悪しき日々は終わるだろう

訳者改題

 スペクタクルの世界はその支配を広げるとともに、攻勢の頂点に達しているが、いたるところで新たな抵抗も引き起こしつつある。この抵抗はスペクタクルの攻勢と比べればけるかに知られるところが少ないが、それはまさに支配的スペクタクルの目的が、屈服をあまねく、すべての者を眠り込ませるようにして映し出すことにあるからだ。だが、そのような抵抗は現に存在し、次第に拡大しつつある。
 先進工業国での青年の叛逆について、だれもが──大した理解なしに──語っている(本誌第6号の「無条件の防衛」を参照のこと)。パリの『社会主義か野蛮か』誌や、デトロイトの『コレスポンデンス』誌のような戦闘的な雑誌は、労働における労働者の恒常的な抵抗(この労働の組織化に対する抵抗)や、労働組合主義──それは、労働者を社会に統合するメカニズムと化し、官僚主義的資本主義の経済装置において補完的な道具と化してしまった──からの離反や非政治化に関する多くの事実を集めた資料的成果を発表している。階級対立という古びた定式は不十分であることが明らかになり、あるいはまた、たいていの場合、その定式は既存秩序への参加へと完全に方向転換してしまったことを暴露するだけであることがわかるにつれて、押しとどめることの不可能な不満が地下で広がり、豊かな社会の建物の基盤を堀り崩している。マルクスが『ヨーロッパのプロレタリアートヘの祝杯』で語っていた「老いたるモグラ」は相変わらず前進し、幽霊はテレビ化された現代のエルスナー城*1の隅々に再び姿を現している。この城に立ちこめる政治の霧は、労働者評議会が存在し指揮する一瞬の間だけ晴れるのである。
 古典的なプロレタリアートの最初の組織は、18世紀末と19世紀始めに、労働から人々を除去する生産機械を破壊することをめざした狐立した──「犯罪的な」──行動の時代に先立たれていた。それと同様に、今、われわれが眼にしているのは、それに劣らず確実にわれわれを生から除去する消費機械に対する破壊行動(ヴァンダリズム)の波の最初の出現である。当時も今も、もちろん、破壊それ自体に価値があるのではなく、価値は不服従のなかにある。この不服従は、やがて、積極的な企図に変化し、人間の現実的能力を増大させる方向に機械を再転換するまでになるだろう。ここでは青少年の群衆による掠奪については触れず、労働者の行動をいくつか挙げよう。それらは、古典的な要求という観点からはほとんど理解不可能なものである。
 1961年2月9日、ナポリで、夕方、工場から出てきた労働者はいつも自分たちを運んでくれている路面電車がないことに気がついた。運転手──その何人かは解雇されたところだった──が抜き打ちストを始めたのである。労働者らは、ストを行っている運転手に連帯の意を表して鉄道会社の事務所に向かってさまざまな物を投げ、そのうちに火炎瓶まで投げ始めたために路面電車の駅の一部に火がついた。やがて彼らはバスにも火をつけ、警官と消防隊員と衝突し、それを突破した。数千人の労働者が街中にあふれ、ショーウィンドーやネオンサインを壊した。夜には、秩序を回復するために軍隊の出勤を要請せねばならなくなり、ナポリの街を装甲車が往き来した。この示威行動は、全体としては即興的に行われ目的も欠いたものであったが、明らかに、余分な〔=マージナルな〕通勤時間に対する直接的叛逆である。この通勤時間というものは、現代の都市における賃金奴隷の時間をそれほどまでに重苦しく増やしているのである。この暴動は、偶然の出来事に付随して爆発したものだが、やがて(南イタリアの伝統的貧困状態の上に新しく張り付けられた)消費社会の生活の場(デコール)全体に広がり始めた。そこではショーウインドーとネオンサインが、野蛮な若者たちの示威行動の際にも見られるように、消費社会の最も象徴的な場であると同時に、最も脆い場でもある。
 8月4日、フランスで、ストライキ中のメルルバック*2の炭鉱労働者たちは、役員事務所の前に停めてあった21台の車を壊した。それらの自動車のほとんどが炭鉱で雇われている者、したがって炭鉱労働者と非常に近い立場の労働者の自動車だったと、誰もが愚かにも主張している。だが、そこに、搾取されている者の攻撃性を常に正当化する多くの理由を見るだけでなく、それに加えて、消費の疎外を引き起こす中心的事物に対して彼らが行った防衛の身振りをなぜ見ないのだろうか。
