シチュアシオニストを斜めから見ること (『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』第4巻解説 by 上野俊哉 )

 シチュアシオニストの運動に関心をもったきっかけは、パンクとのつながりであった。知られるように、セックス・ピストルズの仕掛け人でありマネージャーであったマルコム・マクラレンはロンドンにおけるシチュアシオニストのシンパだった。この事実をふくめて、パンクやニューウェーヴの音楽とスタイルを20世紀の前衛の歴史、ダダ、シュルレアリスム、レトリスト、シチュアシオニストの表現と運動との系譜と横断的関係において考察した著作として、グリル・マーカスの『リップスティック・トレイシズ』(ハーバード大学出版、1989)は、ある時期までわたしにとってはバイブルのようなテクストだったのである。
 というのも、そこでは自分が夢中になってきた音楽と(社会)思想のするどい交差点を見いだすことになったからである。今ではこの本にもいろいろな批判がなされている。
 一番大きな批判は、結局この本が、パンクにせよシチュアシオニストの運動にせよ、アカデミズムや既成の芸術の枠組みに還元してしまっているのではないか、というものである(もちろんこれには一理あるが、この本の価値がこれでなくなってしまうわけではない)。
 その後シチュアシオニストについて少し調べていくと、どうもマルコムやパンクの運動などは、全く話の外のものとして扱われていることがすぐにわかってきた。ドゥボールシチュアシオニストの中枢は、シチュアシオニストの反体制的な雰囲気だけをスタイルとして表現したり行動したりする輩を強く否定し、「プロ・シチュ」という名の言わばニセものとして弾劾していた.マルコムなどそうしたものの代表例にすぎなかったらしく、パンク(つまりは音楽やサブカルチャー)と社会運動との連帯など、実際には存在しなかったのである。
 シチュアシオニストと「プロ・シチュ」の関係については、本書の訳者である木下誠氏が『スペクタクルの社会』の邦訳解説において詳細に論じている。また、同じ解説のなかで木下氏はドゥボールが「除名」という方法を使って、シチュアシオニストの運動の変質、特に文化や芸術への運動の解消に対抗していた経緯をふりかえっている。すでに1959年にはアムステルダムシチュアシオニストは「統一的都市計画」を体制寄りにすりかえ、芸術表現を社会革命に優先させているという廉で除名、脱退を余儀なくされている。さらに61年のイェーテボリでの大会以降、ドイツの「シュプール」派の芸術志向、スカンディナヴィア支部のヨルゲン・ナッシュのグループの商品化(家具製作)の志向が、こうした指弾と「除名」の対象となった。
 別に「芸術派」の肩を持つ気はさらさらないが、この二項対立は案外不毛なのではないかという疑いを長い間もってきた。シチュアシオニストの実践と理論を歴史的にふりかえり、同時にその運動を現代の社会において展開していくにあたって、はたしてドゥボールら「正しい」のシチュアシオニストの原理はいまだに守られるべき教条なのだろうか。むしろ、電子テクノロジーをはじめとする様々なメディアを通して、状況の構築は「商品」や「芸術」のかたちをとっても運動として作り直していけるのではないか。これは日本のバブル経済に躍らされた「プロ・シチュ」の能天気な現代版であり、ますます遍在しつつあるスペクタクルに屈服する身ぶりなのかもしれない。だが、歴史と状況はまだ判定を下していない。
 わたしがドゥボールの教条的な身ぶりにうんざりしながらもシチュアシオニストヘの興味を捨てずに、しかも奇妙な居心地の悪さのなかで思考していたころ、欧米では何度目かの「シチュアシオニスト回顧」の機運がたかまっていた。ニューヨークの雑誌「ZONE」では、シチュアシオニスト創成期のメンバーでもあったコンスタントの建築、都市計画「ニューバビロン」が紹介され、ドゥボールや後に彼と対立するヴァネイゲムの論文や著作が相次いで英訳されていた。ラディカルな美術誌である「October」に拠る理論家ハル・フォスターあたりも著作のなかで繰り返しシチュアシオニストの実践と理論にたちかえり、単なる美術の文脈への還元をこえた次元での吸収をはじめているように見受けられた(同誌は最近の特集で再びシチュアシオニストを取り上げたが、あまりにも”アカデミック”な内容のために評判はよくない)。もちろん、パリのポンピドー・センターやロンドンのICAで開かれたシチュアシオニストの回顧展が、こうした動きの要因となっていた。
