その一方の陣営も他方も、これら2つの観念のそれやこれを代表〔=表象〕してはいないのである。というのは、現代の外に革命はありえないし、再び発明すべき革命的批判の外に現代思想はありえないからである。少数派(〈労働者権力=プーヴォワール・ウーヴリエール〉)は、この時代の些末事がらひどく切り離されているので、彼らの好みからすると、あまりに現代的な現象である『社会主義か野蛮か』の解体の意味を説明することを有益なことと思わなかったし、その数少ない──が、みな熱心である──読者に労働者民主主義を知らせることさえも有益としなかったのである。『社会主義か野蛮か』には、何年にもわたって多くの点でなされた、有益な理論的営為のごくわずかな痕跡しか残っていない。すべては、責任放棄へのエスカレーションの異常なムードの中に紛れてしまった。誰もがあらゆる批判的思考の放棄の部署に詰め掛けている。この難破の中で、船長だけが1人、有頂天になって欝憤を晴らしているようだ。弁証法が、たとえわずかの間でも、自分に身を任せることを願って、ガルダンは15年にわたって無駄な努力を重ねてきたが、今やそれがまだ未熟すぎる実であると決めつけ、次のように宣言する。「われわれは、どんな弁証法であれ、一気に手に入れることはできない。なぜなら、弁証法は、世界と歴史の合理性を仮定するものだが、この合理性が、理論的にも実践的にも問題だからである」(『社会主義か野蛮か』誌 第37号27ページ)。かくして、彼は、長い間隠してきた、矛盾の働きをとらえることができないという自らの無能さを、最高に誇りをもって、おおっぴらにすることができる。「この(マルクス主義の)歴史理論の基礎には、それとは矛盾して深く織りなされた歴史哲学があるのだが、これは以下で見るように、それ白身矛盾したものである」。かくも、結構な条件で始められては、今後はどんなことでも見られることは確かである。ひょっとすると、ラパサード*25が、このような「問題」の革命の前衛をサイコドラマのように指導することすら、目にすることができるかもしれない。



 1963年12月、SIは、〈社会実験芸術センター〉からの、芸術と社会の関係についてのアンケートに答えることを受け入れた。しかし、「芸術家の団結」のための、さまざまな芸術運動間での公開討論に参加することは、当然、一切拒否した。それは、より一般的には、イズーが企てた、シチュアシオニスト狩りのために善良な人々の団結を求めるアピールでさえあったのである。当時、イズーは次のような宣言を、センターのある建物に貼り出していた(それは『レトリストとエスタペイリストの前衛』に再録された)。
「いくつかの反動的なグループが機械を破壊しなければならないと主張しているように、別の反動的なグループ──消化不良の亜流の亜流の亜流のマルクス主義の偽物に基礎を置いている(レーニンが言うところの穴居人である)シチュアシオニストのような──は、近い将来、芸術は全面的に排除されるだろうと主張する。(……)アメリカやイギリスでは、ネオナチの運動が鍵十字とヒットラー式の敬礼と共に再組織されている時代に、また、同時に、ゲーリング*26スターリン形式主義の最も不吉な時代のように、芸術の形式や素材の探求を攻撃するセクトが再び現れてきている時代に、人間の革新的な開花を気に掛けている人々は、方向を逸らせる〔=転用を用いる〕穴居人タイプの蒙昧主義の無能たちによる、おぞましい無知蒙昧化の努力に反撃するために団結しなければならない。」(「『シチュアシオニスト』という蒙昧主義の屑どもに対する回答」)


 おまえたちのよく知っていることを気に掛けている者たちは本当に巣まるであろう。というのも、1964年3月に、ピエロ・シモンド*27(隠れカトリック教徒という理由で、ほとんどSIの始まりと同時にSIから除名された)に指導されているトリノの「国際美学研究センター」は、イズーの絵画作品を展示したからだ。それには、死んだと思われていたイエズス会士のタピエ*28の手になる、熱狂的な序文が付されていた。こうしたことがすべて集まって、可愛い子供たちができるのだろう。


