オランダにおける反乱と回収

訳者改題


 有名だが束の間の命しかなかった「プロヴォ」*1の運動は、『フィガロ・リテレール』紙(66年8月4日)が暴露した新事実から、ベルギーの雑誌『サンテーズ』4月号の、これまたかなり情報通の記事にいたるまで、しばしばSIと関連づけられてきた。前者では、「アムステルダムの怒った若者たちの背後には、隠れた(オカルト)インターナショナルが見出される」と書かれ、後者は、SIがプロヴォの「知識人たち」の低級な遊びに満ちた滑稽な穏健主義に「ラディカル な論証」を対置したことを考慮して、彼ら知識人たちがその論証から結論を引き出すにちがいないと予見した。彼らは、5月に入るとすぐ、自ら消滅する決断をして、まちがいなくその通りになった。「プロヴォは何一つ発明しなかった」ということは本当だが、次のように仮定する(『フィガロ・リテレール』)のは誤りだった。プロヴォは「シチュアシオニスト・インターナショナルのそれまで孤立していた理論家たちには、まだ欠けていたものをもたらす。「知的な端役」をこなせる部隊、自らは多かれ少なかれ闇のなかにとどまっていたいと思っている組織の世俗権力となることができる部隊のことである」と言うのだ。われわれは、そのようなお供を必要とするほど孤立しているとは思わない。それに、言うまでもなく、われわれは、いかなる種類の「部隊」も欲していない。たとえプロヴォより優秀な部隊であっても。実際は、SIとプロヴォの関係は、2つの明確な点で、これとは別のところにあった。ヨーロッパの若者のなかに現れた反乱の自然発生的な表現として、プロヴォは普通、シチュアシオニストの批判(資本主義の豊かさに反対し、芸術と日常生活との融合に賛成するなどの批判)を通して定義された領域にその身を置いていた。彼らは、「哲学者」や訝しい芸術家から成る指導部の傘下に入り、そのかぎりで、そこでSIの諸テーゼをいくらか知っている者たちに出会ったのである。しかし、この秘匿された知識は、いくつかの断片を単に回収して偽造したものでもあった。プロヴォの位階秩序(ヒエラルキー)のなかに元シチュアシオニストのコンスタント*2がいることを指摘するだけで十分だろう。彼とは、われわれは1960年になってすぐに関係を断った。当時、彼のテクノクラシー的傾向は、「いまだ存在しない」革命のどのような展望にも対立するものであった(「アンテルナシオナル・シチュアシオニスト」誌 第3号を参照)。プロヴォの運動が流行になるや否や、コンスタントは、突然、革命家になり、「彼の」統一的都市計画の永遠に変わらぬ模型(マケット)を「アナキズム的都市計画」という名で運動のなかに滑りこませたのである。この都市計画は、同じ頃、ヴェネツィアビエンナーレでも、前の方の名で展示され、後の名の場合よりもよい印象を与えた。コンスタントは、その時に、オランダから公式に自国の芸術家として紹介されていたのだ。プロヴォの潰走は、彼らが位階秩序(ヒエラルキー)に屈服したばかりか、そうした位階秩序(ヒエラルキー)が機能を果たすために大急ぎで作り出さねばならなかった愚かなイデオロギーにも屈服したことのなかに、すでに書き込まれていた。SIが接触したのは、公式に認められた運動からはっきり区別されていたラディカルな下部組織だけであり、彼らに直ちに分裂するよう常に奨めてきたのである。
 あの貧しい理論的主題をここで蒸し返すには及ばない。プロヴォの教義と行動については、すでにイギリスの雑誌『ヒートウェイヴ』やわれわれのパンフレット「学生生活の貧困」で、十分な批判が行われている。しかし、プロヴォの反乱の本物の部分を惹き起こすと同様に、その反乱のばかげた制度化を招いたものは、何よりもまず、今の社会にはらまれた矛盾の実際上の発展なのである。プロヴォの順応主義が最もはっきりと現れたのは、プロレタリアートの消滅や、労働者が満足し完璧にブルジョワ化しているという確信について、彼らが社会学的−ジャーナリズム的ドグマを採り入れた時である。1966年6月14日、アムステルダムで起きた暴動は、何日にもわたって続き、その規模の大きさのせいでプロヴォはまったく偽物の脚光を浴びて知られることになったが、現実に、その暴動によって知らされたものは、すでに命を終えた運動だったのである。プロヴォの運動は、まさにその日に死んでいたのだ。というのも、それは、現代の模範的な労働者暴動だったからである。それは、建設業労働組合官僚主義に反対して開始され、警察(および警察とつるんだ港湾地区の援軍)を相手に続けられ、大日刊紙『テレグラフ』のビルを破壊する企てにおいて頂点に達した。この新聞が、当然、虚偽のニュースを発表していたからである。確かに、アムステルダムの反抗する若者たちの多く(プロヴォ全体を学生運動と同一視するのは間違いだろうから)は、街頭に降り立った労働者たちと合流した。だが、その時、プロヴォ的位階秩序(ヒエラルキー)は、自らの惨めなイデオロギーを否定するものを、この衝突のなかに発見して、自己に忠実になった。暴力を否認し、労働者を弾劾し、ラジオとテレビの放送を通じて平静を呼びかけ、卑劣にも集団で華々しく(スペクタキュレール)町を去ることまでやってのけ、受動的態度の好例となったのである。
 確かに、シチュアシオニストは、ある種のどこかしら新しい行動という点では、プロヴォの先を行ったが、それでも、われわれが執拗に「19世紀」にとどまっていることを誇れる核心的な点が1つある。歴史はまだ若く、階級なき社会というプロレタリアートのプロジェクトは幸先を誤ったとしても、それでもやはりこのプロジェクトは、分子化学や天文物理学のどのような掘り出し物と比べても、またスペクタクルによって流れ作業で製造される無数の事件と比べても、ラディカルなまでにずっと新しい奇妙な出来事なのである。われわれの「前衛主義」にもかかわらず、また、そのおかげで、そのようなプロジェクトこそ、われわれがその回帰を願ってやまない唯一の運動となったのである。

*1:〈プロヴォ〉 1965年にオランダで生まれた反体制派の運動。クロポトキンについての著作のあるロエル・ファン・デューンや反体制の雑誌編集者ロブ・ストーク、有名なアナキスト、ルドルフ・デ・ヨングらのグループとエコロジストのハプニング・アーチストであるヤスパー・グロートフェルトらが合体して結成、「アムステルダムの退屈な住人」を挑発し、オランダ社会を転覆して、「カウンター・ソサエティー」を作り出すことを目的に、統一的綱領も組織形態も持たず、ハプニングやゲリラ的なデモ、機関紙の配布などを行い、マスメディアから注目された。「訳者解題」を参照。

*2:コンスタント(本名コンスタント・アントン・ニュウヴェンホイス 1920- ) オランダの画家・彫刻家。〈オランダ実験グループ〉、コブラの活動を中心的に行った後、1957年からシチュアシオニスト・インターナショナルに参加。コブラの活動後、10年近く絵画製作をやめ、「ニュー・バビロン」と名付けた都市計画のマケットを作り続ける。1960年夏、脱退。脱退後は、「ニュー・バビロン」の制作を続け、アムステルダムに居を定め、やがて絵画制作に復帰し、65年から67年には〈プロヴォ〉とともに活動し、「白い都市」を唱え、機関紙「プロヴォ」に多くの文章を発表している。