 リエージュのスト参加者が、1961年1月6日、日刊統『ラ・ムーズ』の印刷機の破壊を試みた時、彼らは敵に握られた情報設備を攻撃することで彼らの運動の意識の1つの頂点に到達した(最も広い意昧での情報伝達の手段は、政府機関と社会主義的官僚的組合指導者とのあいだで共有され、完全に独占されていたため、それを攻撃することこそがまさにこの衝突の決定的に重要なポイントだった。それは、かつて1度も取り除かれたことのない障害であり、「自然発生的な(ソヴァージュ)」労働者の闘争が権力の掌握をめざすことを妨げ、それゆえ、そうした闘争が消え去ることを余儀なくさせているものなのである)。去る2月9日に〈フランス国営ラジオ・テレビ局〉のジャーナリスト・技術者組合が出した次のコミュニケは、そのプロパガンダにおけるド・ゴール主義的な不器用な誇張に依拠しているせいで、〔リエージュのストよりも〕興味の点では劣るが、それでも1つの兆候として取り上げるに値する。
「われわれの同志である技術者とレポーターは、水曜日の夜、ルポルタージュを行うためにデモの現場にいたが、RTF〔フランス国営フジオ・テレビ局」のマークを見た群衆に襲われた。これは重大なことである。それゆえ、SJRT〔「ラジオテレビジャーナリスト組合」と思われる〕とSUTはここに、われわれの同志である技術者およびレポーターの生活は彼らの報告を尊重することにかかっていると、今一度厳粛に断言する正当な理由のあるものと判断する(……)」。思想操作を行っている勢力に対して具体的な反対を開始している前衛的反応とは別に、非常に戦闘的な労働者の行動の内部にまでこの思想操作が入り込み成功を収めていることもまた、もちろん考慮に入れなければならない。たとえば、今年の始め、ドゥカズヴィル*3の炭鉱労働者は、自分たちの代表として20名を選び、彼らにハンガーストライキを行わせた。彼らは、見せ物という敵の地平に立って演技するこの20名のスターにすべてを任せて、みんなの同情を引こうとしたのである。その結果、彼らはひどい敗北を喫した。というのも、〔彼らが勝利する〕唯一のチャンスは、彼らが生産を阻害しそれを赤字に追い込んでいる部門だけでなくその外にまで、いかなる犠牲を払っても彼らの集団的な介入を拡大することだったからである。資本主義による社会の組織化は、その副産物というべき反対勢力と同様、議会と見せ物の観念をあまりにも広くまき散らしたため、革命的な労働者もしばしば、代表表象というものは不可欠なもの──些細なことについて、ごくわずかな機会に──だけに常に限らねばならないということを、忘れてしまうこともあったのである。だがまた同時に、無知蒙昧化への抵抗は、労働者だけが行うことではない。ベルリンの俳優のヴォルフガング・ノイスは、何週間にもわたって大衆の熱狂の的になっていたテレビの刑事ドラマで誰が犯人かを、去る1月、『デア・アーベント』紙の短信を通じて暴露し、意味深いサボタージュを行った。
 古い世界の組織全休への初期の労働運動の攻撃はもうずっと以前に終わりを告げ、今後、それを活気づかせることのできるものは何もないだろう。その攻撃は失敗したが、巨大な成果を獲得しなかったわけではない。ただ、その成果が当初めざした成果ではないだけだ。確かに、部分的に予期せぬ成果へのこの逸脱は人間の行為の一般的規則ではあるが、その規則からまさに革命的行動の瞬間、全てか無かという質的飛躍の瞬間だけは除外せねばならない。古典的な労働運動の研究を曇りのない眼で再開せねばならない。そして何よりもまず、そのさまざまな種類の政治的、あるいは疑似理論的相続者について曇りのない眼で検討を加えねばならない。というのは、これらの相続者はかつての運動の失敗の遺産しか所有していないからである。この運動の外見的な成功とはその根本的失敗(改良主義や国家的官僚主義による権力の掌握)であり、その失敗(パリ・コミューンアストゥリアスの叛乱*4)こそが、今までのところ、われわれのためにも、将来のためにも聞かれている失敗なのである。この問題を時間のなかに明確に位置づけなくてはなるまい。古典的な労働運動は、インターナショナルが公式に設立される20年ほど前、1845年に、マルクスとその友人がブリュッセルから組織したいくつかの国々のコミュニスト・グループの最初のネットワーク*5が生まれたときに始まると考えられる。そして、それは、スペイン革命の失敗の後、すなわち1937年5月のバルセロナでの歴史に残る日々*6のまさに翌日に完全に終わったと考えられる。
