『王さまのすべての家来(オール・ザ・キングズ・メン)』 訳者解題

 「王さまのすべての家来(オール・ザ・キングズ・メン)」というこの論文の奇妙なタイトルは、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』に出てくるマザー・グースから採られている。ハンプティ・ダンプティ登場の場面でアリスが暗唱するその童謡は、「ハンプティ・ダンプティは塀の上に坐ってた、/ハンプティ・ダンプティはしたたかに落っこちた、/王さまのすべての馬と王さまのすべての家来でも、/ハンプティ・ダンプティを元に戻すことはできなかった」というものだが、シチュアシオニストは、アリスにその名前の意味を問うたり、さまざまな言葉に自己流の異なる意味を担わせたり、2つの意味を1つの単語に詰め込んだ「かばん語」を次々と発してアリスを混乱させるこのハンプティ・ダンプティに、「言葉の不服従」の革命的実践者を見出すのである。シチュアシオニストもまた、ある意味ではハンプティ・ダンプティのように、権力によって「偽の身分証明書」を与えられた言葉、「通行許可書」を押しつけられ、「生産」における役割を規定され、強制的に働かされる言葉に、サボタージュを行わせるが、そのサボタージュの戦略は、ハンプティ・ダンプティのそれとはひと味違う。SIの言語戦略は、権力によって意味を切り縮められ、生を剥奪された実用的な「情報」の裏をかき、権力にコントロールされ、権力の力の源泉となっている一方通行の「コミュニケーション」を転覆することであり、そのために権力のコミュニケーション網に頼らない「直接的なコミュニケーション」をあらゆる場所で開始し、「コミュニケーションの評議会」を形成することである。この直接的なコミュニケーションは、別のところでは、「自らの拒否を内包するコミュニケーション」として、すなわち自らがスペクタクル化し権力と化すことのないような「優先的コミュニケーション」として称揚されていた(『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第7号「優先的コミュニケーション」)。シチュアシオニストが「詩」と呼ぶものは、出来事と言語が不可分に結びつくなかでしか誕生しない、この直接的でダイナミックな「優先的コミュニケーション」のことであり、それは、シュルレアリストの言うように「必要とあらは詩作品のない詩」というのを乗り越えて、「詩作品の必ずない詩」である。この直接的なコミュニケーションと化した詩において、言語は「働く」のではなく「遊ば」なければならないというのが、シチュアシオニストの考えである。「詩」作品を創造するのではなく、過去の「詩」作品を国家や書物の保管庫から解放し、直接的コミュニケーションのなかで再活用すること。死んだ言葉、あるいは商品として「引用」するのではなく、状況の構築のために「転用」することこそが問題なのである。
 その具体例の1つを、ミシェル・ベルンシュタインの転用小説に見ることができるだろう。ベルンシュタインは、フランス近代小説の1つの起源であると言われるラクロの恋愛小説『危険な関係』をずたずたに解体して、その文章を並べ替え、シチュアシオニストの男と女の冒険を物語ったまったく別の物語にしてしまったが、その転用小説のタイトルは「王さまのすべての家来」ならぬ『王さまのすべての馬』というものであった。そして、ベルンシュタインのこの転用小説は、再び、1967年10月にストラスブール大学で撒かれたシチュアシオニストの転用コミック形式のビラ『ドゥルッティ旅団の帰還』 のなかに転用され、「ストラスプールのスキャンダル」に始まる67年秋から68年5月にかけてのフランスの学生反乱の開始を告げるのである。ハンプティ・ダンプティが開始した「言葉の不服従」の闘いは、まさに、「王さまのすべての馬と王さまのすべての家来」でも、「元に戻すことはできなかった」と言えるだろう。