いくつかの国にみられる反シチュアシオニスト作戦

訳者改題

 1963年6月25日にシチュアシオニスト・インターナショナルが発表した、ミュンヒェンのウーヴェ・ラウゼン*1裁判に関する宣言は、今後の予測は不明だが、今までのところシチュアシオニスト運動が遭遇してきた3種類の否定を列挙している。つまり、警察(ドイツにおけるような)、沈黙(その記録はフランスがしっかり保持している)、そして公然たる偽造(この1年来、北ヨーロッパがこの上なく豊かな研究領域を提供してきた)である。もちろんこれら3つの方法は、シチュアシオニストが最初、それぞれの地域に孤立して現れた時に活用されたように、その地域独白の方法としていつまでも融合せずにいるように、最初から決められているわけではない。逆に、どこでも、たえず配合を変えて、これらの方法が──それらに共通の機能とは厄介な問題を消し去ることだ──混ぜ合わせて用いられることが予想できる。警察というのは明らかにいささか古風なやり方である。それに対し、偽造は今世紀の日々の糧であり、専門家の沈黙はスペクタクルの社会のより新しい武器である。しかし、この社会の強みは同時にいくつもの方法をとれることだ。この社会に統合されない者たちはどちらにせよ、この種の妨害やその絶えざる強化をものともせずに、現在許されている思想や日常生活に対する批判を維持し、発展させることを学ばなければならない。したがってシチュアシオニスト・インターナショナルは、自らがひきおこす、自らにふさわしい敵対行為には驚きも憤慨もしない。われわれに現在可能であり、また将来可能になるであろう反撃の展望のもとにこうした敵対行為を描写し、分析すれば充分である。
 この8ヵ月間、シチュアシオニスト・インターナショナルに対する抵抗を特徴づけてきたのが、偽のシチュアシオニスト的ニュアンスを誇示することによる詐欺の戦術であることには異論の余地がない。もっとも、このようなシチュアシオニストのプログラムを偽造する試みには、より控えめではあったが前例があり、われわれはすでにそれらを忘却の淵に沈めてきた。3月にヨルゲン・ナッシュ*2が、スカンディナヴィア・セクションの名のもとにシチュアシオニスト・インターナショナルを攻撃した宣言のまがい物については、すでに言及した(『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第7号、53−54ページ)。スカンディナヴィアのシチュアシオニストたちが互いに遠く離れて往んでいることを計算に入れて、ナッシュは仲間の全員に相談することなくこの強権を発勤した。全員一致で支持されないばかりか、シチュアシオニスト・インターナショナルの多数派から、すばやい決定的反論の発表によって即座に反撃されて、あわてたナッシュは、最初、シチュアシオニストとの完全な決裂に至ったことに驚いてみせた。まるで、公にしかも嘘の急襲をしかけることが、ナッシスト的スカンディナヴィアの自立性なるものに立脚した対話の継続と両立可能であるかのように。第一、陰謀の発展ぶりからして、その実際の目的にはほとんど疑いの余地がない。なぜなら、スカンディナヴィアの2、3人の元シチュアシオニストと、儲け話を嗅ぎ付けて駆けつけた見知らぬ連中の集まりであるスウェーデンバウハウス」は、ただちに陳腐この上ない芸術製作を始めたからである(この新−バウハウスの仕事の最初の成果であるファザーケレイなる者の「詩」*3を例にとれば充分であろう。1930年以降、あえてこんなものを書く者はもういない)。同時に、オランダで、『ザ・シチュアシオニスト・タイムズ』*4という題名の全く無内容なナッシュ主義者の雑誌が出た。この雑誌はシチュアシオニスト・インターナショナルに対抗して編集されたという意味においてのみ「シンチュアシオニスト」であるという特徴を有している。