『オランダにおける反乱と回収』訳者解題


 1965年から67年5月まで、オランダの主としてアムステルダムで活動した〈プロヴォ〉については、そのスペクタクル的とまで言える華々しい行動によって当時のヨーロッパのジャーナリズムでも注目を浴び、その後も、現在に至るまで、さまざまな形で神話化されて語られている。それは、先進資本主義国での「若者」の暴動という性格において68年5月革命を先取りするものだったとか(実際、フランスでは68年5月には、この〈プロヴォ〉がしばしば引き合いに出された)、大量消費社会に反対し環境問題にも焦点を当てた運動のテーマ、明確な組織論や綱領のない組織形態、ハプニングやパフォーマンスを応用した闘争のスタイルなどによって、70年代エコロジー運動や80年代のオルタナティヴ運動、アートーアクティヴィストの運動などの先駆だったとか、教条的なドゥボールのSIと違って、現在の運動に具体的に影響をおよぼしている「若者運動」だとか、洋の東西を問わず──というより、ヨーロッパと、その都合の良いところだけを取り上げる米国と日本で──しばしばそのように語られている。
 〈プロヴォ〉についてのこのような誤った理解を捨てるために、以下、そのいくらかなりとも正確な歴史と、ここでの具体的批判とはまた別の形でのSIによる理論的批判を紹介しておく。
 〈プロヴォ〉の簡潔な歴史を書いたイヴ・フレミオン ( Yve Frémion, ≪Lse Provos≫, dans Mai 68──Les Mouvements étudiants en France et dans le monde, BDIC, 1988, pp.48-52 )によると、〈プロヴォ〉は1965年に、まず、パフォーマンス・アーチストとアナキストの活動家グループとが結び付くことによって結成され、当初から「政治」と「アート」を接ぎ木したものだった。エコロジーという言葉が生まれる以前からのエコロジストでありアーチストでもあるヤスパー・グロートフェルトは64年から、アムステルダムの中心街スピュイ通りにある広場で週1回、夜中に、煙草反対や環境問題をテーマにしたハプニング芸術を展開していた。一方、65年の5月ごろ、それとは別に何人かの若者を中心に非公式の政治集団が結成された。クロポトキンについての著作のあるロエル・ファン・デューン、反体制の雑誌編集者ロブ・ストーク、有名なアナキスト、ルドルフ・デ・ヨングの他に、ハンス・テュインマン、マルティンリンツ、ゲート・クローツェらである。このグループはすぐにグロートフェルドと接触を持ち、スピュイ通りでの彼のハプニング芸術に参加、こうして〈プロヴォ〉グループは誕生した。彼らは『プロヴォカティー(挑発)』という名のビラを発行し、その最初の行動として、7月3日のベアトリクス王女と元ナチのドイツ人クラウス・フォン・アムスバーグとの結婚反対運動でそのビラをばらまいて注目された。やがて、機関誌『プロヴォ』も発行し、そのなかで彼らの基本テーゼ──「アムステルダムの退屈な住人」を挑発し、オランダ社会を転覆して、「カウンター・ソサエティー」を作り出すこと──を書いたプロヴォ宣言を発表し、「白い計画」なる彼らのオルタナティヴ・プロジェクトを提出してゆく。この「白い計画」とは、自転車の自由乗り捨て計画「白い自転車」、反公害の目的での自動車交通禁止計画「白い道」、女性解放プラン「白い女性」、空き家占拠運動「白い家」、警官の週35時間労働要求「白い鶏」、下手な運転に反対する「白い死体」などからなるもので、これらはアムステルダムの若者たちにある程度支持された。また、彼らは、ルート・シンメルペンニックという名のエンジニアやオラス・ストープという名の新聞スタンド経営者の参加を得て、反体制ゲリラメディアの技術を身に付け、オランダの代表的保守派新聞『テレグラフ』紙に『プロヴォ』を挟み込んで配付して逮捕されたり、王室の偽演説を印刷したビラを配付したりする。一方で、最初の「白い自転車」計画が実行され、警察は通行する自転車すべての取り締まりをせざるをえなくなり、また、空き家占拠運動も実行に移され始め、65年末までには警察との衝突でけが人や多くの逮捕者を出すまでになった。この時期にファン・デューンも一度、ベアトリス王女の後をつけ回して逮捕される・66年3月10日に行われたベアトリクスとクラウスの結婚式セレモニーには、〈プロヴォ〉は穏健派が中心になって〈プロヴォ・オレンジ委員会〉という名の組織を作り、大衆に紛れて反対運動を行った。彼らは「白い噂」と名付けた作戦で、拡声器で機関銃の音を流したり、いたるところで発煙筒を焚いたり、公用車に白い鶏を投げ付けたりはしたが、その行動は警察に守られたカンパニア闘争の域を出なかった。オランダの世論の多く、とりわけユダヤ人コミュニティーは、この結婚に反対しており、〈プロヴォ〉の闘争に有利な条件があったにもかかわらず、彼らは穏健なアリバイ的闘争しかしなかったために、〈プロヴォ〉のもとに集まっていた者たちは、その「指導部」を ’乗り越えて、より政治的な主題を扱い、運動形態も過激化するようになってゆく。彼ら反「指導部」派は、ヴェトナム反戦、スペインの反フランコ闘争支援などを掲げてデモを行い、〈プロヴォ〉運動で初めての──そして唯一の──起訴−有罪判決を受ける(ハンス・テュインマン、懲役3ヵ月)。こうした激しい街頭闘争が、やがて66年6月14日から数日間にわたって続き、労働者1名の死者まで出したアムステルダムでの大規模な暴動にまで発展してゆくのである。
