冬眠の地政学

訳者改題

 競合する二大国家陣営間の「恐怖の均衡」──現時点での世界政治の本質的所与の内でも最も明白なものであるが──それはまた敵対する陣営それぞれにとっては、相手が永久に存続することへの屈服が均衡していることを意味し、国境内部では、1つの運命に対する人々の屈服が均衡していることを意味する。その運命は、あまりにも完全に人々の手を逃れて行ってしまうので、地球が存在していること自体が、戦略家のうかがい知れぬ巧妙さと慎重さに委ねられた偶然のたまものにすぎないものになってしまっている。それがはっきりと含み持つ意味は、現にあるものに対する全面的な屈服であり、またこの運命を組織する専門家たちの共存能力に対する全面的な屈服である。彼らがこの均衡に補足的な利点を見いだすのは、それぞれのシステムの周辺で、そしてまず発展途上国の現在の運動の中で突発するどんな原基的解放の経験も、この均衡のおかげで速やかに清算することができるからである。コンゴの革命的高揚*1が国連派遣軍の派遣によって鎮圧された(1960年7月初め、国連派遣軍が上陸してからの2日間に、一番乗りしたガーナ軍はレオポルドヴィルの交通スト破りに貢献する)のは、ある威嚇を別の威嚇によって中和する──機に乗じて利益を得る保護者が誰であれ──同一の悪循環を通じてである。またキューバの革命的高揚*2が単一の政党の結成によって鎮圧されるのも(1962年3月に、スペイン革命弾圧で重要な役割を果たしたことで知られるリステル将軍*3が、キューバ軍の副参謀長に任命されたところだ)、同様にしてである。
 二大陣営が実際に準備しているのは、戦争ではなく、自分たちの権力の内的安定化を映し出すこの均衡を無限に維持することである。言うまでもなく、これには莫大な資源が結集されることになるだろう。なぜなら起こりうる戦争のスペクタクルのなかで常により高いところへと到達することが至上命令とされるからである。というわけで、バーリー・コモナー*4──彼は核戦争が約束する破壊の評価を合衆国政府から委託された科学委員会の議長を務めていた──は、核戦争の1時間後に8千万人のアメリカ人が死亡し、生き残った者も、その後通常の生活を送れる見込みは皆無だろうと発表している。参謀本部は、準備段階では、メガボディ(100万人の死体を表す単位)でしか計算を行なっていないが、最初の半日以降については計算しても無駄であり、それ以降の計画立案については具体的な情報がまったく欠けていることを認めた。1962年1月5日の『ル・モンド』紙のなかで、ニコラス・ヴィシュネーが述べたところによれば、アメリカ防衛の学説を唱える前衛的潮流は、すでに「最上の抑止手段は、地上に埋め込まれた巨大な核爆弾を持つことにあるだろう。敵が攻撃をしかけてきた時には、その核爆弾を爆破させれば地球は粉々になるだろう」と考えている。
 この「最後の審判のシステム」(ドームスデイ・システム)の理論家たちは、確かに降伏の絶対的兵器を見いだし、歴史の拒絶を初めて正確な技術力でもって表現した。しかし、この教条主義者の厳密な論理は、人々の生き延び〔=余分な生〕(survie)を組織しながら彼らの生を阻害するという確固たる計画を有するこの疎外社会の矛盾した欲求の一側面だけにしか対応していない。(ヴァネーゲムが「当たり前の基礎事実」でで書いている、生きること(vie)の概念と生き延びること〔=余分な生〕(survie)の概念との対立を参照せよ)。生き延びることはは、現在と未来の人間労働を搾取する不可欠の条件だが、その生き延びを軽視することでドームズデイ・システムが果たしうる役割は、それゆえ、支配的な官僚制の究極の理性〔=最終手段〕という役割だけであり、それは逆説的にも、それらの官僚制がいかに真剣かを保証するにすぎない。しかし、概して来るべき戦争のスペクタクルが完全に効力を持つには、今からすでに、われわれの知る平和の状態の形をでっち上げ、それらが根本的に要請するもののために働かなければならない。
 この点で、1961年を通じての核シェルターの異常な発達は、確かに冷戦の決定的な展開点であり質的な飛躍ではあり、この秘薬は惑星規模にまでサイバネティクス化された全体主義的社会の形成過程において途轍もなく重要であることがやがて明らかになるだろう。この動きは合衆国で始まったが、そこでは、今年の1月にケネディが『同盟のの状態に関するメッセージ』のなかですでに議会に次のことを請け合えるまでになっていた。「市民の防衛シェルターについての最初の重要なプログラムが実行され、5千万人を収容する用地を特定し、標識をつけて確保しています。学校、病院、それに類する場所での核シェルターの建設に対して連邦当局から与えられた支持に皆さんの同意を求めます」。国家によるこうした生き残りの組織化は、公然、非公然は別にして、二陣営の他の重要諸国へと早急に広がっていった。例えば、西ドイツでは、まず誰よりもアデナウアー首相*5と彼のスタッフの生き残りに心を砕いたが、この計画の実現を漏洩したミュンヒェンの雑誌『クイック』は押収された。スウェーデンとスイスは、山間部を掘った集団シェルターを設置し、そこの工場とともに埋められた労働者たちが、ドームズデイ・システムのフィナーレまでたゆみなく生産を続行できるようにしてある。だが、市民防衛政策の基盤は合衆国にある。そこでは、テキサスのピース・オーマインド・シェルター・カンパニー、メリーランドのアメリカ・サバイバル。