この雑誌の数多い臨時の協力者たちは、シチュアシオニストだったことなど1度もなく、それを自慢する気もない。唯一の例外が2人の指導者のうちの1人である。彼は18ヵ月間シチュアシオニスト・インターナショナルにいた人物*5で、それについて饒舌にしゃべっている。もう1人の指導者はスターリン主義パタフィジックの墓から戻ってきたノエル・アルノー*6その人である。この御都合主義的集まりには、他に元レトリストが1人、そして死後出演のポリス・ヴィアン*7が混じっている。スカンディナヴィアにおけるナッシストとシチュアシオニストの論争においてナッシュ主義者は、自分たちに実行可能だと思えたあらゆる威しと暴力に訴えたばかりか、(共犯の意を固めたジャーナリストの助けを借りて) 一連の偽情報を組織的に流しさえした。最も反響を呼んだ6月の偽情報は、他ならぬSIが彼らの再加入をめざして対話を再開することを受け入れたというものであった。そして彼らはそのチャンスを証明するために、中央評議会の手紙なるものを引き合いに出したのだが、それもまた完全な偽物であった。この事件がスカンディナヴィアのジャーナリズムに広く知れ渡ったことで、その性質からしてSIテーゼを客観的に示すよりはナッシスト的に変形することに有利な場で議論がなされるようになった。しかし、それにもかかわらず、時間を稼ぎ、混乱をほんの1週間でも延ばそうとする彼らのあらゆる努力も、ナッシストが正体を現すのをとどめることはできなかった。つまり、ナッシストはSIとは無関係で、たしかにSIよりずっと社交的だが、知的にはけるかに劣るのである。
 ナッシストは全員まず最初に、そして2度とそれについて考えないですむよう、SIの全理論に賛成であると宣言した。しかし実践においてはまったくそうではない。それにこの実践について彼らが批判することといえば、SIの行きすぎた規律という点に関してのみである。だが、この規律の行きすぎこそまさに、理論と可能な実践の間に何らかの関係を見いだそうとするシチュアシオニストの合意にほかならない。ナッシストが求める実践とは明らかに、「現在の」──つまりすっかりすたれた──モダニズム芸術に無意味なおしゃべりと商業的ラベルを添えて続けることである。一時的にナッシスムに加盟したこの連中(彼らにはほとんど、あるいはまったく知りもしないSIに対する反対以外、互いに何ひとつ一致するところがない)の創造性の貧困が示すのは、苦労して何らかの修正主義を作り出すよりもわれわれのテーゼをすべて採用すると口走った方がよい、と彼らが思っているということである。しかし創造性の欠如はあまりにひどいので、彼らには平板なコメントによってすら、われわれのテーゼを参照する力がないということもありうる。彼らのうちの、元シチュアシオニストだった連中が、SI時代には注意深く隠していた才能を、今になって、疑わしい必要にせまられて発揮する(なぜなら、われわれの思想は出世主義者にはまったく向いていないのだから)というのも変な話であろう。
 われわれはナッシュとその一味に、特殊な倒錯性を認めたいというわけではない。われわれには、ナッシスムはある客観的傾向を表しているように思われる。その傾向は、文化の中で、この文化の現在のあらゆる組織化に反して、さらには分解された領域としての文化のすべてに反して行動することを受け入れることによって、SIがそのリスクを引き受けねばならない、曖昧で危険の多い政治に起因する。そして、あらゆることがらに、最も手恐い異議申し立ての眼差しとプログラムをもたらしながら生きること以上に曖昧で危険なことはない。しかも、こうした異議申し立てでさえ、ありのままの生活と共存しているのである。1962年の始めに除名されたドイツのシチュアシオニストたちは、より率直に、また芸術的にナッシストよりは力強く、ナッシスト同様の反対を表明していたが、それには現実的根拠があったのかもしれない。