『悪しき日々は終わるだろう』 『SIの役割』『優先的コミュニケーション』 訳者改題

 ここからの3つの論説──「悪しき日々は終わるだろう」、「SIの役割」、「優先的コミュニケーション」──は、それぞれが密接に関係しながら、60年代のシチュアシオニストの理論の大衆性と、その運動論・組織論を考えるうえで重要な論点を提出している。
 「専門家」や「知識人」のような偏った知ではなく「全知的な批判」を担う「新しいプロレタリアート」としての「大衆」、「情報の量」ではなく「情報の質」を握った者たちの「共同的な行動」としての「優先的コミュニケーション」──シチュアシオニストは、「スペクタクルの社会」を批判する自分たちの理論がそうした回路を通って大衆性を獲得することをこれらの三つの論説で主張する。このシチュアシオニストの理論の大衆性は、メンバーを精選し、メンバーに対して厳しい理論的かつ実践的な規律を課し、脱退と除名をいとわないシチュアシオニストの運動体としての組織論と一見矛盾するかに見える。シチュアシオニストは、後に、自分たちの組織は大衆組織ではないことを明確に表明し、次のように書いている。「SIは大衆組織ではありえないし、型にはまった芸術的前衛集団のように弟子を受け入れることさえないだろう」。「SIは〈平等者の陰謀〉〔バブーフの唱えた秘密結社〕、部隊を欲しない参謀部以外のものではありえない。重要なのは、新しい革命に通じる『北西の通路』を見出し、それを開くことである。この革命は大衆的な実行者を有することはないだろうが、これまで革命の衝撃から守られてきたこの中心地の上に、日常生活の征服の事業を嵐のように襲来させるに違いない。われわれは雷管だけを組織していた。自由な爆発は、われわれの手からも、他のどのようなコントロールからも永久に離れて起きるものであるにちがいない」(『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』 第8号 「さまざまな国での反シチュアシオニスト作戦」)。
 しかし、この組織の非大衆性は、SIという組織が闘争のなかでスペクタクル的な観照の対象となり、指導し代表するレーニン主義的な前衛党として大衆の前に立ち現れないようにするための不可欠な仕組みである。「革命の教えのスペクタクル的な一方的な伝達は、スペクタクルの社会においてそのチャンスをすべて失った」(悪しき日々は終わるだろう)という認識を突き詰めて行くとき、シチュアシオニストにとって、自らの組織を、レーニン主義的な党派としての「前衛」とすることは決して認められないことだった。かといって、「前衛」の役割を清算するアナキストのような組織論もまた、歴史性を捨象した「絶対自由な個人」という幻想のなかにとどまるがゆえに、運動のダイナミズムのなかで何の力にもなりえない。理論と実践における「前衛」の立場を保持しつつ、それがスペクタクル化される芽をことごとく摘み取ること、それが「〈平等者の陰謀〉」、「部隊を持たない参謀部」という言葉で表されるシチュアシオニストの組織なのである。この組織の運動は、「弟子」を増やすことによって、ボルシェビキ的にその組織を拡大することには何の利点も見出さない。自らはごく少数の者たちの間で理論と実践を深化させつつ、他の場所で自分たちの理論を体現する運動を見出し、そこに自分たちの理論と実践を意識的に伝えること、自らは「雷管だけ」を組織し、「自由な爆発」が自分たちのコントロールも、他のどのようなコントロールも離れて起こることを追求すること、それが、シチュアシオニストのいう「共同的な行動」としての「優先的コミュニケーション」である。

『悪しき日々は終わるだろう』    

『SIの役割』    

『優先的コミュニケーション』