『イェーテボリでのSI第5回大会』訳者解題

 1961年8月末に、ストックホルムに次ぐスウェーデン第2の都市イェーテボリで開催されたSI第5回大会は、SI内部の「芸術」派と「革命」派との対立が公然化し、「革命」派が主導権を奪ううえで重要な大会になった。60年代のSIの運動は、ヨーロッパと第三世界のさまざまな革命運動との結びつきを強め、次第に政治運動へと傾斜してゆくが、その方針が明確に定められたのはイェーテボリでのこの大会の翌年、1962年11月にアントワープで開催されるSI第6回大会においてである。実際、その大会は、外部の革命潮流との関係を整理し、SIの運動の非合法性・実験性を確認したうえで、それまでの国単位のセクション制を廃止して単一の世界組織へと組織を統一して、SIの組織的・理論的統一を完成させることに成功する。イェーテボリ大会は、いわば、このアントワープでの統一に向けた地ならしであったと言える。この大会では、いまだに「芸術作品」を製作することにシチュアシオニストの活動を一面化しようとする部分との理論闘争が熾烈に行われた。とりわけ、ベルギー・セクションのラウル・ヴァネーゲムアッティラコターニィという2人の新しいシチュアシオニストは、ヨルゲン・ナッシュらのスカンディナヴィア・セクションやクンツェルマンらのドイツ・セクションのメンバーによるシチュアシオニスト理論の曲解に対して、厳しい批判を浴びせかけ、「作品」を重視する活動の不十分さを断罪する。ヴァネーゲムは、「基調報告」のなかで、「問題は拒否のスペクタクルを作り上げることではなく、スペクタクルを拒否することである。スペクタクルを破壊する諸要素が、SIの定義した新しい真正な意味で芸術的に練り上げられるためには、それらの要素はまさしく芸術作品たることをやめねばならない」と、明確に「作品」の生産を主眼とした運動を拒否する。また、コターニィは、SIの個々のメンバーのこれまでの「作品」は、シチュアシオニストの目指す「真実」に照らせばまだ「形成途上」にある運動のなかで産み出された「作品」にすぎないがゆえに「シチュアシオニスト的作品」と呼ぶことはできず、むしろ「反シチュアシオニスト的」と呼びうるにすぎないとして、シチュアシオニスト的作品という幻想を退ける。
 ヴァネーゲムコターニィのこの批判は、卑俗な例を挙げると、例えば革命闘争において、他人の使う銃の手入れだけに毎日精を出す者や、他人の食べる食事を1日中作っている者などが、革命から疎外されているのと同様に、シチュアシオニストの運動において芸術作品の製作ばかりを優先し、シチュアシオニストの掲げる他の社会批判の行動をサボタージュする者はSIの運動から疎外されているということを言っているのである。人間の全体的活動の分割や分業を批判するSIの運動の内部において、古い社会の分業の考えに基づく「芸術」活動は認められない。SIがいかに「スペクタクルの社会」を転位する方途として、「文化」の領域での批判と闘争を重視するからといって、「革命的実践、そして生の使用法を変える」ことへの意志と結びつけられない「作品」の製作は意味をなさないのである。
 ヴァネーゲムコターニィ、そしてドゥボールの共通のこの認識は、この大会において全員から一応の賛成を得る。しかし、「芸術」派のSIへの対立は表面上解消したように見えただけで、後に、スカンディナヴィア・セクションでは、ヨルゲン・ナッシュとアンスガー・エルデがSIへの反対を表明し、シチュアシオニスト商標の家具を製造販売するという逸脱を行い、ドイツ・セクションでは大会での決定を踏みにじって独自にその雑誌『シュプール』を発行するという分離主義的行動に出ることで、それぞれSIから除名されるのである(「シチュアシオニスト情報」を参照)。