ハイムラート・プレム*8イェーテボリ大会(『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第7号を参照)での発言は、芸術的前衛の慣習に則ったかたちでの「作品製作」の数々の依頼を、大半のシチュアシオニストが繰り返し拒否した点を強調していた。多くの人がそうした作品製作にSIを参加させたいと考え、そうしてものごとを収拾し、シチュアシオニストを芸術的実践という古い分類項目に連れ戻そうとした。プレムはシチュアシオニストの芸術家たちの、さしあたり十分な活動領域を見いだしたいという欲望を表現していた。ただ芸術だけを急いで刷新することをめざすこの態度が、シチュアシオニストの理論と完全に矛盾することは確かである。シチュアシオニストの理論が前提としていることは、必要な他の変革、社会全体の自由な再構築を行うことなしに、分離された伝統的芸術だけに根本的な刷新をもたらすことはもはや不可能であるということである(構築された状況という仮説は、古い芸術のあらゆる「通常兵器」を解体するポスト−芸術の爆発の最初の一例である)。ナッシストはただ、卑しい商業的広告のために、悪意を、またあらゆる理論に対する深い無関心を、さらには慣習的な芸術活動に対してすら示される無関心を推し進めただけである。しかし、プレムの仲間たちも、もう少し品があるとはいえ、文化市場にまったく譲歩しなかったわけではない。つまり、彼らが一時的に避難したシチュアシオニスト・インターナショナルのなかには、芸術的前衛の現在の使命を理解することのできない反復の芸術家がいたということなのである。これは、われわれの探求が緒に就いたばかりであることや、誰の目にも明らかな慣習的芸術の疲弊を考えれば、それほど驚くには値しない。彼らとわれわれとの間の矛盾がこうした対立にまで至る時というのは、曖昧さを明るみに引き出し、審判を下さなければならないほど、シチュアシオニスト・インターナショナルが前進したことを示しているのである。運動の芸術的生産物を反シチュアシオニスト的と名付けるというイェーテボリで採択された決定によって、シチュアシオニスト派の権威の下に慣習的芸術の若返りを図る連中との関係は、おそらくもはや引き返せない地点に達した。ナッシスムがもたらした矛盾は品のないものだったが、SIの発展にともなって、より高い次元で、ほかにも数多くの矛盾が出てくるかもしれない。しかしながら、現在の決裂が注目に値するのは、われわれが強くなり過ぎないうちに排除しておこうと、支配的文化の世界が攻撃に移る瞬間を、この決裂が示しているという点においてである。以前にも、1961年春の、ルールでの「統一的都市計画」を自称するもののような偽造の例がいくつか見られてはいた(『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第6号 参照)。しかしわれわれは今、核心に迫る試みを前にしている。SIを知るものはみな、SIがどんな種類の圧力にも耐え、自らの思想の軟化や穏健化とは正反対の方向へ進んでいることを確認することができた。文化の世界は、どれほど現代的でわれわれに対して好意的なものでも、同時に、SIの現実についての混乱を最大限助長し(乱暴なやり方で。つまり、ナッシストの企てには資本が不足することは決してない、われわれをますます公然とのけ者扱いし(彼らの多くが投獄されようとしていたウーヴェ・ラウゼンを擁護するのを拒否したことで明らかになったように。彼らはそのくせ、同じ古い出版法違反で告訴されたSIドイツ・セクションからの除名者は擁護していたのだ)、またとりわけ、われわれの経済的窒息を組織しようとするのである。
 こうした流れの中で、現在のナッシストのような些末な出来事は付帯現象にすぎない。その後継者たちは、おそらくもっと強力だろう。ナッシュー昧はどれでも取り替えがきく。彼らは、古い芸術世界とわれわれとの対立を代表しているにすぎないのである。