 この時間の枠のなかに、あらゆる真理を再び見出し、革命派内のあらゆる対立と無視された可能性を再検討しなければならない。その際に、ある者が別の者より正しく、運動を支配したという事実にはもはや眼を奪われてはならない。なぜなら、彼らが勝利を得だのは全休としての失敗の内部でのことにすぎないことをわれわれは知っているからだ。再発見すべき最初の思想はもちろんマルクスの思想である。このことは、マルクスに関する現存する資料と膨大な量の虚言とを照らし合わせればれ依然としてたやすいことである。だが同時に、第1インターナショナル内のアナキストの立場、ブランキ主義、ルクセンブルク主義、ドイツとスペインの評議会運動、クロンシュタット*7やマフノ主義者*8なども再考せねばならない。ユートピア社会主義者の実際の影響も無視できない。これらはみな、もちろん、大学特有の折衷主義や衒学趣味の目的で行われるのではなく、新たな革命的運動の形成に資する目的でなされねばならない。この革命的運動の先駆的な兆しはここ数年来われわれが数多く眼にしているが、われわれ自身もまたこの先駆的兆しの1つである。このような革命運動は、従来のものとは根本的に異なるものになるだろう。われわれは、これらの兆しを古典的な革命の企図の研究によって理解するとともに、逆にこれらの兆しの研究を通して古典的な革命の企図を理解せねばならない。そして、これほど見事に隠され歪められてきた歴史の運動そのものの歴史を再発見せねばならない。
そのような試みを通して初めて、そしてまた、その試みに全体的に結びついた芸術的探究グループのいくつかの中でのみ、魅力的な行動──現代社会とそこに込められた可能性に客観的に興味を抱くことを可能にする何か──が姿を現してきたのである。
 革命の問題を最も高いレヴェルで再発明すること以外に、過去のわれわれの同志の行動を裏切らず、それを理解する方法はない。この革命の問題は事実のなかに重々しく提示されているだけにいっそう観念の領域からは引き離されてきた。だが、なぜこの再発明けそれほど困難に見えるのだろうか。それは、自由な日常生活の経験(すなわち日常生活における自由の探究)から出発すれば困難ではない。この問いは、今日、若者のあいだにかなり具体的に感じ取れるとわれわれには思える。そして、それを十分な要求とともに感じ取ることによってまた、失われた歴史を訴えとして判断し、救出し、再発見することができるのである。この問いは、既存のあらゆるものを疑問視する役目を負った思考にとっては困難ではない。哲学をほとんどすべての哲学者のように──放棄せず、芸術を──ほとんどすべての芸術家のように──放棄せず、今現に存在する現実への異議申し立てを──ほとんどの活動家のように──放棄しなかったというだけで十分である。その特、これらの問題〔哲学、芸術、異議申し立て〕は相互に関連し合い、同じ一つのものとして乗り越えられるようになるだろう。ただ専門家だけが──その力は専門に基づく社会の力とともに長持ちしているが──、自分たちの機能の積極的な用益権を保持するために自らの専門領域の批判的真理を捨て去ったのだ。だが、現実の探究のすべては、現実の人々が一つに集まり自分たちの前史から今一度脱け出そうとするように、1つの全体性の方に合流しつつある。
 プロレタリアートは解体したとか、労働者は今では満足しているとか言って、革命の新たな出発を疑う者もいる。これの言わんとすることは、次の2つのどちらかだ。1つは、彼ら自身が満足しているということであり、その場合、われわれは容赦なく彼らを叩きのめすだろう。もう1つは、彼らが他とは切り離された労働者のカテゴリー(たとえば、芸術家という労働者の)のなかにすっかり収まっているということで、その場合にはわれわれは、新しいプロレタリアートはほとんど誰をも包摂しつつあるということを彼らに示して、その幻想を打ち砕くだろう。