 結局、アートや文化資本への運動への回収が起こっただけではないか。ドゥボールに忠実な者なら、そのように断言するだろう。ポストモダニズムは全てを「流用」し、「回収」してしまう。シチュアシオニストも例外ではない。「転用」、「漂流」、「心理地理学」……は体裁よく文化商品に転化されてしまった、と。しかしながら、わたしはそのように言うことで切り捨てられるものにずっと注目してきた。わたしが関心をもつ人は、なぜかみなマルコムもコンスタントもヨルンも、ドゥボールから「除名」され、排除された者たちだった。だからといって、わたしは自分がシチュアシオニストを芸術や資本に、つまりは「スペクタクル」に変えてしまうがわの人間であるとは思っていない。その理由をここでは、理論的というよりは体験的なレヴェルから問題にしてみたい。理論的には、すでに著作のなかでふれておいた(上野俊哉『シチュアシオン』、作品社、1996)。
 わたしがひんぱんに日本を出るようになったのは92年以降のことだが、このころすぐに気がついたことがある。それは、ある一定以上の思想的バックグラウンドをもった人間にとって、シチュアシオニストとは一種の「常識」であるという事実である。このことは、その人間がシチュアシオニストの運動に肯定的か否定的かを問わずに言えることであった。むろん、そもそも付き合ってきた相手も相当に片寄ってはいるのだが、活動家や理論家がごく普通にシチュアシオニストのことを知っていることに端的に驚いた。その度合いは、ちょっと日本では想像できるものではない。しかもドゥボールのいたパリよりも、ベルリン、ニューヨーク、ロンドン、そしてアムステルダムでわたしはシチュアシオニストの様々な余波に出会い、それが必ずしもドゥボールの望んだような方向のものとはかぎらないことに気づかされた。「シチュアシオニスト以後」とも呼ぶべき実践と理論のうねりはたしかに多様なかたちで起こっていて、それは今も続いている。
 アムステルダムの中心街の1つ、ワーテルロー広場の近くにHet Von Sjakooという書店がある。そこは社会科学やフェミニズムエコロジー、メディア論の書物をあつかっており、世界中の運動の機関誌も置いている(日本の某新左翼党派の新聞もかつては置いてあった)。はじめてここに来てびっくりしたことの1つは、アナキズムマルクス主義、メディア論などとならんで「シチュアシオニスト」という棚があったことである。
 ラディカル本の書店であるという特殊性はあったが、やはり驚きだった。シチュアシオニストの実践と理論をボードリヤールフーコーなどポスト構造主義との関連で問題にした、セディ・プラントの『モウスト・ラディカル・ジェスチュア』もここの新刊の棚から見つけることができたのである(その後、セディとは友だちになった)。ここの本屋以外にも、ロンドンやパリのラディカル本屋を渡り歩いて手にいれた、わたしのシチュアシオニスト関係の本や資料は今ではちょっとした文庫と言えるほどにまでなっていて、Sjakooのコレクションをいつの間にか上回ることになってしまった。
 92年に旅行中のさい、カールスルーエにメディア・アーティストのジェフリー・ショウを訪ねた。ジェフリーにシチュアシオニストについて聞くと、ロンドン、ミラノ、アムステルダム……と渡り歩いてきた彼は当然この運動の重要性を認識していた。そのおりにアムステルダムシチュアシオニスト以降の資料を大量にもっている彼の古くからの友人がいることを教えてくれた。
