『遠方からの手紙』 訳者解題

 イワン・シュチェグロフ、別名ジル・イヴァンについては、本書第1巻45頁以下の訳者解題に書いたように、1953年、19歳の時にドゥボールらのレトリスト・インターナショナル(LI)に参加、漂流実践の最もラディカルな担い手として活動するとともに、「新しい都市計画のための理論定式」を執筆したことで知られる。彼自身はその直後にLIを除名されたにもかかわらず、その論文は、SIの中心的なテーゼである「状況の構築」という概念の形成に寄与したため、58年になって『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第1号に採録され、57年のSI結成時以降、シュチェグロフは、精神病院に収容されていたにもかかわらず、SIの「遠方の=古くからのメンバー」〔 membre de loin 〕として扱われた。
 シュチェグロフの「狂気」と精神病院での生活について、ミシェル・ベルンシュタインはグリル・マーカス( GreiI Marcus,Lipstic Traces ── Asecret history of the twentieth century, Harverd University Press, 1989, pp. 383-384 )のインタヴューに答え、1983年に次のように述べている。
 「彼〔シュチェグロフ〕はだんだん狂ってゆきました。しかし、完全に狂ったわけではありませんでした。彼はすでに〔LIを〕除名されていました──われわれに起きていることは、ダライ・ラマがコントロールしていると思いこんだからです。そして、その頃のある日、彼は妻と喧嘩をしました。カフェであばれて、手当たり次第に物を壊しました。彼の妻はひどい女で、警官を呼んだのです。救急車も呼びました。自分は妻なので、彼を収容させることができたのです。彼はある病院に連れ去られ、そこでインシユリンショックを与えられました。電気ショックもです。その後、気が狂ったのです。ギー〔・ドゥボール〕と私は彼を訪ねて行きました。彼は手で物を食べ、口か涎を垂らしていました。気が狂っていたのです。気が狂った人がするような仕草だったのです。彼が私たちによこした手紙はわけの分からないものばかりでした。死んでいないとすれば、彼はまだそこにいるでしょう。ごくしばらくの間だけ、彼は社会復帰施設に送られ、そこでは、自由を手にいれ、外に出ることもできたのですが、病気は進行してしまい、施設の外では生活できなくなってしまいました。彼も、どこか他の場所に行きたいとも思わなくなりました。それに、どこかに出たとしても、彼はおびえてしまい、すぐに戻ってしまいました。それで、施設の演劇に参加し、芝居を上演するようになったのです。いまでも彼はそこにいると思います。」