 ギー・ドゥボールの1冊の著書が、著者の許可も、いかなる通知もなく、最初はバーデン=バーデン〔ドイッ南西部の温泉保養都市〕で、次にアムステルダムで開催された「文字と絵」という展覧会に出品された。この策動が最終的にわれわれに知らされた時の主催者への最初の抗議に対して、バーデン=バーデンのドイツ人は、その責任はアムステルダムの市立美術館のA・ペーターセンというオランダ人にあると笞えた。他方、この美術館は、出品作品の選定はバーデン=バーデンの文化会館館長のマーロウというドイツ人に任せられていたと明言した。(次号に続く)


 「アナーキーな社会で必要なことは、目覚めるたびに未知の新しい社会、昨日とは違う可能性を提供する社会を見出すことである。(……)シチュアシオニストたちはこのことを理解したようであり、例えば、人々を毎日新しい状況に置くような建築上の革命(町の景観は毎日変わりうるものになるだろう)を提案する。これは外観にすぎないが、それはわれわれの趣旨に合致している。現在の生活のすべてを改革しなければならないのだ。(……)」
『ジュヌ・リベルテール』誌*29(1964年3月号)


 論文「王さまのすべての家来(オール・ザ・キングス・メン)」(『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第8号参照のこと)がデイヴィッド・アーノットによって英語に翻訳されて、イギリスの雑誌『タメーシス』(1964年3月)に掲載された後、レディング大学の2人の教授が、同じ雑誌に論評を書いたが、その無理解の程度は、はっきりと異なっている。
 「この連中は、いくつかの表明においては、むしろ19世紀の無政府主義者のように見える。わたしの知るところでは、彼らはおよそ70人いて、30の異なる国々に往んでいる。すでに、3人が分派活動か何かに対する措置として除名されている。(……)そして、ある意味で、最も独創的と言えるのは、革命は権威の外部で(単に言語上の権威ないし専門家が確立したものの外部のみならず、政府の権威の外部で──ほとんど政治体制の外部でと言ってもよかろう)起こらなければならないとしている点にある。このことから、この攻撃文書が完全に無政府主義的に考えられたことが見て取れる。」(ルーカス教授)
 「しかし、許されている言葉は、誰か許す人がいるということを含意しているのだが、著者は、明らかにこの権力の中心さえも排除しようとする。そして、それゆえ彼は、少なくとも私の知る限りでは、もう長い間使われずにいた形で無政府主義者なのである。(……)この男は、マルクス主義の考え方を社会革命に連結させ、意識的な努力によって次に来る段階を現在に導入しようとし、たとえば、21世紀の視点から現代詩を利用できるようにしようとしている最中なのだろうか? 私にはそう思われる。(……)この論文は、一連の議論の中をただ単に表面的に進展する。それは、1つの宣言であると同時に、その宣言が成し遂げようとしているものの一例である。それは、それ自身の表現において理解されねばならないもの、そうでなければまったく理解されないものである。」(ボルトン教授)


 コシオ・ダローシャでの大会において、SIの創立メンバーの1人であったが、1960年に除名されたジュゼッペ・ピノ=ガッリツィオ*30は、1964年2月12日アルバで急死した。あらゆる分野における実験家であったガッリツィオは、現代芸術の創造的な時期において達せられた極限点を最もよく代表していた芸術家の1人であった。彼は、乗り越えの探求とあのかつての時代の趣味に対する愛着の間で引き裂かれていた。この愛着の一部と、とりわけ取り巻きの圧力のせいで、結局、SIへの参加は困難なものになってしまった。その後は、独立したままでいることができた。彼自身、創意に富んでいたので、ナッシュ主義者のような偽造品の派手な宣伝とは対極にあった。シチュアシオニスト運動の登場は、彼に多くを負っている。