 チュベ・ファン・タイエンというそのアーティストは、その当時アムステルダムの社会史研究所でも働いて、シチュアシオニストの以前と以後にわたる運動や活動の資料を蒐集していた。しかも彼は60年代の学生運動から80年代のスクウォッティングの運動にいたるまでつねに政治的・実践的にも最前線に位置してきた、アムステルダムでは伝説的な左翼の1人でもあったのである。93年の春にはじめて会ったおりに、彼は書店Sjakooの創設メンバーでもあることがわかった。
 アムステルダムでは今日でもスクウォッティング、自由ラジオ、海賊テレビの運動が盛んであり、その雰囲気は今や自由ネットやハッキングなどサイバースペースにまで広がっている。運動と表現、政治と芸術が密接に、しかもしなやかにからみあいながら展開されていくスタイルも、ここではすでに歴史的なものと言えるだろう。その特異性には、「シチュアシオニスト以前/以後」の様々な運動がつながっていることを把握するのに、そんなに時間はかからなかった。そもそもアムステルダムシチュアシオニストの因縁は第二次世界大戦期にまでさかのぼる。知られるように、芸術社会運動としてのCoBrAのAはアムステルダムの頭文字である。特にアムステルダムではデンマーク人のアーティスト、アスガー・ヨルンが有名である(市立美術館などに収蔵されていた作品は、現在ではCoBrA美術館に移されている)。彼はレジスタンスの時期から構成主義、文学、シュルレアリスムモダニズム……などと交流しながらヨーロッパ各地を横断し、レトリスト、イマジニスト・バウハウスなどの芸術運動を展開した。彼はその後57年のシチュアシニオスト創設に関わり、61年に「除名」されるまでドウボールらと協働する。シチュアシオニストの運動資金の一部はヨルンの絵画を売却することで作られていたという話もあるし、彼はドゥボールの映像作品のスポンサーでもあった。「除名」後も2人の個人的な交流は続いていたと言われている。
 CoBrAの絵画や作品は、一応美術史の文脈にも「抽象プリミティヴィズム」といった無理な括りで入っており、無意識や狂気、未開人や幼児の想像力に対する関心をもつアートの1こまとして理解されている。むろん、この見方は不十分であって、CoBrAが何よりも運動として組織されていた点、またヨルンらがもっていた思想の意義をとりにがすことになる。しかし、ヨルンの発想は神秘主義につながるおそれのあるものとしてドゥボールに一蹴される結果になってしまった。
 ヨルンとともにCoBrAからシチュアシオニストの運動に参加した芸術家のコンスタント・ニューヴェンホイスもここで忘れるわけにはいかない。彼は芸術家としてのみならず理論家として前記の運動に関わっており、いくつもの重要なマニフェスト、論考をもたらしている。さらに彼は60年代から70年代にかけては絵画制作を放棄し、「ニュー・バビロン」と題された未来の都市計画の模型と図面の制作に腐心する。都市の全体を空中に浮かせ、道路や各種インフラの流れと別個に居住空間を配置し、自由に移動可能な仕切りでもって地理的空間じたいを「漂流」させる、というこのコンセプトは現在でも建築家はもとより、都市論、メディア論の方向からも強い関心が向けられている。この都市には通り=街路が存在しない。逆に全てが自由に移動可能な回路、網の目になっており・移動機械は都市の被膜の上をおおい、可動的なテラスが空を移動する乗り物の乗り場になる。「未聞の可変性」、「予期しない遊戯」、「偶然の漂流」に人々はさらされるのだ。五九年において、すでにコンスタントたちの構想はメディアのネットワークに結びついている。
 ただし不幸なことにコスタントはヨルンらと同様に、シチュアシオニストの指導的理論家だったギィ・ドゥボールとの確執によって、ほとんど除名同然のかたちで運動から脱退(脱落?)したとされている。結局ドゥボールのがわから言わせれば、コンスタントやヨルンは結局、芸術家として「芸術作品」を作ったり、環境整備としての「都市計画」にとりくむことを、革命的な「遊び」としての「状況の構築」に優先させた美学至上主義者にすぎないとされてしまっている。
 はたしてそうだったのだろうか?この点に対する見直しは、たとえばグラハム・バートヴィッスルの刺激的な