プロダクツ・コーポレーション、カルフォルニアのフォックス・ホールシェルター株式会社、オハイオのビー・セイフ・マニュファクチャリング・カンパニーのような繁盛している多くの企業が、個人用シェルター、つまり各家庭の生き延び設備用の私有資産として建造された無数のシェルターの広告と設備を受け合っている。周知のように、このような流行をめぐって、宗教的モラルや教会についての新解釈が発展している。つまり、それは自分の家族の命を確実に救うためには、たとえ武器を手にしても、シェルターに友人や赤の他人を近づけることを拒否することが明白なる義務だと主張するのである。事実、ここではモラルは、近代資本主義のあらゆる宣伝のなかに潜む同調という名のテロリズムの完成に寄与するにふさわしいものでなければならない。家族や隣人を前にして、あるレヴェルの給料で分割払いで手に入るタイプの車を持たないと主張するのは、これまでもほとんど困難なことであった(それはアメリカ型の大都市の全体で常に認められることである。というのも居住場所の設定はまさに給料のレヴェルに応じて決定されるからである)。市場の景気に応じて入手しうる相応の生き延び手段を家族に保証しないでいることは、それと比べるといっそう困難だろう。
 合衆国では、1955年以来、「耐久消費財」の需要の相対的飽和状態は、消費が経済発展に与えるべき刺激の不足を招いていると一般に見なされてきた。確かに、あらゆる種類のガジェット商品の流行の広がりは、そうしたものとして理解できる。というのも、ガジェット商品とは、準耐久消費財の部門のまったく思い通りになる余剰生産物の代表だからだ。だが、シェルターの重要性もまた、〔経済の〕拡大に必要な推進力というパースペクティヴのなかに十分よく現れている。シェルターの設置と、予測しうるその拡張にともない、すべてを地下でつくり直さねばならない。住居設備の可能性は再考されなければならない。すなわち、2倍の量を考えなければならないのである。実際に、新たな規模で、新たな耐久消費財を設置することが必要となっている。今日まで豊かな社会が未開拓なまま残していた地下の地層へのこうした投資によって、自ずから、すでに地上で使用されている準耐久消費財(例えば、各々のシェルターが大量に備蓄せねばならない缶詰食糧のブーム)や新しい特殊なガジェット商品(例えば、シェルター内で死に、当然そこで生存者とともにとどまり続ける運命にある人々の身体を収容するプラスティック製の袋)の生産が盛んになる。
 すでにあらゆる場所にばらまかれた個人用シェルターは──例えば、酸素補給の自給ができないというような粗雑な技術的過失から──まったく役に立たず、また、核戦争が偶然によって実際に起こってしまったなら、どれほど完全な集団シェルターでも生き延びのための非常にがぎられた余地しか提供できないだろう。このことは確かに簡単に気が付くことだ。だが、どのような恐喝についても言えることだが、ここでも防衛というのは単なる口実に過ぎない。シェルターの真の使途は、人々の従順さを測り、それゆえそれを補強することであって、支配的な社会に好都合な方向へとこの従順さを操作することである。豊かな社会で消費しうる新食品の創造と同じく、シェルターは、これまでのいかなる商品にもまして、極めて人工的な欲求を満たすために人間を働かせることができるということを示している。この人工的な欲求は、「たえて欲求であったためしがなく、欲求にとどまる」(1960年7月20日の『(統一的革命綱領の定義に向けた)予備作業』を参照せよ)。また欲望になる恐れもないのである。この社会の力、その恐るべき自動性の天性は、この限界状態において測ることができる。この力は、万人にとっての最良の解決策は首を吊ることだと思えるまでに空虚で絶望的な生活を押しつけるのだと乱暴にも主張するまでになるだろう。そして、おまけに、規格化された〔自殺用〕ロープを自ら生産することで、それは事態を安全かつ実りあるかたちで運ぶことにも成功するだろう。しかし、それが持つ資本主義的な富すべての中で、生き延びという概念が意味することは、消耗の果てにまで引き延ばされた自殺、日々生を断念することである。核シェルター網──それは戦争に役立つためにあるのではなく、今ただちに役立つためにある──は完成された官僚主義的資本主義のもとに置かれた生活の極端で戯画的な似姿になっている。ある新キリスト教は、そこに断念という彼らの理想や、産業の建て直しと両立しうる新たな恭順を置き直している。シェルターの世界は、自らを、空調のある涙の谷〔天国に対して苦悩に満ちた現世をいう〕と認識している。すべての経営者と彼らの彼らのさまざまな司祭たちの同盟は、カタレプシー〔=強硬症、一定の姿勢をとったまま変えようとしない症状。分裂病患者などにみられる〕に力を、もっと過剰な消費を、という統一スローガンで一致できるだろう。
 生の対極としての生き延び〔=余分な生〕は、1961年のシェルターの購入者たちによるほど、はっきりと賛意を表明されるのは珍しいが、疎外に反対する闘争のあらゆるレヴェルに見出される。芸術についての古い考え方は、生を断念することの告白として、言い訳と慰めとして、作品によって生き延びることが強調されている(主として、宗教的背後世界の世俗的代替物である美学が生まれたブルジョワの時代以降)。さらに、最も欲求を切り縮めがたい段階すなわち、食糧や住居における生き延びのための必需品においても、統一的都市計画の『基本綱領』が断罪する「有用性への脅し」を用いて、それは「屋根が必要であるという単純な論拠によって」、環境に対するどのような人間的批判も消し去ってしまうのである。