 5月にコペンハーゲンで、共産党の学生たちが親中国的な策動をしたかどで党を除名された。実は、彼らはSIの主張に興味を示したことで非難されたのだった。

 ギー・アトキンス教授*31アスガー・ヨルンについての批評を著しているイギリス人で、ロンドンで開催された1960年のSI大会でSIと接触したこと以外は不詳。著書に『アスガー・ヨルン──スカンディナヴィアのヨルン』(68年)、『アスガー・ヨルン──決定的な年月1930−1953年』(77年)がある。))の『アスガー・ヨルン』という本(ミシューエン出版社、ロンドン、1964年)の中には、以下のような文章がある。
 「コブラの後に、ヨルンが参加した最も重要な運動は、1957年に姶まったシチュアシオニスト・インターナショナル運動であった。非常に相異なるこの2つの運動を比較するのは興味深い。(……)各々、実質的に、ほぼ3年の間、存続した。コブラはすべてのものを飲み込んで大きくなり、最後には途方もなく巨大化する雪崩だった。SIは、それとは正反対だった。SIは当初、閉鎖的でまとまりがあった。それは大理石のかけらのように砕け散った。ヨルンは1961年に巧みに脱退したが、1962年の半ばまでに、ほとんど全員が、ギー・ドゥボールによって『除名』されてしまった。コブラは、共同のイメージを生み出した。SIは、1つの精神と姿勢を創造し、興味深く精妙な思想に基づいた実験的な活動を行った。コブラは、群れなすデンマーク人たちから成っていたので、規律があまりになさすぎた。シチュアシオニストは、自分たちの規律によって出来上がり、次いで、それによって瓦解した。」
 この結論の現実感覚から、読者は、これらの対比のそれ以外の項目に付与すべき価値を判断できよう(コブラは人間をあるがままに描いたが、シチュアシオニストはそれがあるべき姿に描いた?)。


 1964年7月、SIはフランス語とスペイン語で書かれたビラ『心にスペインを』*32を発行した。これは、現在スペインで実験されている、新しい宣伝形態に注意をうながすものである。


 ここで言及されたSIの出版物はすべて、誰でも、正当な理由のある要求をした人に届けられ得る。

*1:最も長い月日 「最も長い月日」( Les mois les plus longe )というタイトルは、62年秋に全世界で公開された長編映画『最も長い日』(邦題『地上最大の作戦』)にかけてある。第二次大戦の終わりの1944年6月6日のノルマンディ上陸からパリ解放までを、ケン・アナキンをはじめ4名の監督により、ジョン・ウェインからジャン=ルイ・バローまでの欧米のオールスターキャストで、3時間の超大作に仕立て上げたこのアメリカ映画は、パリでも封切られ、大人気を博した。

*2:『アルギュマン』誌 エドガール・モランを編集長とし、コスタス・アクセロス、ジャン・デュヴィニョーとの共同編集で、1956年から1962年まで刊行された季刊雑誌(全28号)。第1巻 113頁の訳注を参照。マルクス主義者やアなキスト、トロツキストから哲学者・文学研究者、社会学者までの幅広い執筆者を集め、50年代後半のフフンスの反共産党系左翼知識入の結集軸となった。

*3:『歴史の屑かこへ』 1963年2月21日付で、SI中央評議会名で出されたパンフレット。『アルギュマン』最終号(第27−28合併号、1962年第3季)に掲載されたアンリ・ルフェーヴルの文章「コミューンの意義」が、ドゥボールコターニィヴァネーゲムが共同執筆した「コミューンについて」(1962年3月18日)を盗用したものであることを糾弾し、両者を並列して印刷することで、コミューンの位置づけから個々の言い回しやマルクス・エンゲルスの引用の仕方にいたるまでの盗用の酷さを証明した。『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第12号に復刻され「再販の理由」という文章を付して資料として収められている。

*4:「コミューンについて」 先の注で述べたように、ドゥボールコターニィヴァネーゲムの署名による、1962年3月18日付の文章。14の断章から成り、1871年のパリ・コミューンを「19世紀最大の祭り」であったと位置づけたこのタイプ原稿は、ルフェーヴルがコミューンについての本の親筆を構想していた時に、シチュアシオニストに意見を求め、それに応じてドゥボールらが彼に渡したものだが、ルフェーヴルはあろうことかそれをほとんどそっくりそのまま自分の文章として盗用したのである、ルフェーヴルの文章は『アルギュマン』誌 最終号に発表された後、1965年にガリマール書店から『コミューンの宣言』(邦訳『パリ・コミューン岩波書店)の第7部 第2章「コミューンの重要性と意義」のなかに採録された。

*5:『アルギュマン』誌の協力者 ここに挙げられた氏名は、1956年から62年まで全28号が刊行された『アルギュマン』誌の執筆者の一部。フランスの新しい左翼の結集を図った『アルギュマン』誌は、エドガール・モランが編集長で、その編集委員には、コレット・オードリー、コスタス・アクセロス、ジャン・デュビニョー、ディオニス・マスコロ、セルジュ・マレ、ピエール・フージェロラス、ロラン・バルト、フランソワ・フェイトーなどが編集委員を務めた。