著作『生きているアート』が出た段階で飛躍的に進んだと言えるだろう(これもSjakooで手に入れた)。ヨルンの無意識、自然、魔術、遊戯への関心をバートヴィッスルは慎重に読み解いている。すなわち彼は、自然と社会に共通する目に見えない力やエネルギーのネットワークや流れを表象する地図や図表としてヨルンの芸術はあったのではないか、という大胆な読みを、レジスタンスの時期から戦後にいたるヨルンの理論的著作に見いだしている。さらにヨルンの「生きている装飾」(Living ornament)という概念のなかに、形式と内容の二元論をこえた生きた自然の生成の論理を、社会や身体の編成の論理と重ねて提示する美学=感性をすかし見てみせる。
 現実と別の仕方で出会うための、生きた自然と社会の地図としてのアートというこの発想は、ヨルンのなかで唯物論と宗教、科学と神秘主義の関係性という点にまで煮詰められる。このあたりがドゥボールの不興をかったわけだが、こうした問題関心が今日の思想や運動の前線と微妙にふれあうものであるという事実をおそらく無視することはできないのではないか(この点は後でもう一度ふれる)。コンスタントがまだ存命中であり、アムステルダムで暮らしていることをつきとめたわたしは、苦労して彼の連絡先を探しあて、ついに94年の春に会うことができた。中央駅にほど近い、運河べりの家並みのなかに彼の家はあった。二間続きの大きな書斎にはもちろんわたしの知っている多くの文献があり、そこには彼が弾くとおぼしきいくつかのギターのケースが並んでいる。愛犬が吠えてじゃれ回る室内で、彼はわたしの質問の1つ1つに丁寧に記憶をまさぐるようにして答えてくれた。彼は自分に対する人々の現在の興味や関心が「ニュー・バビロン」のプロジェクトに集中していることがいくぶん不満のようだった。けれども、彼の絵画と歴史や社会のカタストロフィックな出来事(戦争や難民)との関係、その絵画表現におけるカルトグラフィー(地図製作的)な部分に質問がおよんだころ、彼は遠く日本からやってきた奇妙なゲストにも少しずつ心を開いてくれるようになった。ドゥボールやそちらのがわに立った議論や紹介を読んでいたわたしは、彼は気難しい人間なのではないかと警戒していたのだが、それが杷憂にすぎないことがすぐにはっきりした。
 おそるおそる、彼の「除名」についても話を聞いた。彼ははっきりと「除名」はドゥボールによる一方的な決定であったこと、自分は決して社会変革を軽視し芸術至上主義に走ったつもりはなく、ヨルンもまた自分と同じように考えていたはずだと強い調子で言い切った。むろん、一方の当事者の発言を全面的にとりあげることはできないかもしれないが、少なくともドゥボールのがわからの主張しか読んでいなかったわたしには新鮮な一瞬であったことを告白しなくてはならない。
 コンスタントは2,3日後にもう一度今度は自分のアトリエで会わないかと誘ってくれた。そうすれば、今度は自分の製作中の作品も見せてくれるというのである。もとより断る理由は全くない。ありがたくこの申し出を受け入れ、数日後、わたしは中央駅からバスで10分ほどの彼のアトリエを訪ねた。もう30年近く使っているというアトリエの入り口には、様々な資料のなかの写真で知るのみであった「ニュー・バビロン」の模型の一つが飾られており、家から彼と同伴している愛犬が出迎えてくれた。運河べりの冷たい風のなかにも、どこかやって来つつある春が足取りを軽くさせるような日だったが、彼はちょうどルクセンブルグ産の白ワインを空けたところで・それをわたしにもすすめてくれた。
 軽い切れ味のワインを楽しみながら、わたしはコブラの時期、「ニュー・バビロン」の時期、そして現在の彼の絵画制作にわたる三つの時期に通底する彼の「変革」への夢と空間的な「迷宮」へのこだわりについてもう一度問いを深めていき、前ラファエル派から構成主義にいたるまでの彼の「趣味」について、ずいぶん無遠慮な質問もした。