 「団地」という形を取る新しい住居形態は、実際にはシェルター建築と切り離さすことができない。団地とは、単にシェルターの劣った段階を表しているにすぎない。ただ、団地のパルマンノの一軒一軒は狭く、棟から棟への連続的な移動を可能にする解決策が計画されていないだけだ。フランスでの団地の最初の例は、現在ニースに建てられているブロックである。そのブロックの地下には、そこに住む大量の住民のために、すでに核シェルターが取り付けられている。強制収容所のような地上組織は、形成途上にある社会正常な状態であるが、その社会を地下に縮小して再現したものは、過剰なまでの病理を表している。この病は、この健康の図式をよりうまく暴いている。地上での絶望の都市計画は、合衆国の移民地区だけではなく、それよりはるかに遅れたヨーロッパの国々の移民地区でも、さらには、例えば「コンスタンティーヌ計画」*6以来、公然と主張されている新植民地主義時代のアルジェリアにおいてさえ、急激に支配的なものになりつつある。1961年末に、フランス領に関する修正国家プラン第1版──その公式はその後、緩和されたが──は、パリ地方に関する章で、「活気のない住民が、首都の内部に居住することに執着していること」を嘆いている。そして、幸福と可能性の専門家であるそのプランの資格のある執筆者は、「パリ住民は、パリ郊外に移れば、より快適な生活ができる」ということに注意を促している。それゆえ、執筆者らは「この不活発な人々が」パリに「居住することを徹底的に阻むこと」を合法化することで、この耐え難い不条理を除去することを要求している。
 価値ある主要な活動は、このような社会を動かす経営者たちの計算を徹底的に阻み、具体的に除去することにあるのは明白だ。そしてそれを実行する覚醒した群衆以上に、都市計画の立案者らは常にそのことを考えているため、地上のあらゆる近代的設備のなかにその防衛策を築くのだ。屋根という普通の形であれ、予防的に作られた家族が住むための墓という「豊かな」形であれ、住民のためのシェルターの計画立案は、実は計画立案者白身の権力を守るのに役立つに違いない。国民を缶詰状態にし、できる限り孤立化することを管理する指導者たちは、この機会を利用して、自らの戦略的目的に専念できる。20世紀のオスマンたちは、都市の古い市街地の碁盤の目のなかに抑圧力を確実に展開できるようにしておく必要はもはやない。彼らは、広大な放射状の上地に、純粋状態の碁盤の目を描くいくつもの新都市(そこでは、武装解除され、コミュニケーンョン手段を奪われた大衆の劣性は、ますます技術を強化する警察力に比べると、明らかによりひどいものになってゆく)に住民を分散させると同時に、いっそうの安全を期して、指導者官僚だけしか住民になれないような、攻撃の手の及ばぬ首都を建設する。
 こうした政府‐都市の発展の別の段階として、ティラナ*7の「軍事地帯」を挙げることができる。それは、都市から遮断され軍隊に守られた地区で、そこにはアルバニアの指導者たちの住居や中央委員会の建物、学校と公衆衛生施設、自給生活をするエリートのための商店や娯楽施設が集中している。〔アルジェリアの〕ロシェ・ノワール*8の行政都市は、フランスの〔植民地政府〕機関を大都市で通常に維持できないことが明らかになった時、アルジェリアの首都の役目を果たすべく1年で建設されたが、それはまさにその機能からしてティラナの「軍事地帯」に対応している。ただ、ロシェ・ノワールは野原の真ん中に突然出現したという違いがあるだけだ。最後に、ブラジリアという最も顕著な例がある。それは、広大な荒野の真ん中に降って湧いた都市であり、その落成は軍によるクワドロス大統領*9の更迭とブラジルの内戦──それはもう少しで、官僚たちの首都の真新しい壁を拭う〔=新築の住居に入り込む〕ところだった──の前兆に呼応していた。この都市はまた、周知のように、、機能主義建築の模範的な成功例でもある。
 こうした事態のなかで、不安をかき立てる数々の不条理を告発し始める専門家たちが数多く見うけられる。彼らがそうするのは、見かけ上の部分的な不条理──彼ら白身の活動も、それに深く貢献している──を操る中心的合理性(首尾一貫した狂気の合理性)を理解しなかったからである。したがって、不条理に対する彼らの告発も、その形式と手段において不条理なものでしかありえない。ニューヨーク、およびボストン地区のすべての大学と研究機関の900名の教授が、1961年12月30日付けの『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙上で、ケネディ大統領とロックフェラー財団統裁に恭しく手紙を宛てて──ケネディがデビューするにあたり、5千万人のシェルターを選んだと自慢した教日前のことだ──、「市民防衛」の発展の不吉な性格を二人に説いていたが、彼らは何を考えてそんなことをしたのだろうか。あるいはまた、社会学者、裁判官、建築家、警官、心理学者、教育学者、衛生学者、精神分析家、ジャーナリストたちの大群が、ありとあらゆる種類の会議、委員会、討論会に押し寄せ、「団地」を人間化するためにみんなで決定的な解決策を研究しているが、彼らも何を考えているのだろうか。団地の人間化は、まさに核戦争の人間化と同じように──同じ理由で──馬鹿げた欺瞞である。核シェルターは、戦争ではなく戦争の脅威を、現代資本主義において人間を定義するもの、すなわち消費者としての義務という意昧での「人間的尺度」に引き戻すのである。人間化についてのこうした問いかけば、人々の抵抗を抑圧するのに最も有効な虚偽を広く確立することを率直にめざしている。