シチュアシオニスト情報

 SI中央評議会(CC)は2月10日および11日、パリで開催された。CCの6名の委員(アンスガー=エルデは理由があって欠席)とパリにいた他の8名のシチュアシオニストが討議に参加した。イェーテボリ大会以降、ドイツ・セクションの何名かの構成員のSIへの対立が重大なものとなったこと、そしてとりわけ彼らの雑誌『シュプール』第7号の内容、このグループがドイツの内外でSIの指令を適用した同志を無視しあるいはそれに敵対したこと、また、ヨーロッパのいくつかの交化指導層と今や異論の余地のないまでに共謀していること、これらのことを考慮し、ドゥボールコターニィ、ラウゼン、ヴァネーゲムが提出した動議は、CCのドイツ委員のうちの1人、クンツェルマンの除名と、プレム、シュトゥルムおよびツィンマーの除名を要求した。ナッシュは『シュプール』の責任者らの策謀を非難し、その内容を公に取り消す要求を支持したが、除名を主張することまではしていなかった。しかしながら、この問題についての議論の後、ナッシュも除名を支持する側に回ったため、彼らの除名が5対3で決定された。クンツェルマンはCCのすべての批判に自ら同意したが、個人的には非難されている事実のどれにも責任がないと主張していた。だが、彼はその時他の者が実際にSIに従わないのを放置し、その問題を解決できなかったゆえに、除名者のなかに放置された。この除名はただちにビラ『身体を乗り出すな!』によって発表された。その場にいた人間で、問題とされなかったにもかかわらず、そのとき除名者と立場を共有することを表明した唯一の者は、ローター・フイッシャーである。それゆえ、彼も除名された者の中に数え入れねばならない。
 この問題が解決されたので、CCは文化と日常生活の正確な定義について、またスペクタクルと、われわれがここに結集しうる介入の力との間の弁証法的な関係について討議した。理論的な議論が開始されたが、それは今年中にシチュアシオニストの概念を収めた1冊のポケット辞典として首尾一貫したかたちで発表されるはずである。デンマークの「人民大学」を創造的に転用する決定が下された(E・シモン夫人の研究『スカンディナヴィアの国民的覚醒と民衆文化』発売元PUF、を参照)。CCはウーヴェ・ラウゼンにドイツでのSIの新しい雑誌『デア・ドイチェ・ゲダンケ〔ドイツ思想〕』の編集を委ねた。
 除名に関しては、SIのメンバーになることが容易すぎる今の状態をより厳しくコントロールし、どんなことにも耐えうる構成員を選別することによって、除名者の数を少なくするのがよいということでCCは合意した。さまざまなシンパが、納得したふりをして何かを手に入れられると思っているようだ(例えば、SIのスカンディナヴィア・セクションに入るのは「ヌーヴォー・ロマン」の流派に入るのと同じくらいたやすいということは周知の事実である)。この合意が適用されるならば、SIは、あと数十名の除名だけで、すなわち最小の犠牲で、その任務を達成することを期待できるだろう。

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 『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』第2号は再版中てある。コレクションを完全なものにするため希望者にお送する。

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 本誌前号の一部にかなりの数の訂正*1が必要である。それらは誤ったまま印刷屋に回ってしまった。細かなことは言わずに、訂正した結果だけを指摘する。30ページ第1行は「警察によって意図的に」、39ページ第10行は「『整備された領土』に残された最後の逃げ場所」、41ページ第2行は「消費と自由な時間の社会は、空虚な時間の社会、空虚を消費する社会として生きられる」、41ページ第13行は「善良な人々をひどく憤慨させたものだった」、46ぺージ第13行は「偽造された欲求」、72ページ第13行は「疎外に対して行われている闘いのなかに常に再生してくる疎外の可能性を指摘することは正当なことであるが、その場合、これらすべては最も高いレヴェルの探究(例えば、疎外全休についての哲学)において適用すべきであって、スターリ二ズム──不幸にもその説明はより粗雑である──のレヴェルで適用すべきなのではないということを強調しておこう」、85ページ第5行は「宗教ではない。(……)この対立である」、104ぺージ第10行は「文化的資源を所有する者にとって」となる。
 最終的に、『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』第6号のほとんどの部冊は、これらの誤植を訂正して書店に並んだが、その際、さらに2つの誤植を生むことになった。31ページの図版の説明文の最後は「しかも、それは、『ハイクラス』の物質的環境を何よりもまずそれらのモノで構成するために、これらのモノとその他のモノとの開に保ちうる自然な絆を断ち切ることによってなされる」とならなければならない。47ページの統一的都市計画の第2点は、(「再建設」〈reedification〉ではなく)「物象化(reifecation)に使用される」と理解せねばならない。もっともこの場合、コターニィヴァネーゲムの読者なら確かに自分自身を物象化してしまっているだろうが。