 この間、当初からの〈プロヴォ〉のメンバーたちは、議会制「民主主義」のなかに自らすすんで回収される行動に移る。彼らは66年6月のアムステルダム市議会選挙で、「白い計画」を掲げて立候補し、1万3千票の得票(得票率2・5%)で1議席を獲得、以後、市議会内部でその計画を推進するのである。こうして〈プロヴォ〉は議会内活動を重視する穏健派と、街頭闘争を主張する急進派とに二分される。穏健派は65年以来の機関紙『プロヴォ』の発行を停止して議会活動に飲み込まれ、さらには、プルードン主義に鼓舞されたグロートフェルトによる〈プロヴォ〉銀行の設立まで行うしまつである。一方、急進派は、穏健派に転がり込んだ「幸運」とは対照的に、警察の大弾圧で逮捕者を続出するうえに、極右組織による〈ブロヴォ〉狩りの標的にされ、その中で何の方針も立てられずに混迷してゆく。こうして、世界的なジャーナリズムの注目とは裏腹に、その後の〈プロヴォ〉は、この二派の対立の深刻化のなかで有効な活動を組織できず、最終的には67年5月13日にフォンデル・パークで一大解散ハプニングを行って自己解体した。これが〈プロヴォ〉の歴史である。〈プロヴォ〉の解体後、その主張は和らげられて、ロエル・ヴァン・デューンの率いる政治集団〈カブーター〉に引き継がれ、70年のアムステルダム市議会選挙では〈カブーター〉は3万票の得票で5議席を獲得し(他市では計12議席)、自転車交通運動、エコロジー、空き家占拠の一部合法化、自主管理、地域会館の建設、自由ラジオ運動などを、政策として穏健化させたうえでオランダ社会に浸透させた。マリファナ喫煙の合法化などに代表される、現在のオランダ社会の一見自由な雰囲気は、こうした流れの上にある。
 反既存政党、反植民地主義、反人種主義、フェミニズムエコロジーホモセクシュアルの擁護、自由な組織形態、ハプニングやウィットに富んだ落書き、メディアに対するゲリラ的な行動など、〈プロヴォ〉の運動スタイルは、シチュアシオニストと類似し、実際に〈プロヴォ〉の運動はシチュアシオニストを真似たものだとよく言われる。それには、オランダの元シチュアシオニストで60年夏にSIを脱退したコンスタントの運動への参加も1つの原因であるかもしれない。だが、議会加入戦術による既存社会の改良というその基調、明確な理論のない反体制的気分だけのその運動スタイル、体制側に寝返って「下部」を見殺しにした官僚主義的な「指導部」の態度、これらはすべて、「政治」と「芸術」を単に接ぎ木しただけで、シチュアシオニストの主張したようにそれら両方を「乗り越える」ための理論も実践もなかったがゆえに、最後は「政治」のレヴェルでも「芸術」のレヴェルでも何も新たなものを産み出せずに解体した〈プロヴォ〉の当初からの曖昧な「基本テーゼ」のもたらしたものである。この点において、〈プロヴォ〉の運動も理念も、すべてシチュアシオニストと相容れないことは明らかである。
 フランス全学連の最初の内部反乱を引き起こすためにストラスブール大学の学生たちの求めに応じてSIのムスターファ・ハヤティが中心になって書いた『学生生活の貧困』(66年11月発行)は、60年代後半になって世界各地で学生や若者が引き起こしている歴史的反乱を、「若者の反乱」という「社会的−自然的な疑似的カテゴリー」で括ることは、「反乱の新しい若さを若者の永遠の反乱」に変えて、それを超歴史的な単なる成長途上の若者の病として神話化し、スペクタクルとして消費してしまう、ジャーナリズム特有の手法であることを厳しく批判している。そのうえで、それでも時代の新しい現象であり、最も激しい形で社会を拒否している若者たちとして、ハヤティは「ブルゾン・ノワール」(黒ジャンパーの不良集団)の存在を挙げる。秩序や現行の社会システムを嫌い、支配され管理されることを拒否して、盗みや犯罪、略奪に積極的に参加し、権力との闘争にも誰よりも先頭になって闘うこの不良集団は、「統合されることへの拒否を一見、最も暴力的なやり方で表現している」集団である。だがその「拒否」の性格は抽象的であるために、彼らにはこの社会システムの矛盾を逃れるチャンスは残されていない。彼ら自身がこのシステムの産物であることに、彼らは気づいていないのである。例えば、彼らは労働を拒否するが、現在の労働の成果である商品は受け入れる。つまり、彼らは商品社会の申し子であり、広告が宣伝するすべてのモノを手に入れたいと願う。他の者たちと異なる点は、ただ彼らがそれらの商品を、直ちに、しかも金を払わずに手に入れたいと思う点だけである。「ブルゾン・ノワール」に残された道は2つしかない。商品を断念せず、自分の欲しい商品を買うために最終的に労働を受け入れ、最悪の体制順応主義者になるか、あるいは、商品の法則そのものを攻撃し、商品世界を革命的に批判する意識を獲得するかである。