郊外の団地は、寒冷の地ヴェルホヤンスク*10と同じくらい直接かつ明白に、退屈と社会生活の完全な不在という特徴を持つので、いくつかの女性雑誌はとうとう、新しい郊外の最新モードに焦点を当てたルポルタージュを行い、これらの地区で自分の雑誌のモデルの写真を撮り、満足した人々にインタヴューを行うことまでしている。生活の場(デコール)が人を愚鈍にする力は、子供の知的発達によって測られるため、子供たちは古典的貧困のなかで劣悪な居住条件を不愉快にも代々受け継ぐのだと強調される。改革論者の最新理論は、ある種の文化センターに希望を置いているが、人々を逃げ出させないために、文化センターという言葉は使わない。セーヌ県建築労働者組合の計画では、労働者の仕事をあらゆる場所で人間的なものにするプレハブの「食堂(ビストロ)クラブ」がある(1961年12月二22日付け『ル・モンド』紙を見よ)。それは、立方体(28×18×4メートル) の「プラスチック製の小部屋」として示され、その中には、「恒久的なユニットとして食堂(ビストロ)が設置され、そこではタバコや雑誌も売っているがアルコールは提供しない。残りの空間は、ブリコラージュのさまざまな職人的活動に当てられるだろう……。この食堂(ビストロ)クラブは、そこに合まれるあらゆる魅力的な性質を示すショーウィンドーとならねばならない。それゆえ、美の概念と素材の質が、夜も昼も、十分な効果を発揮するよう丹念に研究されることになる。実際、光の働きによって、食堂(ビストロ)クラブの生活についての情報が与えられるはずである」。
 それゆえ、ここには、「社会的統合を容易にし、その統合のレヴェルにおいて小都市の魂が作り出されるようにする」発見が、きわめて示唆的な言葉で示されている。アルコールがないことは、それほど注目されることではないだろう。周知のように、フランスでは、徒党を組んだ若者たちは、すべてを破壊するのに、今もアルコールの助けを必要としない。東のフーリガン*11たちの問ではアルコールの力は今でも非常に重要であるのに、〔フランスの〕黒ジャンパーたちは、フランスでポピュラーなアルコール依存の伝統とは手を切ったようである。また、合衆国の若者のようにマリファナやより強力な麻薬の使用にはまだ達していない。〔フランスの〕若者たちは、明確に区別される2つの歴史的段階の刺激物のあいだで、空虚への移行のなかに深く巻き込まれているが、それでも彼らは、われわれの描く世界や、そこで自分たちの空白を埋めにやって来る恐るべき見方に対するはっきりとした返答として、明確な暴力を示している。反乱の要因を除いて、労働組合の建築家の計画は一貫している。ガラスでできた彼らのクラブは、彼らが追求する名高い統合の一部である生産と消費を高度なやり方で監視するための補足的管理装置たらんとしている。彼らがショーウインドーの美に無邪気にも公然と訴えていることは、スペクタクルの理論によって完全に説明できる。つまり、アルコールのないバーのなかでは、消費される事物が他の魅力のないために自ら見せ物的(スペクタキュレール)となるしかないのと同じように、消費者自身が見せ物的(スペクタキュレール)になるのである。完全に物象化された人問は、物象化の望ましいイメージとして、ショーウィンドーのなかに身を置くのである。
 システムに内在する欠陥は、システムが人間を完全には物象化しえないということである。それは、人間を行動させ、人間の参加を勝ち取る必要がある。さもなくば、物象化の生産も消費も停止してしまうだろう。したがって、支配的なシステムは、歴史と格闘している。そのシステムの強化の歴史であると同時にそれに対する異議申し立ての歴史でもあるような自らの歴史と格闘しているのである。
 今日、ある種の見かけに反して、支配的な世界は、かつてないほど(総体としての異議申し立ての力を代表していた古典的労働運動が1世紀にわたって闘い、そのすべてが、伝統的なあるいは新しいタイプの指導者層によって二つの大戦の間に清算された後に)かけがえのないモデルを充実させ無限に拡張していることを根拠に、自らが決定的なものであると見せかけている。だが、この世界は、異議申し立てに基づいて初めて理解できる。もっとも、その異議申し立ても、全体的な異議申し立てである場合にのみ真理とリアリズムとを手に入れることができるのである。
 文化、政治、生の組織化、その他のすべての行為のなかに認められる恐ろしいまでの考えの欠如は、そのことによって説明される。機能都市のモダニスト建築家の弱点は、その特にはっきりと暴露された例にすぎない。知の専門家は、専門家のゲームをする知性しか待ち合わせていない。そこから彼らの小心な順応主義と想像力の根底的な欠如が生まれ、彼らはそれによって、これこれの生産は、有益で、正しく、必要だと認めるのである。実際、欠如を想像する力を待たなければ、すなわち、不在で、禁じられ隠されているが、現代生活においては可能であるものを理解できるようにならなければ、支配的な想像力の欠如の根幹も決して理解することはできない。
 このことは、人々が自分の人生を手に入れる仕方と無関係な理論ではない。逆にまだ理論化されていない、人の頭のなかの現実である。ヘーゲル的な意昧での「否定的なものとの共存」をかなり拡張して、この欠如を自らの主要な力、自らのプログラムとして明確に認める者が、眠りの壁も、生き延び〔=余分の生〕の策も、最後の審判の爆弾も、建築のメガトン爆弾も転覆できる唯一の積極的なプロジェクトを生み出すことができるだろう。