 特にニューヨーク時代のモンドリアンにとってブギウギが特殊な意味をもったように、彼の絵画においては音楽的な構成が重要な役目をはたしており、それが彼の作品の「社会性」にとって決定的なものであることが、彼の口から確認できたことは率直にうれしかった。ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」流の「遊び」を革命的な運動に読みかえ、イタリアのジプシーのテントに未来都市のノマド的な生のモデルを見いだす彼の姿勢には、ドゥボール流の実は古典的な「政治と美学」の二項対立とは全く別の視点があるように思えた。アトリエには弦をスティックで叩くジプシーの楽器が置かれており、彼はそれを弾いてくれた。その瞬間、彼のなかでは音楽的律動は”サブカルチャー”として彼の社会理論と視覚作品を横断していることをわたしは自覚していた。
 ヨルンやコンスタントの芸術と表現、文化運動のヴィジョンのなかには、アムステルダムの現在の運動に通じるような問題関心がひそんでいるのではないか、とわたしは思いはじめている。しかし、そうは言っても運動の現場ではもはや彼らにそれほどの期待はない。逆に彼らはすでに「美術館」に収蔵された大文字のアートの仲間入りを果たしており、制度の内と外をかいくぐるような運動を目指すスクウォッターやメディア.アクティヴィストは彼らへのシンパシーを失っているようにも見える。シチュアシオニスト周辺の運動でアムステルダムで今も語り草になっているのが、「プロヴォ」Provoの運動である。まさに文字どおり挑発(provocation)を旗印にしたこの運動は66年前後にパリの5月にさきがけるような運動を展開した。不良、ビート族、モッズ、フーリガン……などに構成された「プロヴォタリアート」(provotariat)とは、この運動に影響されて街で動いていた連中を指している。
「プロヴォ」は社会運動であり、同時にパフォーマンスやハプニングを組織する表現の運動でもあった。広場の真ん中に集まって詩を朗読したり、パフォーマンスをやったりしながら若者や知識人をこの街頭の闘争に巻き込んでいったのである。ドゥポールのISの視点からすると、この「ダッチ・プロヴォ」の運動はパンクなどと同様に単なる愚連隊の跳ね上がった行動にすぎなかった。それは主意主義的で美学的で、文化に傾きすぎた運動というわけだ。
 しかし少なくともアムステルダムの現在の運動に具体的に影響をおよぼしているのは、ドゥボールの弾劾にみちた宣言や思想の断片であるよりも、あくまで周辺の運動にすぎなかった「プロヴォ」の方である。といって、ここには身内の贔屓やナショナリズムや地域主義は一切ないことをことわっておくべきだろう。アムステルダマーほどそうしたものと遠い存在はないからである。
 「プロヴォ」は原爆の禁止、公害闘争、ヴェトナム反戦といった課題を引き受けながら、「ホワイト・バイシクル運動」という変わった運動を展開した。これは街のなかに白い自転車をいくつも配備しておいて、誰もが乗り捨て自由に利用するというものだった。子供のとき自分の自転車を白く塗って運動に参加したという友人をわたしは何人か知っている。運動としては消えてしまったが、トラムのただ乗りや捨てられた自転車の再使用、自転車の盗みあい(?)などは今も日常の身ぶりとして根付いている。こうした身体的無意識が「プロヴォ」の運動と無関係であったとは考えにくい。
 「プロヴォ」はサンフランシスコの「ビーイン」やニューヨークの「マザーファッカーズ」などと同時代を生きており、おそらくその後のパンクに連なるような若者文化であった。シチュアシオニストの周辺領域へのわたしのこだわりは、若者運動、社会運動、表現文化のなどのより大きな文脈のなかでシチュアシオニストをとらえていくことに徐々に移っていったのである。