*6:ジョルジュ・バタイユ(1897−1962年) フランスの作家・思想家。ニーチェの影響を受け、無神論神秘主義の色彩の濃い小説や批評作品を通して、供犠、禁忌と侵犯、非生産的消費(ポトラッチ)に基づく「普遍経済学」、悪とエロティシズムなどのさまざまなテーマの下に思索を重ね、戦後の文学と思想に大きな影響を与えた。小説に『眼球譚』(28年)、『空の青』(36年執筆、57年刊)など、批評に『内的体験』(43年)、『有罪者』(44年)、『二ーチェについて』(45年)から或る《無神学大全》などがある。

*7:ピエール・クロソウスキ−(1905−) フランスの作家・思想家。1934年からバタイユと親交を深め、その社会学協会に参加、ニーチェの影響を強く受けて悪の形而上学を主題にした作品を著す。小説に『バフォメット』(65年)、『歓待の掟』(65年)など、批評に『わが隣人サド』(49年)、『かくも不吉な欲望』(63年)などがある。

*8:ビラ『うさん臭い奴らと話し合う必要はない! 馬鹿な奴らと話し合う必要はない!』 1963年2月27日付のSI中央評議合名で出されたビラ,ヤン・ストリィボッシュとラウル・ヴァネ−ゲムの署名入りで、オランダ語とフランス語の2言語で書かれている。

*9:『テァ・ドイチエ・ゲダンケ〔ドイツ思想〕』誌 SIドイツ・セクションでの〈シュプール〉派の除名の後、新しくドイツで発行されたSIの機関誌。1963年4月に第1号だけが出された。その内容は、ウーヴェ・ラウゼンの論文「確かにそうかも知れないが」とアッティラコターニィの論文「次の局面」以外は、『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』の第1号から第8号までの9本の論文の翻訳である。

*10:「RSG6粉砕」という示威集会 デンマークのオーデンセの〈ギャラリーEXI〉で開催された展覧会を兼ねた集会。この集会のパンフレット『RSG6粉砕』によると、ドゥボ−ルやベルンシユタイン、マルティン、ストリィボッシュの[作品」に混じって、〈平和のためのスパイ〉が発行した『危険! オフィシャル・シークレットRSG6』のオリジナル版も展示された(コビーが配布された)。またこのパンフレットには、ドゥボールが書いた『シチュアシオニストと、政治および芸術における新しい行動形態』が3ヶ国語で収められている。

*11:ルティ・レンソン ベルギーのシチュアシオニスト SIベルギー・セクションで活動したが1966年に脱退。

*12:レーモン・ボルド フランスの映画批評家。元フランス共産党員で、50年代から60年代にかけて、反体制派の映画雑誌でシュルレアリストが多く協力した『ポジティフ』に参加した。著書に『アメリカのフィルム・ノワール・パノラマ』(79年)、『シネマテーク』(88年)など。

*13:ロベール・ドゥウー ドゥウーに関しては不詳だが、ここで言及されている『テイヤールは間抜け(コン)だ』は、1962年12月、クレール・ショックと共同でドゥウーが出した小冊子のこと。

*14:アッティラコターニィ ハンガリー国籍のシチュアシオニスト。SIベルギー・セクションに所属して活動。1963年10月、ヨルゲン・ナッシュを擁護したことを理由にSIを除名。

*15:ペーター・ラウケゼン デンマーク国籍のシチュアシオニスト SIスカンディナヴィア・セクションで活勤したが、1963年10月に除名。

*16:口ベール・エスティヴァル フランスのレトリスト・批評家。イズーのレトリスムから分かれた自称ウルトラ−レトリストとして、1957年から59年まで雑誌『グラム』を刊行、レトリストのデュフレーヌ、エスティブヴァル、ヴォルマン、ジャン=ルイ・ブローの詩・批評・バンフレット類を掲載した.後には、CNRSの研究者となり、古書物学(ビブリオロジー)なる学問を姶めた。著書に『1945年以降のバリの文化的前衛』(63年)、『綜合的表意文字的ハイパーグラフィー』(64年)、『前衛』(68年)『構造主義から図式主義へ』(83年)、『世界の書物──国際的書物学(ビブリオロジー)序論』(83年)、『書物学』(87年)。