 ナッシスムの進化は、その短い命の最初からすでに、われわれの分析が正しかったことを証明している。SIスカンディナヴィア・セクションは、今や雑誌『シチュアシオニスト革命(シュチュアシオニスティスク・レヴォリューション)』*9を出しているが、SIから切り離されたナッシストらは、たちまち芸術的環境の習慣のうちでも最も伝統的なものを再発見した。すなわち、一方では展覧会の初日での値引交渉とお菓子、もう一方では「美術学校(エコール・デ・ボザール)」スタイルの健康的なおふざけである。ナッシュは、SIを除名された彼の仲間たちのうち最も当惑しているのはアンブロシウス・フィヨルド*10で、彼は自分の不幸の理由が理解できないでいると新聞に告げた。実際は、アンブロシウス・フィヨルドはナッシュに属する馬以外の何者でもないだろう。スカンディナヴィア・ナッシスムが完全なものになるにはノルウェー代表が欠けていたので、ナッシュはある日、何かの宣言にフィヨルドの名前を書き入れたのだろう。これは絶対権力は絶対に腐敗するという有名な規則の一例なのだろうか。いずれにせよ、軍事クーデタの後、自分の村で第一人者であり続けることのできたカイウス・ナッシュ*11は、自分の馬をシチュアシオニストにしたのだ。彼の次なる堀り出し物を待とうではないか。彼は、自分の馬がSI中央評議会のメンバーでもあったと主張するだろう。これまでにも彼はこの種のことを試みたことがある(『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第7号 参照)。このようにナッシスムはあまりにも過去の方に向いているので、今までになされたナッシストたちの想像力の唯一の努力は、彼らのわずかばかりのシチュアシオニストとしての過去を自己流に改造することにあった。また9月には、同じナッシュが、パトリック・オブライエン*12という名のもう1頭の馬(今度のやつが、どちらにしても無条件にナッシストであるコヨーテか鰊だというわけでもない限り)に隠れて、オーデンセの街のとある画廊で「7人の反逆音たち」の絵を展示した。今になってナッシュが白状しているように、この7人はSIから放り出され──そのうち何人かは放り出されるという経験さえできなかったのだが──、ようやく彼らだけで〈スカンディナヴィア。シチュアシオニスト・インターナショナルョナル〉に集っている。結構なアイデアだ。1961年に何人かのドイツ人が国家シチュアシオニスムを企んだ後、こんどはナッシュの賢い馬小屋がわれわれにシチュ−スカンディナヴィスムを敦えてくれるだろう。そこで何をなすべきか。数を数えることのできる馬がみな、話すこともできるなら、サーカスはもっと大入りになるだろう。
 ナッシスムの無意味な論争のなかにも、しかし、完全にはっきりさせておいたほうがよい点が1つある。彼らは、自分たちを除名した多数派は疑わしい連中だと言明しているのだが、多数派を疑わしく見せるために彼らが発表した(2月のパリでの〔中央評議会〕の集まりについての)数字と事実はまったく疑う余地の無い嘘であった。そのようにして彼らは「民主主義的」という自分自身の主張を掘り崩してしまった。しかしこの問題は明確にしておかねばならない。なぜならそれはSIの本質そのものに関わるからだ。SIの多数派は実際、はっきりと民主主義的規則に従った。それゆえナッシストの反論はすべて、単なる不識実のレベルに位置付けられる。しかし問題の本質は別の所にある。もしいくつかの国における、愚かな追従者や利害関係者による見境のない人集めとSIへの潜入工作という悪しき政策が、もう少し長い間受け入れられていたら、公式にSIに参加している偽のシチュアシオニストの数はたしかに多数を占めるに至っていたであろう。