*1:コンゴの革命的高揚 コンゴは、1960年6月30日、宗主国のベルギーからの独立を達成し、選挙によってカサヴブ大統領−ルムンバ首相体制の共和国となった。独立を勝ち取ったコンゴ人たちは革命意識を高揚させ、首都レオポルドヴィルを中心として全土で、軍隊でのベルギー人将校に対する反乱(7月6日)や、労働組合のストが頻発した。べルギー政府は一旦はコンゴの独立を認めたが、独立の勢いがベルギー人によるコンゴ全土の植民地支配そのものに向かうや、白人植民者の保護と称して、7月10日には降下部隊1万名を派遣した。ルムンバはこのベルギーによる主権侵害を国連に提訴し、国連安保理は国連軍の派遣とベルギー軍の撤退を決議した。だが、国連軍はコンゴ革命が南部アフリカ全体の革命に向かうことを阻止しようとする欧米諸国の意を受けてコンゴ人の革命運動を押さえる一方で、ベルギー植民地主義とその意を受けた反ルムンバ派の軍部を押さえることはできなかった。その後コンゴでは、ベルギー資本の権益を保護するバルギー軍に後押しされたチョンベによるカタンガ州の分離独立(7が11日)、軍部の反ルムンバ派クーデター(9月14日)、ルムンバの逮捕(12月1日)、殺害(61年2月13日)という経緯で、「コンゴ動乱」と呼ばれる紛争が泥沼のように続いてゆくのである。