*17:ラルフ・ラムネイ 〈ロンドン心理地理学委員会〉のメンバーとしてISの設立に参加した後、ISイタリア・セクションのメンバーとして活動。1958年3月除名。

*18:『レ・レットル・ヌーヴェル』誌 1953年創刊の文学批評誌。主幹はモーリス・ナドー。

*19:『サ・シチュアシオニスト・タイムズ』 シチュアシオニストの国際版雑誌を名乗っているが、ドゥボールシチュアシオニストは参加せず、ヨルン、ドイツの〈シュプール〉派など、シチュアシオニストを除名された者たちや、アレシンスキー、カウロス・サウラ、ポリス・ヴィアン、ロベルト・マッタ、ウィフレド・ラムなどが参加した。ジャックリーヌ・ド・ヨングの編集で、1962年5月から64年9月まで全6号が出された。

*20:ハンス・L・C・ヤッフェ博士 著書に『パブロ・ピカソ』、『モンドリアン』などのあるオランダの美術史家と思われる。

*21:第3回ビエンナーレ展 1963年9月28日から11月3日までパリで開催されたビエンナーレ展で、クリスト、二キ・ド・サン=ファール、スポエッリらのヌーヴォー・レアリストの他、〈視覚芸術探究グループ〉も参加し、「不安定さ──迷路」という名の観客参加型のインスタレーションを展示して評判になった。

*22:1963年の分裂 1963年7月の総会での〈社会主義か野蛮か〉の分裂のこと、現代資本主義下でマルクス主義との訣別を主張するカストリアディスらと、マルクス主義の有効性を主張するA・ヴェガ、ピエール・スイリ、シャン=フラランソワ・リオタールらとの間の対立は、カストリアディスが59年に執筆した「現代資本主義下の革命運動」の仲間内での回覧によって表面化したが、63年7月の総会での投票でカストリアディスらが多数派となり、少数派のリオタールらはグループを去った。カストリアディスらは『社会主義か野蛮か』誌を引き継ぎ、リオタールらは、労働者向けの宣伝紙であった『プーヴォワール・ウーヴリエール〔労働者権力〕』紙を継承し、後に、「労働者権力」グループを結成した。江川幹『疎外から自治ヘ──評伝カストリアディス』(筑摩書房、1988年、180−182ページ)参照。

*23:マレー派 セルジュ・マレの一派。マレ→フランスの新言説の政治理論家。戦後フランス共産党に入党し、活動していたが、58年に離党し、『フランス=オプセルヴァトゥール』誌に協力。自ら他の離党者とともに〈共産主義トリビューン〉を結成、それを母胎に、60年にクロード・ブールデらとともに新左翼の統一を図り統一社会党を結成。マレはこの党の理論的指導者となり、社会主義研究センターを組織、多くの社会学者やさまざまな党派の活動家を集めて、60年代初頭に注目を集めたパンフレットを数多く出版した。マレ、C・ルフォール、マンデス・フランス、P・ナヴィルによる『労働者は経済を管理できるか』(61年)、マレ、ルフォール、モラン、ナヴィルによる『マルクス主義社会学』(63年)などである。ここから「聖歌隊長」と、シチュアシ寸ニストが揶揄しているのである。マレは、やがて、社会学によるマルクス主義の改造を主張し、大学で社会学を教るようになるが、経済決定論を退け、新しい労働者意識による「自主管理」を唱えるその主張は、68年の1つの理論的背景となったと評価する者もいる。著書に『新しい労働者階級』(63年)、『労働者権力』(邦訳、77年)など。

*24:ゴルツー派 アンドレ・ゴルツの一派。ゴルツ→(本名ジェラール・オルスト 1923−) ウィーン生まれのフランスの社会主義理論家・エコロジスト,1946年、亡命先のスイスでサルトルと知り合い、フランスに移る。『レクスプレス』誌(1955年から64年)や『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』誌などのジャーナリストをしつつ、60年の『レ・タン・モデルヌ』の創刊以来、サルトルとともにその共同編集者として活動。70年代にはエコロジー運動に関わり、最近もエコロジー派の代表的論客として発言している。代表的著書に『裏切者』(58年)、『歴史の教訓』(59年)、『エコロジーと政治』(75−79年)など。ここで「盗作本」と言われているものは『労働者戦略と新(ネオ)資本主義』(64年)のことと思われる。