しかしそのことによって、シチュアシオニストが、彼らを非シチュアシオニストとして除名する権利と義務を変更するようなことはいささかもなかっただろう。それは最も基本的な理由によってである。なぜなら、すべてが刻一刻と示していたように、彼らはわれわれの思想や行動の基盤を、理解も評価もしていなかったからである。唯一の例外が、ある日、SIに加盟するという選択をしたことなのだ。たとえ除名という行動に出たとしても、やはりわれわれがSIの全体を代表し、彼らのほうは何も代表しなかっただろう。しかし、そのような分派主義的暴力には頼らない方が望ましかった。また、「忠実な」セクションの重みを増すために、ほとんどの国のシチュアシオニストに要求される水準を、たとえわずかといえども下げることを受け入れて、ナッシストの観点に戦術的な面で追従することは問題外であった。平等な投票の外見を保つためにとられるそうした巧妙な手段は、実際には、全員がSIにおける現実の平等を放棄すること(弟子や従属的活動家の取り消し不可能な加盟)を意味しただろう。つまり、少数の出世主義者を、彼らが──現メンバーによる新メンバフの選考という方法で──増える前に排除し、どこであろうとSIに加盟する際の、より客観的な規則を制定すべき時に来ていたのである。
 SIは大衆組織ではありえないし、慣習的な前衛芸術グループのように弟子を受け入れることもできない。最も不利な条件のもと、まったく新しい基礎の上に文化と革命運動を再創造するという任務が問題となる歴史的時点において、SIは、〈平等者の陰謀〉*13であるしかなく、また、部隊を欲しない司令部にしかなりえない。新たなる革命へ向けて「北西への突破口」を見い出し、開くことが問題なのであり、その革命は、大量の実行者を持つことはできず、これまでは革命の振動からは守られてきた中心領域、つまり日常生活の征服に押し寄せねばならない。われわれは雷管だけを組織する。自由な爆発はわれわれの手から永久に逃れる。それは、他のいかなるコントロールをも逃れるだろう。
 生を自由に組織することを探求するグループに対して、旧世界がおそらく最もよく使う伝統的な武器の1つは、何人かの「スター」を他から区別して孤立させることである。現代社会の唾棄すべき通常の選択の大半と同じく、「自然」であるかのような外見を呈しているこのやり方に対して、われわれは自己防衛しなければならない。われわれの中でスターの役割を果たすことを望んだり、スターをあてにすることを望んだりする者は排除されなければならなかった。そのことに議論の余地はない。第一、彼らは、野心を実現する手段を持っていないことがわかった。そしてわれわれは、シチュアシオニストの問題設定の影響範囲から彼らが完全に姿を消すことを保証できる。ナッシュだけは別だが、われわれは彼をも始末し、彼はSI以外の者たちの間で有名になることだろう。現在のSIのメンバー──その誰一人としてこのようなヒエラルキーのゲームをしたいと思っていない──にとって、この客観的危機はより現実的に現れてくるだろう。なぜなら、SIは、より公的な段階に入っているからである。シチュアシオニストはナッシストよりも多くの解釈やコメントの材料を提供するであろうが、その解釈やコメントはナッシストの真の目的からもSIの真の目的からもまったくかけ離れたものであることもありうる(ロベール・エスティロベール・エスティヴァル*14氏の著書『1945年以降のパリの文化的前衛』の最終章における、非常に個人的な解釈を見よ)。