 同様にして、植民地化された、あるいは半植民地化された国々の叛乱の動きに関して黙示録的な不安や希望が語られるが、それらは、革命の企図は先進工業国内部で実現されねばならないという中心的事実を無視している。それが達成されない間は、低開発地域でのすべての運動は中国革命──その誕生には古典的な労働運動の清算が伴っていた──というモデルに従うことを強いられているように思われる。中国革命はその後も生き延びたが、その全過程はそれが彼った変質に支配されてきたのである。被植民地国の運動は、官僚主義的な中国という極に引き寄せられてはいるものの、それでもやはり、そうした運動が存在しているということによって、均衡した二大ブロックの外部での衝突における不均衡が産み出され、それらのブロックを指導し所有する者どうしの問でのいかなる世界分割も不安定にしている。だが、マンチェスターや東ベルリンの工場の中にいまだに存在する内的不均衡もまた、地球を舞台にしたポーカーの賭け全の保証を危うくしているのである。
 古典的な労働運動の制圧(この運動の力を国家警察に転倒してしまった歴史の奸計によって)の後も、ひっそりと生き残ってきたマイノリティーの叛乱は、その運動の真理を救出したが、それは過去の抽象的な真理としてにすぎなかった。力に対する彼らの称賛すべき抵抗は、中傷にさらさ礼た伝統を今日まで守り続けることができたが、新しいカヘと自らを再投資することはできなかったのである。新しい組織を形成できるかどうかは、より深い批判、行為に移される批判をできるかどうかにかかっている。イデオロギーと完全に縁を切らねばならない。というのも、革命集団が自分たちに自らの役割を保証する積極的な資格があると考えるのは、まさにこのイデオロギーというものにおいてであるからだ(つまり、イデオロギーの役割についてのマルクスの批判をやり直さねばならない)。それゆえ、専門化された革命の活動の場──政治的真剣さという自己瞞着の場──を去らねばならない。なぜなら、この専門的活動を所有することによって、どんなに優れた者も他の問題すべてにおいて愚かな意見を吐くことを助長されるからだ。その結果、彼らは、われわれの社会のそれ以外のグローバルな問題と切り離せない政治的闘争それ自休においても成功のチャンスをすべて失うのである。専門化と擬似的な真剣さこそは、まさに、古い世界の組織が人々の精神のなかに植え付ける第1の防衛策の一つである。新しいタイプの革命的結社はまた、メンバーが闘争参加回数で計ることのできる参加を活動家から与えられるのを待ち受ける──それは労働時間の量的な基準という、支配社会において唯一可能なコントロールを受け継ぐことに等しい──のではなく、メンバーに真の創造的な参加を許し、それを要請するという点でも、古い世界とは縁を切るだろう。万人の情熱的なこの参加の必要は、古典的な政治を行う活動家、すなわち「献身的な」貴任者が古典的な政治そのものとともにあらゆる場所で消え去っているという事実に、さらには、献身と犠牲は常に権威(純粋に道徳的な権威であろうと)的に払われるという事実によく示されている。退屈は反革命である。いかなる仕方でもそうなのだ。
 かつての政治の、偶然ではなく根本的な失敗を認めるグループは、新しい生活様式──新しい情動──の例を自ら示すことができて初めて、自分たちに恒久的なアヴァンギャルドとして存在する権利があるということを認めねばなるまい。周知のように、この生活様式の規準にはどこもユートピア的なところはない。そのような規準は、古典的な労働運動が出現し、高揚しつつあった時にどこででも眼にすることのできたものである。われわれは、これからの時代に、この規準が19世紀の場合と同程度に進展するだけでなく、それよりずっと深い進展を見るだろうと考えている。それができなければ、これらのグループの活動家は、まったく生彩のないプロパガンダ集団になってしまい、全く正しく全く基本的な概念をただひたすら唱えるだけで、それに耳を貸す者はほとんどいないだろう。組織内部の生活においてであれ、外部へ向けてのその活動においてであれ、革命の教えのスペクタクル的な一方的伝達は、スペクタクルの社会においてそのチャンスをすべて失った。このスペクタクルの社会というものは、〔現実の物とは〕まったく別の物のスペクタクルを大量に組織するのと同時に、スペクタクル総体に対する憎悪の念を自ら掻き立ててもいる。したがって、この専門化されたプロパガンダには、大衆が実際の闘争を余儀なくされている時に、折良く行動に移り、それを肋ける機会はほとんどないだろう。