 ここで1つだけ事例を共通する事例をあげておけば、ドラッグに対する関心があげられる。60年代にはアシッドによる感覚の解放と拡張がさかんに主張されたが、「プロヴォ」もまたサイケデリック革命を社会と意識のミクロ/マクロな両次元で展開することを目指した。「プロヴォ」をふくむこのころの運動に使われた図像、落書き、ポスターやパンフ、ビラなどのデザインを見ると今日のクラブやレイヴのフライヤー(ちらし)とほとんど変わらないものがあることに気づく。むろん、それらが過去のサイケデリック文化を受け継いでいるからでもあるが、感覚変容のメディアとしてのドラッグという視点は、20世紀の社会運動や若者運動をおさえる上で落とすことのできないものとなるだろう(世界中から集められたこうした資料はペンギン叢書に入っている『BAMN アウトロー宣言とエフェメラ1965〜1970』で確認することができる)。
 70年代に、プロヴォの活動家であったロエル・ファン・デューンはオランダ王室をパロディにしたコミューン、「オレンジ自由国家」の構想を発表する。「オレンジ自由国家」は住宅問題とエコロジーを課題とし、「ラジオ2000」という自由ラジオも計画された。この「オレンジ自由国家」の宣言文に次のようなものがある。
 「アルタナティヴな社会は現存する秩序のサブカルチャーのなかから生まれてくる。不満をもった若者たちのアンダーグラウンドな社会は、支配的権威とは別に下からわきあがってきて、自らを治めるのである。この革命は今や使い尽くされてしまった。これはアンダーグラウンド、抗議、デモといったものの終りを意味する。今やわれわれは反権威的な社会の構築に力をさかなければならない。……伝説の都市の妖精のリングはワールド・ワイドなネットワークに連結していくだろう、つまり”オレンジ自由国家”(the Orange Free State)に向かって」
 これを読むと、この「オレンジ自由国家」が後のスクウォッティングやメディア・アクティヴィズムと「プロヴォ」をつなぐ役割をしたことが理解できる。80年代にスクウォッティング運動のなかから、無数のスクウォッターやルンペン・プロレタリアートたちが、市内のフォンデル公園と周囲の住宅地に「フォンデル自由国家」を設立した。この解放区は、政府の治安部隊、戦車、ヘリによってわずか3日で鎮圧されたが、一時的にのみ存在する自由で自律的な空間/時間という構えは、ハキム・ベイのTAZに先駆けて運動のなかに息づいていたと見ることもできる。
 また前述の宣言文にすでに「ワールド・ワイド・ネットワーク」という言葉が使われているのは面白い。この段階では、まだ誰もワールドワイドなウェブに自分のパソコンをつないで作業をするということは予想もしていなかったはずだ。まさに運動の想像力はときにテクノロジーの時代的文脈をこえるようなふるまいを見せるのである。
 「プロヴォ」の関係者の多くはまだ生きている。シモン・フィンケルヌーフ(1928年生まれ)は戦後のオランダの代表的な詩人の1人である。アレン・ギンズバーグを翻訳し、コンスタントやヨルンなどCoBrAの作家たちとも共闘し、コンスタントの「ニュー・バビロン」の模型には詩とマニフェストを寄せている。「プロヴォ」の導師(グル)として、これもまた伝説的な人物である。
 やはり94年に彼にインタビューする機会をもった。ちょうど日本では阪神の震災とオウムによるテロがあったばかりで、彼は原理主義とテクノロジー的合理性による日常生活への復讐だと繰り返していたのを思い出す。ヨガやスーフィズム、風水や易経など、西欧ではエソテリスムや神秘主義の文脈にあたる文化に関心をもっているようだった。
 ただし精神世界やニューエイジ文化にいかれた元ヒッピーとは片付けられない側面をもっていて、「ブレス」という自ら編集委員をつとめる雑誌では運動や闘争の情報のぺージを担当している。エコロジー政策よりの政治党派である民主66のメンバーとしても活動している(むろん66とはプロヴォの最盛期の年を指している)。彼はわたしに次のように力説した。