 文化と社会の古いモデルを復元しようとするスター化のプロセスに備えて、SIへの加盟が必然的にもたらすさまざまな度合いの広告効果を考慮しなければならない。名前を明かしているシチュアシオニストと地下活動を行っている同志との区別にすぎないにせよ、そのような非合法性は、この方法によってしかわれわれとの結び付きを発展させることのできない国々においては、避けられないものであり、他のいくつかの場合においては望ましくさえある。ただし、そのメンバーは、最も確かなメンバーのなかから選ばれるのであって、ナッシストの提案していたような、多かれ少なかれコントロール不能であったり、二重スパイであるような連中ではない、という粂件のもとでである。弾圧そのもののせいで、当然、われわれのうちのある者だけがより目立つことになるかもしれない。しかし日常生活の反植民地闘争においては、指導者崇拝はありえないだろう(「唯一のヒーロー、それはSI」)。
 われわれに実行者としてのシチュアシオニストを認めさせるのも、誤った立場をとらせるかもしれないのも、この同じ動きである。確実性を求め、現実の問題を愚かなドグマに変え、そこから資格や知的快適さを引き出したがり、そしてもちろん、この矮小化された確実性の名のもとに、自分たちにそれを与えてくれた者に対して、教えを若返らせるべく反抗するのも弟子の本性である。このようにして時とともに、受容のエリートたちが更新される。われわれはこのような連中は外に放っておきたい。なぜなら、われわれは、SIの理論的問題設定を単なるイデオロギーに変えようと望む者すべてと戦うのだから。このようなことを望む連中は、SIなど知らないで自分自身の生を直視するどんな人々と比べてもけるかに劣り、興味に欠ける。逆に、SIがどこへ行こうとしているのか、その方向を理解した者は、SIに加わることができる。なぜなら、われわれの語る乗り越えとはすべて、実際に現実のなかで見い出すべきものであり、われわれは全員でそれを見いださねばならないからである。SIよりも過激であるという任務はSIに属している。それは、SIの永続性の第1法則ですらある。
 怠惰から、われわれの計画を、すでに出来上がった、称賛すべき、批判の余地なき1つのプログラム、もはやそれに対して何ひとつすることのないようなプログラムに押し止めることができると考えている連中がすでにいる。心情的にさらにラディカルであると口に出して言う以外何も行動しない、すべてはSIによって言われてしまい、それ以上のことはできないのだからというわけである。われわれは逆にこう言おう。われわれが切り開いた諸問題のうちで最も重要なものは、──SIによって、または他の人々によって──まだこれから見い出すべきものであり、さらに、われわれがすでに見い出したもののうち最も重要なものは、あらゆる種類の手段が欠けているせいで、いまだに発表されていない、と。欠如といえば、SIが他の分野で(何よりも行動様式の分野で)素描した実験のための手段は、さらにいっそう不足している。しかし、例えば、出版の問題に限って言えば、今やわれわれは、これまでに発表したすべてのもののうち最も興味深いものを、われわれ自身の手で書き換えなければならないと考えてる。それによって何らかの誤りを正したり、いくつかの偏向の芽生え──その後、肥大化した帰結(たとえば、シチュアシオニスト的職業についてのコンスタントのテクノクラート的考え方、『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第4号参照)が見られた──を取り除くためではない。そうではなくて、われわれのテーゼのうち、最も重要なものを訂正し改良することが問題なのだ。現在そのテーゼのおかげで得られた知識をはじめとして、われわれは、まさにそれらのテーゼの発展によってより遠くへ遠むことができたのであるが。そのためにはいくつもの再販が必要だが、SIの現在の出版の困難はまったく解消されていない。
 初期のシチュアシオニストの思想について、それがすでに歴史的獲得物であって、騒々しく偽物を作ったり無邪気に称賛すべき時が来たと考える者は、われわれの語る運動というものを理解していない。SIは風を蒔いた。それは嵐を刈り取るだろう。