 貧者の社会的戦争を再び活気づかせるために19九世紀の貧者の社会的戦争とはどのようなものであったのかを思い起こさればならない。貧者というこの言葉はいたるところ、歌のなかにも、古典的な労働運動の目的のために行動した人々の宣言のなかにもあった。SIとSIに収斂するいくつもの道をいま歩んでいる同志たちの最も緊急の作業の一つは、新しい貧困を定義することである。確かに、ここ数年間のアメリカの社会学者の何人かは、この新たな貧困状態の報告に対して、前世紀の労働者の行動を眼にした最初のユートピア的博愛主義者と同じように振る舞っている。悪は示された。だが、観念論的で人為的なやり方でだ。なぜなら、唯一の理解は実践のなかにある以上、敵と闘うことによってしか敵の本性を真に理解することはできないからだ(例えば、黒ジャンパーの攻撃性を思想の平面にもたらすためのG・ケラーとR・ヴァネーゲムのプロジェクトが位置づけられるのはこの地平においてである)。
 新しい貧困の定義は新しい豊かさの定義なしには進まない。支配社会がまき散らしているイメージ──それによれば、社会は利益の経済から欲求の経済に(おのずから、また改良主義が認めうる圧力の下で)進化してきたらしいが──に、欲望の経済を対置せねばならない。この欲望の経済とは、次のように言い表すことができる。すなわち、技術によって何をなしうるかについての想像力を有した技術社会である。欲求の経済は習慣という言い方で改竄されている。習慣とは、欲望が(達成され、実現されることで)欲求にまで堕落する──すなわち、確実なものとなり、客観化され、欲求として普遍的に認められるということでもある──自然の過程である。しかし、今の経済は習慣の偽造に直接取り組み、人々から欲望を取り除くことによって、欲望のない人々を操作している。
 世界に対する偽の異議申し立てとの共謀は、その世界の偽の豊かさとの共謀と(それゆえ、新しい貧困の定義からの逃亡と)切り離すことができない。このことは、『レ・タン・モデルヌ』誌*9第188号のサルトル派のゴルツ*10において非常に顕著である。彼は(実際、あまりぱっとしないジャーナリストの仕事によって)この社会の財産が自分に奮発されるようになったことは迷惑だと告白している。その社会の財産とは、彼が恭しく言うところでは、タクシーや旅行のことであり、この時代においては、タクシーは誰にとっても義務と化した大量の車の後を走らねばならず、旅行は、この地球のどこに行っても、大量にコピーされた永遠の疎外の同一の退屈なスペクタクルにわれわれを連れて行くだけである。同時に、彼はユーゴスラヴィアアルジェリアキューバ、中国、イスラエルといった唯一の「革命的世代」の「青年期」に熱中する──サルトルがかつて「ソ連邦での完全な批判の自由」に熱中したように。他の国は年老いた、とゴルツは述べて自分白身の虚弱さの言い訳をしている。こうしてゴルツは、これらの「青年期」のそれぞれの国の内部において不可欠なだけでなく、全員が年寄りでも、誰からも姿を認められるわけでもなく、全ての叛逆がゴルツ的であるわけでもないわれわれの国においても不可欠な革命的選択の責任を放棄しているのである。
 今、フージェロラス主義*11──それは、周知のごとく、マルクス主義を自分のなかに含み持つことによってマルクス主義に取って代わった最後の教義であるが──はマルクスが予告した共産主義社会が存在するとすれば、それは産業的生産社会の後にしかありえないように思えていたが、大きな歴史的発展段階は生産様式の変化によって既にしるされていたのではないかと不安を抱いている。フージェロラスは学校に入り直すべきである。やがて来る次の社会の形態は、産業的生産に基づいたものではない。それは、実現された芸術の社会である。「われわれの社会のなかで胚胎される絶対的に新しい生産のタイプ」(『問題のマルクス主義』84ペーシ)とは、状況の構築であり、生の出来事のな構築なのである。