「この40年間、世界は1つの革命を生きてきた。スペクタクルの乗り越えは言葉や言語の新しい変換された使い方からはじまった。シュルレアリスムビートニクスもシチュアシオニスト、現代のサイバーカルチャーもそれを行ってきた。残念ながらシチュアシオニストは最後にはスターリニズムやドグマ的なマルクス主義のパロディになってしまった。分派、分裂、除名、中傷のしあいだ。古い政治を批判するうち、自分がその古い罠に陥ってしまった。言語を変換させ欲望と世界を変えるテクニックとテクノロジーは、身体の外的拡張や意志の外化や表現ではない。それはかつてマックルーハンが言ったように内破(内部拡張)するものだ。そのかぎりでこの言語の変革は社会全体の変革と結びつく。LSDマリファナもそのためのメディアとしてのみ意味があるんだ」

 自家製のワイン、自家栽培のマリワナをあおりながら語る彼の話を聞きながら、シチュアシオニスト以後/以前の運動と思想が思いもよらないかたちで変成をはじめていることにわたしは少なからず感動していた。
 ここでは彼が69年に書いたテクストである「幸福に向かうハイな道についてのラップ」(『カウンターカルチャー』、ピーター・オウェン社、1969)にふれておきたい。このエッセイではたえず自発的(スポンテニアス)で、名前もなければリーダーもない熱狂的な若者の運動としての「プロヴォ」が強調されている。ここで彼がラップという言葉をかなり自覚的に使っていることに注意する必要がある。挑発や抗議という文字上の意味のほかに、彼はジャズ的な中断のリズムを喚起させるためにこの言葉を使ったという。同じ言葉と身ぶりが後年、黒人の街路文化、若者文化で大きな力をもったことを、彼は楽しい偶然と言って喜んでいた。「プロヴォ」は「街路の次元での世界政治」だったのであり、「プロヴォタリァート」の視線は不良(nozem ちんぴら、愚連隊の意味。ヘブライ語、イーディシュ語に由来する)のそれである。

「まさに自分の生をもって、この時代にカウンター・カルチャーと呼ばれる、永続革命に属するかどうかを決定しなくてはならない。ホモ・ルーデンス、エクスタシー、体験、神、世界意識、グローバルで惑星的で普遍的な宇宙卵、大いなる眼……といった別ののりものを見つけなければならないのだ」

 ドゥルーズ&ガタリとマルクーゼを足して割ったような言葉だが、あくまでもこの選択は「スペクタクルの超克」に関わっており、感覚やテイストの決定であると同時に政治的な決定である。さらにここではサイケデリック文化と電脳文化、精神分析やメディア論の接点、横断的関係がすでにかなりの次元で追求されている。シモンの言説におけるこのようなテクノロジー的かつメディア論的な含意は、彼がコンピュータ文化に出会う以前から使われているのは面白い。同じエッセイのなかでシモンはジミヘンのギターが引き起こす陶酔とドラッグによるそれを比較し、将来的にはサイバネティックな方法でトランスが可能になるのではないか?と予想している。このテクストの後半にはLSDのキューブを水道によって供給するというフィクションが挿入されているが、シモンはテクノロジーの環境とスペクタクル化が、”サイケデリック”な感覚操作を行う可能性についてふれている。
 シモンが立っている場所からハキム・ベイが立っている場所まではもはやあと1歩でしかない。ハキム・ベイは本名の方の名前を使うときにはスーフィズムをはじめとする神秘主義アナキストの政治、現代のアクティヴィストの運動の重なりまでを睨んだ論文や著作を発表しているが、このことも「プロヴォ」やCoBrAにまでさかのぼる長い文脈で見つめる必要がありそうである。
 アムステルダムにはこのようにシチュアシオニストの本流とは外れたところに、ある可能性が生まれ、それは今も動き続けている。ことはロンドンでも同じではないのか。わたしは自然にそのように考えた。「プロ・シチュ」のばかげた騒ぎの方に目を向ける愚かな読みかもしれないが、少なくとも今ここでの運動、思想に何をもたらし、どんな方法、道具、戦略を準備しているかを見ることも大事なことではないだろうか。