*1:ウーヴェ・ラウゼン 本書「シチュアシオニスト情報」を参照。

*2:ヨルゲン・ナッシュ(1920−) デンマークの詩人・芸術家。SIスカンディナヴィア・セクションのメンバー。1959年からSIに参加したが、翌年、「ハウハウス・シチュアシオニスト」建設のための農場を手に入れ、1962年3月、アンスガー・エルデとともに、スウェーデンで分派宣言を行ったためSIを除名される。

*3:ファザーケレイなる者の「詩」 ゴルドン・ファザーケレイの 『ドローイング・詩のこと。 ヨルゲン・ナッシュが序文を付し、1962年にバウハウスシチュアシオニストの出版物として、スウェーデンで発表された。 ファザーケレイについては不詳。

*4:『サ・シチュアシオニスト・タイムズ』 シチュアシオニストの国際版雑誌を名乗っているが、ドゥボールシチュアシオニストは参加せず、ヨルン、ドイツの〈シュプール〉派など、シチュアシオニストを除名された者たちや、アレシンスキー、カウロス・サウラ、ポリス・ヴィアン、ロベルト・マッタ、ウィフレド・ラムなどが参加した。ジャックリーヌ・ド・ヨングの編集で、1962年5月から64年9月まで全6号が出された。

*5:18か月間シチュアシ才ニスト・インターナショナルにいた人物 オランダのシチュアシオニストで1962年3月に除名されたジャックリーヌ・ド・ョングのこと。

*6:ノエル・アルノー(1919−) 1941年、占領下のフランスでシュルレアリスムの非合法雑誌『ペンを持つ手』を発行し、レゾスタンスに加わる 戦後、ドトルモンジャガールらと、シュルレアリスムの政治化を図って『革命的シュルレアリスム』詰を発行するが、ブルトンからも、フランス共産党からも批判される。51年以降、コレージュ・ド・パタフィジックのメンバーとな0、〈潜在文学工房〉の設立にも加わる。「スターリン主義パタフィジック」とは、共産党との関係とコレーゾュ・ド・パタフィジックとの関係を共に特つことを指している。

*7:ポリス・ヴィアン(1920−59年) フランスの作家。その活動は、ジャズ・トランペット奏者、作詞・作曲家、歌手、俳優、レコード会社のディレクター、自動車技師など、非常に多方面にわたる。文筆関係でも、小説・戯曲・詩の創作にとどまらず、音楽評論や、アメリカのミステリー・SFの翻訳なども手がけた。代表作とされる小説『日々の泡』(47年)は、発表時にはほとんど無視されたが、彼の死後の60年代に、驚異的なミリオン・セラーとなった。なお、ヴィアンは、1952年に、コレージュ・ド・バタフィジックに正式加盟している。

*8:ハイムラート・プレム(1934−78年) SIドイツ・セクション、〈シュプール〉派のメンバー。62年2月に、他の〈シュブール〉のメンバーと共にSIを除名。

*9:シチュアシオニスト革命(シュチュアシオニスティスク・レヴォリューション)』1962年10月から不定期に刊行されたSIスカンディナビア・セクションの機関紙。

*10:アンブロシウス・フィヨルド ヨルゲン・ナッシュとともにバウハウスシチュアシオニストの活動に参加して活動したこと以外は不詳。

*11:カイウス・ナッシュ 第28代ローマ教皇(283?−296年)カィウスとナッシュの名を組み合わせた名。

*12:パトリック・オブライエン フィヨルドと同様、バウハウスシチュアシオニストのメンバーであること以外は不詳。

*13:〈平等者の陰謀〉 フランス革命期の最左派の革命家バブーフが1759年から96年に行った活動で、共和国3年に樹立したブルジョワ政権を人民の名において転覆しようとした「陰謀」。バブーフらは徹底した平等主義を唱え、土他の分配と平等な財産の分配、さらには私的所有権の廃止を求めて、秘密総裁政府を作り、秘密の工作員を区や軍隊の中に送り込んだが、96年5月に発覚して逮捕される。バブーフは翌年処刊されるが、この〈平等はの陰謀〉の「思想」はマルクスに強い影響を与え、その戦術と組織論はブランキ、レーニンに受け継がれた。

*14:口ベール・エスティヴァル フランスのレトリスト・批評家。イズーのレトリスムから分かれた自称ウルトラ−レトリストとして、1957年から59年まで雑誌『グラム』を刊行、レトリストのデュフレーヌ、エスティブヴァル、ヴォルマン、ジャン=ルイ・ブローの詩・批評・バンフレット類を掲載した.後には、CNRSの研究者となり、古書物学(ビブリオロジー)なる学問を姶めた。著書に『1945年以降のバリの文化的前衛』(63年)、『綜合的表意文字的ハイパーグラフィー』(64年)、『前衛』(68年)『構造主義から図式主義へ』(83年)、『世界の書物──国際的書物学(ビブリオロジー)序論』(83年)、『書物学』(87年)。