 〈プロヴォ〉は、この「ブルソンーノワール」の経験の「最初の乗り越えの形」であり、彼らの「最初の政治的表現の組織化」としての現れだと、ハヤティは述べる。しかし、「成功を求めていた解体された芸術の滓」と「肯定されることを求めていた若い反逆者の大衆」との出会いによって生まれた〈プロヴォ〉は、最初から最後まで、この2つの傾向が完全に混ざり合うことなく分離して存在していた。そしてこの「指導部」と「大衆」という位階的構造こそが、〈プロヴォ〉の運動の決定的限界だったのであり、「大衆」が「指導部」を乗り越えた時に、「指導部」は寝返って「大衆」を弾圧に曝したうえで、残った自分たちだけで〈プロヴォ〉神話を独占する──今に至るまで──ことになるのである。ハヤティによる〈プロヴォ〉批判を、少し長くなるが引用しよう。
〈プロヴォ〉結成以来、「理論なき大衆はほんの一握りの疑わしい指導者の保護の下に一挙に入り、指導者の方は、プロヴォタリアートなるイデオロギーを小出しにして与えることで自分たちの「権力」を維持しようとしていた。『ブルゾン・ノワール』の暴力が芸術の乗り越えの試みのなかで思想の平面に移行するのではなく、新(ネオ)−芸術の改良主義が優位を占めたのである。〈プロヴォ〉は現代資本主義──日常生活の資本主義──によって産み出された最後の改良主義の表現である。生を変えるために不断の革命以下のことはしてはならないのに、〈プロヴォ〉の位階制(ヒエラルキー)は──べルンシュタインが改良によって資本主義を社会主義に変えられると信じたように──日常生活を変革するためにはいくらかの改良を加えるだけで十分だと信じている。〈プロヴォ〉は、断片的なものを選びながら、最後には全体性を受け取ると言うのだ。自分たちの下部〔=基礎〕を手に入れるために、その指導者たちは〈プロヴォタリアート〉なる滑稽なイデオロギーを発明した。彼ら自身が経験したことのない祝祭のカビの生えた残りかすで無邪気にでっち上げた芸術と政治の混ぜ合わせであるこの〈プロヴォタリアート〉なるものは、彼らによると、今世紀のあらゆる愚か者の馬鹿の一つ覚えであるプロレタリアートのいわゆる受動性とブルジョワ化に反対するべく定められているそうだ。〈プロヴォ〉は全体性を変革することはできないと絶望しているので、乗り越えの可能性の希望の唯一の担い手である勢力にも絶望するのだ。プロレタリアートとは、資本主義社会の原動力であり、それゆえ、その致命的な危険でもある。すべてが彼らを抑圧するようにできている(党、官僚主義的組合、〈ブロヴォ〉に対するよりも頻繁に行使される警察、彼らの日常生活のすべてにおける植民地化)のは、彼らこそが現実に脅威となる唯一の勢力だからだ。〈プロヴォ〉はこのことを何も理解していない。だから、彼らは、生産システムの批判をすることができずに、システム全体に囚われたままである。そして、反−組合労働者の暴動の中で、彼らの下部が直接的暴力の側に賛同すると、〈プロヴォ〉の指導者は完全に運動に乗り越えられ、逆上して、運動の「行き過ぎ」を非難し、平和的闘争を呼びかけ、当局を挑発してその抑圧的性格を暴露するという自分たちの計画のことなどすっかり忘れてしまい、逆に自分たちが警察に挑発されているとわめきだす始末である。その極め付けとして、彼らは暴動に参加している若者に向かって、ラジオで、〈プロヴォ〉の──つまり、指導者の──言うことをよく聞くように呼びかけた。それによって彼らは、彼らの茫洋とした「アナキズム」とは、もう1つの嘘にすぎないことを広く暴露してしまったのである。反乱を起こした〈プロヴォ〉の下部が革命的批判に到達できるのは、自分たちのボスに対する反乱を開始することによってでしかない。それはすなわち、プロレタリアートの客観的革命勢力の側につき、オランダ王国の公認芸術家であるコンスタントのような人物や、失敗した議会主義者でイギリス警察の賛美者のテ・フリースのような人物を厄介払いするということである。そのとき初めて〈プロヴォ〉は、彼らの内にすでに現実的基礎を持っている本物の現代的異議申し立てに合流することができるだろう。彼らが現実に世界を変革したいと願うなら、世界を白く塗ることで満足したいと思っている連中と縁を切るしかない。」

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