 そんなことを考えて、相変わらずヨーロッパ各地のメディアの会議やアートの展覧会をうろついていたら、ロンドンで「アンダーグラウンド」というミニコミを発行し、自分たちもメディア・アートの作品を作っているグラハノム・ハーウッドとマシュー・フラーの2人組に出会った。彼らはしかし通常の意味でのアーティストではない。身分的には元失業者の現在フリーランサーの活動家といったところである。彼らはパンクやキング・モブ・エコーの流れを汲んでおり、例によってシチュアシオニストの実践と理論は彼らにとっても基礎教養なのであった。彼らを通して前述のセディ・プラントとも知りあいになったし、前々から気になっていたロンドンの作家スチュワート・ホームに出会うこともできた。
 『レッド・ロンドン』や『ブラック・マスク』といった暴力やセックスを主題にした小説も発表している作家、アクティヴィストであるスチュワート・ホームは『文化に対する攻撃』でシチュアシオニストの歴史と理論を研究し、これを今日のメディア・アクティヴィズムにつなげる理論と実践を展開している。特に彼はシチュアシオニストとパンク以降の様々な運動や現象の関係を横断的に解釈している。彼自身もパンクのミュージシャンであったり、パンクのバンドの親衛隊であった時期がある。
 彼はシチュアシオニストの思想と実践を80年代イギリスにおける「ネオイズム」、「盗用主義」、「アートストライキ」、「クラスウォー」といった運動や思想と積極的に接合している。またさらにパンクとシチュアシオニストそしてダダを単純に線状にとらえる視点をこえて、フルクサスやメールアートの歴史と今日のメディア・アクティヴィズムをつなぐカギとしてシチュアシオニストの運動をつかまえている。彼は80年代後半から「盗用主義フェスティヴァル」を組織したり、自ら「アート・ストライキ」を実践するなどロンドンのアクティヴィズムにも深くコミツトしている。
 96年の春にはロンドンのエスニック系移民街であるベスナルグリーンの彼の家をたずね、討論をすることができた。このインタビューのおりに彼の出版直前の最新編著『読本・状況主義とは何か?』を贈られ、読むことができた。「シチュアシオニスム」というまさにドゥボールが全否定した言葉が使われているのを見て絶句する読者もいるかもしれないが、このリーダーは英米におけるシチュアシオニストの運動の多面的な広がりを、その理論にわたってよくおさえてある。
 特に彼が主張する概念で、グラハムやマシューにも共有されている戦術的な概念に「盗用主義」plagiarismuがある。それはポストモダンな「流用」appropriationよりも、ドゥボールの定義した「転用」や「剽窃」の方に近い。「盗用」は何でもありのパクリではなくて、「労働の拒否」や「アートストライキ」といった、より直接的な社会運動に開かれている。
 ちょうどホームの家に遊びに行っているときに、彼の友人たちも来ていたのだが、彼らは何とシチュアシオニストと同時に運動を開始した「ロンドン心理地理学委員会」London Psychogeographical Associationのメンバーたちであった。彼らからは最近の活動のニューズレターをもらうことができたが、ここにも神秘主義やハキム・ベイヘの関心が主題化されていることには強く興味をもった。心理地理学委員会は定期的にロンドンの街のどこかで自由参加のかたちでサイコジオグラフィカルな「漂流」、「遊歩」にとりくみ、これをレポートしている。王室にゆかりのある建築とそこに隠されたコスモロジーを探求したり、ルネサンス以来の錬金術図像学と現実の都市の構造との連関を問題にするなど活動の内容は実践的かつ創造的である。「心理地理学」や「漂流」を単なる路上観察学にしてしまわない力はこうした持続の営みのなかにしかないのかもしれない。

 このように、いったんドゥボールに代表されるシチュアシオニストの主流や、パリという地域性を離れたところからシチュアシオニストの運動と思想の余波を追ってみると、そこには意外に面白い鉱脈がひそんでいることが見えてくる。ドゥボールたちの強い批判の論理のいったん裏側に出てみたり、シチュアシオニストの提起した問いや思考をしなやかに組み直したりする読みや実践こそが、今日シチュアシオニストの運動を受け継ぎ、展開するためには必要なのではないか。読者がより柔軟で目でシチュアシオニストの残した遺産にふれることを望むのはそうした理由による。