*2:キューバの革命的高揚 1956年12月のグランマ号のキューバ上陸から3年間の武装闘争の果てに、59年1月、革命政府を樹立したフィデル・カストロは、革命直後から米国ケネディ政権による経済的圧迫(禁輸措置)と米国に支援された亡命キューバ人組織の軍事的侵攻の試みに悩まされていた。61年4月には、プラヤ・ヒロンでの反革命軍の軍事侵攻を撃退し、アメリカ帝国主義の侵攻を退けたが、この勝利はキューバラテンアメリカの革命運動に大きなインパクトを与え、キューバ国内の革命運動を高揚させるとともに、グァテマラ、ベネズエラ、ペルー、コロンビアなどの国での武装ゲリラ闘争を鼓舞した。しかし、一方、アメリカ帝国主義との闘争の過程で、カストロキューバ社会主義体制化を進め、61年5月のメーデー社会主義革命宣言を行い、7月にはキューバ国内のあらゆる政治的・軍事的その他の革命組織が結集して単一の統一革命党を結成することを宣言、翌62年3月には統一革命党全国指導部を発表する。

*3:リステル将軍 エンリケ・リステル。1930年代のスペイン共産党の幹部・軍事指導者で、スペイン革命の際にソ連軍将校を側近に付けて第1旅団、後には第5連隊の最高司令官として戦った。革命初期の共産党によるアナルコサンディカリスト攻撃では、アラゴン防衛評議会解体の主導的役割を務めた。