*1:エルスナー城 エルスナー(ヘルシングエーア)はデンマークコペンハーゲン北方45約キロにある港町。1577年から1585年に建設されたクロンボア城があり、その城をシェイクスビアがハムレットの舞台としたことで有名である

*2:メルルバック フランス北東部モーゼル県の炭鉱都市。現在は合併してフレミン=メルルバック市

*3:ドゥカズヴィル フランス内部アヴェイロン川流域の炭鉱都市。19世紀にこの地方で炭田を発見し鉱山開発を行ったドゥカズ公爵に山来。当時からたびたび炭鉱ストが起こったことで知られる。

*4:アストゥリアスの叛乱 1934年10月、スペインのアストゥリアスの鉱業地帯での左翼叛乱。10月4日、急進党のアレハンドロ・レルーが組閣した内閣にファシスト的右翼諸党派の連合体であるCEDA(スペイン自治権同盟)が入閣することに抗議して、社会党ゼネストを呼びかけた。スペインの他の地域でのストは失敗したが、アストゥリアス地方だけは例外で、アナキスト共産党も支援する鉱山労働者のストが2週間にわたって戦闘的なストを展開するが、政府によるモロッコ兵部隊と外人部隊の投入によって多大な犠牲(逮捕者数千名、死傷者数百名)を払って、壊滅させられた。この叛乱は、1936年からのスベイン革命と内戟への本稽古と見なされている

*5:1845年〔‥…〕コミュニスト・グループの最初のネットワーク 1845年1月、プロイセンの圧力を受けたフランス・ギゾー内閣によってフランスを追放されたマルクスはベルギーのブリュッセルに行き、1848年2月革命の勃発によって逮捕・追放されるまでの3年間、そこで活動する。この時に彼は、『哲学の貧困』(47年)、『ドイツ・イデオロギー』(45−46年)などを書くとともに、共産主義者同盟にに参加してその宣言『共産主義者宣言』(48年)を作成した。「コミュニスト・グループの最初のネットワーク」とは、この共産主義者同盟のことを指す

*6:1937年5月のバルセロナでの歴史に残る日々 1936年7月に勃発したスペイン革命の最終局面でおきたバルセロナ5月事件のこと。5月3日、アナルコサンディカリストの全国紙織でスペイン革命の主力であったCNT(全国労働連合)が占有していた中央電話局を、コミンテルンに加盟した共産党主導の社会主義統一組織PSUC(カタルニア統一社会党)の部隊が急襲し、これ以降、数日にわたってバルセロナ中で両者の間に激しい武力衝突が繰り広げられた

*7:クロンシュタット クロンシュタットは旧ソ連の軍港。1917年、クロンシュタットの水兵たちは巡洋艦〈オーロラ〉号に支援されて、ケレンスキー内閣への叛乱を行った

*8:マフノ主義者 ネストル・マフノ (1889ー1935年)はパリに生まれたウクライナアナキスト。1917年にロシア革命が起こると、ウクライナ南部の農民を組織し、ドイツ・オーストリアの占領軍と白軍に抗して闘ったが、その後、マフノの率いるウクライナアナキストトロツキーから反革命規定され、赤軍に鎮圧された。マフノ自身は1921年、ルーマニア、次いでパリに亡命した。マフノ主義者は、農民の独立した運動、ゲリラ戦の先駆として評価される。

*9:『レ・タン・モデルヌ』誌 1945年、サルトルが、メルロ=ポンティボーヴォワールらと共に創刊した雑誌。実存主義左翼知識人の結集軸としてクロード・ルフォール、フランシス・シャンソンアンドレ・コルツ、クロード・ブールデら多数が協力した。

*10:アンドレ・ゴルツ(本名ジェラール・オルスト 1923−) オーストリア生まれのフランスの作家・思想家。『レクスプレス』誌(1955年から64年)や『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』誌などのジャーナリストをしつつ、60年の『レ・タン・モデルヌ』の創刊以来、サルトルとともにその共同編集者として活動。70年代にはエコロジー運動にも関わった。代表的著書に『裏切者』(58年)、『歴史の教訓』 59年)、『エコロジーと政治』(75−79年)など。

*11:フージェロラス主義 ピエール・フージェロラスは『アルギュマン』派の知識人。1958年11月発行の11号から同誌の編集委員に加わり、それ以降、62年の廃刊まで、「マルクスから我々へ」(第12-13号)、「世界化に関するテーゼ」(第15号)、「官僚主義テクノクラシー」(第17号) などマルクス主義官僚主義、テクノロジーの問題などについての論文を頻繁に発表している。著書に、アンリ・ルフェーヴルとの共著で『コスタス・アクセロスの遊戯』(1973年)などがある。