*25:ジョルジュ・ラパサード(1924−) フランスの社会心理学者。60年代に国立科学研究センター(C NRS)で活動し、アメリカ心理学、特にモレノの「心理ドラマ」に関心を寄せ、社会心理学の研究を行う一方で、〈社会主義か野蛮か〉や『アルギュマン』のグループに近づき、『アルギュマン』誌の官僚主義特集を編集するなどの活動を行い、「制度分析」と呼ばれる社会学の方法を創始した。最近は都市社会学の観点から郊外の移民を支援したり、ラップ音楽論などを書いたりもしている。著作にフロイトマルクスを用いて「人間の未完成」理論を構築した『人生への入り口』(63年)、「制度分析」を展開した『集団、組織、制度』(66年)など。

*26:ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング(1892−1946年) ナチス・ドイツの政治家・軍人。第一次大戦後、ヒトラーと知り行い、突撃隊(SA)を組織し隊長となる。23年、ミュンヒェンナチス暴動に参加、以降4年間スウェーデンに亡命、帰国後、国会議員となり、33年、プロイセン内相として国会議事堂放火事件を機に共産主義者を弾正して首相となり、軍備拡張に努め、38年に元帥となる。第二次大戦とともに国防閣僚会議議長、戦時経済最高責任者、国家総元帥となり、権力を次々と獲得、戦後、ニュルンベルク裁判で絞首刊の判決を受け、拘置所で自殺。

*27:ピエロ・シモンド イタリア国籍の元シチュアシオニスト。SI以前にはアスガー・ヨルンの「イアシニスト・バウハウスのための国際運動」に参加し、57年7月のSI設立時からSIイタリア・セクションで活動したが、その6ヵ月後、1958年1月に除名。

*28:ミシェル・タピエ(1909−87年) フランスの美術評論家。1948年、ブルトンジャン・ポーランと「生の芸術(アール・ブリュト)商会」を設立し、大戦直後から画家のデュビュッフェが実践していた「生の芸術」(幼児、精神疾患者、アマチュアの作品)の収集活動を推進する。それと平行して、デュビュッフェ、ヴォルス、フォートリエら大戦後の前衛的な非具象絵画を「アンフォルメル(非定型)」芸術と命名し、この運動の推進者にして中心的理論家として活動。また、サム・フランシスやアンリ・ミショー、フォンタナ、日本の具体派なども積極的に評価した。著書にアンフォルメルのマニユフェストである『もう1つの芸術』(1952年)などがある。

*29:『ジュヌ・リベルテール』誌 アナキストの機関誌。

*30:ジュゼッペ・ピノ=ガッリツィオ(1902−64年) イタリアの画家、陶芸家、薬剤師、考古学者、地方議員、ジプシー研究家。1957年のSI設立大会以来のSIメンバー。機械のロールから吐き出される布に絵の具・砂・果汁などを用いて次々と描かれその場で切り売りされる「工業絵画」の制作を中心に、SIイタリア・セクションで活動したが、1960年SIを除名(参照)。

*31:ギー・アトキンス教授 コブラ((コブラ 1948年、デンマークの画家アスガー・ヨルンが、ベルギーのドトルモン、オランダのコンスタントらとともに結成した前衛芸術グループ。活動の拠点であったコペンハーゲンブリュッセルアムステルダムの頭文字をとってコブラと命名された。それぞれの地域で大規模な国際展を2回、中規模の集団展を数回、数々の個人展やワークショップを行い、雑誌『コブラ』 10号と機関誌『ル・プティ・コブラ』4号を発行し、51年に解散。ヨルンはその後、53年から57年までイタリアのアルビソラで実験的な集団芸術実践〈イマジニスト・バウハウスのための国際運動(MIBI)〉を組織し、57年のSIの結成に参加した。「『コブラ』の仲問たちとは何か、また彼らは何を代表しているか』とそれに付した「訳者解題」を参照。

*32:『心にスペインを』 1964年7月に出され、フランコ政権下のスペインで配布されたビラで、女性のヌード写真にコミックの吹き出しが付けられ、その中に挑発的な文章が書かれたものと一緒に印刷されている。テクストは2言語で書かれているのではなく、フランス語版とスペイン語版の2種類があり、「聖職者の偽善とフランコ主義の独裁との聖なる結合を告発し、〔……〕次の蜂起の責任者たちに、今後は全体的な変革しか、日常生活の全休をカヴァーする変革しかありえないということを喚起する」目的でこのようなプロパガンダの手法を採ったことが書かれている。