*4:バーリー・コモナー(1917−) 米国の植物学者、環境問題研究家。現代科学と巨大産業の発達が自然の生態系を破壊する危険性に警告を発した。著書に『科学と人類の生存』(66年)など。

*5:コンラッド・アデナウアー首相(1876−1976年) ドイツの政治家。戦後キリスト教民主党を創設し、その党首として、1949年から63年までの14年間ドイツ連邦共和国の首相を務める。その間、ドイツの西欧社会への復帰のための政治活動を行う一方で、ドイツ再軍備NATO参加など軍事面でのドイツの復活に力を注いだ。

*6:コンスタンティーヌ計画」 国民投票によってアルジェリア問題での全権委任を勝ち取ったド・ゴール大統領が、1958年年10月3日、アルジェリアコンスタンティーヌで発表したアルジェリアエ業化のための5ヵ年計画案。40万人の新しい雇用、ムスリム農民への25万ヘクタールの土地の分配、本国並賃金への引き上げ、公務員への採用、ムスリムヘの教育機関の新設などを含むこの計画は、それまでのフランス政府の植民地対策案と代わりばえのしない宥和的な内容で、アルジェリアのフランス化を推進するものでしかなかった

*7:ティラナ アルバ二アの首都。アルバ二アの政治経済の中心地で、17世紀初頭、トルコ軍の将軍スレィマン・パシャが建設。市街にはイタリア風の建築が多い。

*8:ロシェ・ノワール アルジェから数キロ離れた海岸沿いの町。1960年、フランス政府は危険なアルジエを避けてこの町に新しい総督府を建設した

*9:ジャニオ・クワドロス大統領(1917−) サンパウロ市長、州知事を歴任した後、ブラジリア遷都後初の大統領選挙で都市住民の圧倒的な支持を得て1960年10月、大統領に選出される。だが、その左翼民族主義的ポプリズモに拠った近代化政策やキューバなど社会主義圈への接近が地主階級や軍部の反発を招き、61年8月にはクーデタを準備したとの理由で反クワドロス・キャンベーンにさらされ、辞任に追い込まれる。

*10:ヴェルホヤンスク ロシア北東部極東シベリアのヤナ川に上流にある人口1800人の町。最低気温マイナス69・8度Cを記録し、地球上最も気温の低い町の1つに数えられる。

*11:フーリガン ソ連や東側諸国で、反体制、反社会的態度をとる非行少年、不良のことを言う。そこから派生した言葉。現在では、サッカーなどの試合で暴れる青年たちを指すことが多い。