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 アンドレ・フランカン*2は、1961年3月以来、ベルギーでの大ストライキの後どのような政治的行動を取るべきかについて大きな意見の相違があったためSIのベルギーの同志から──したがって、他のシチュアシオニストからも──離れていたが、同年9月13日付けの手紙で、彼はSIのあらゆる思想が濁った水のなかで漁をする者の操る戯言だと判断する、もっとも彼自身のテクストに単純に剽窃されたいくつかのもの(本誌第3号、第4号、第5号に発表)は例外だが、とわれわれに知らせてきた。確認しうる最低限のことは、それゆえ、彼がもうわれわれに責任がないのと同じく、われわれももう彼には責任がないということだ。

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 1961年10月27日、ある回状が回ってきた。そのなかでモーリス・ルメートル*3と他の2名の古き良き時代のアヴァンギャルドのレトリスト残党は、もはやレトリスト・グループが存在しないことをついに認めているが、ちっぽけな歴史と大展覧会の中に「レトリスムが正当な場を占めはじめた今」、相互援助の協同組合のようなものを作り、そのメンバーが〔その書類に〕「レトリスト運動の誰それ、という書き方でそれぞれのサインをつける」ことを提案してきた。既に、他の3頭のよく保存されたマンモスの同意に確信を得て、署名者たちは、レトリスムが爆発した時代のアヴァンギャルドの衝突において彼らとは別の側でそれに参加した4人の人物に呼びかけてきたのである。要請を受けた人物のなかにはドゥボールも合まれていたが、彼は当然それに返事をしなかった。にもかかわらず、11月4日の手紙で、同じ者らが再び同じことを繰り返し、ずっと返事がないのはそれを受け入れたということで、乏しい署名者をすぐにも出版せねばならないが、その際、ドゥボールの名を公表することが許されたものと結論付けると言ってきた。ドゥボールはそこで彼らに電報を打って、「屑どもよ、どんな目的であれ、おまえらには私の署名を使用することは禁じる。気をつけろ」と答えた。彼らは賢明にもそこまででやめておくことにした。だが、彼らの行為はすでに奇妙である。これらの者の誰一人としてシチュアシオニストに近づくたった一つのチャンスも与えられてはいなかったのだから。
 この特殊なジャンルのアカデミシャンらは、しかしながら、SIの立場が彼らとは完全に敵対するものであることを知っている。彼らが限りなく分厚い雑誌(『ポエジー・ヌーヴェル』第13号、1960年10月)を正気の沙汰とは思えないほど激しくSIの立場への反対に捧げ、われわれもまた彼らの理論を全く評価せず、彼らの多くの者の生に何も付け加えるところがないと言明していた(『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』第4号と第5号で)だけに、いっそうよくそのことを知っているはずである。この事件はそれゆえ、彼らがどんな思想も──彼ら自身の思想も含め──どれほど馬鹿にしているかをよく表している。だがまだ、その日和見主義のためには資金が必要だ。そして、彼らの客引きの巧妙さをみれば、それだけで、待つことさえしないこの不幸な待機主義者の軍団への彼らの志願と再志願の使命とは何なのかは明らかである。ほら、ソーセージを食え。
 われわれは、本誌先号で、われわれに対する押収の脅威について触れた。そのせいで、統一的都市計画に関するテクストの選集を掲載した『シュプール』第5号のミュンヒェンでの発行が1961年6月にまで遅れていたのである。11月9日、『シュプール』第6号の出版の後、一連の警察の急襲は、ドイツのシチュアシオ二ストの雑誌の全号について発見された全ての部冊を押収するという事態にまで発展した。シチュアシオニストは全員、長時間にわたる尋問を受け、そのうちの4名が起訴された。翌日、被疑者に連帯する31名の者──その大半がSIのメンバーだが──の署名のある最初のビラが出され、そのなかでドイツ・セクションは、「1945年以来初めて、芸術家のところに家宅捜索が行わた」ことを強調している。ビラは出版禁止処分、裁判、さらには投獄まで含む下劣な脅迫の策動を暴露し(問題とされた休制転覆活動とは主として反宗教的活動であったようだ)、知識人と芸術家の連帯を訴えたが、そのことがまた司法の人質となる新たな告訴を生んだ。だが、最終的には、この連帯はドイツでも外国でも実にすばやく表明されたので、押収された雑誌の返還を命ずるまでに当局を後退させた。そして残っていた裁判は機能停止になっている。
 ドイツの雑誌『ヴェルニサージュ』が、1962年2月号で、ドイツの多くのシチュアシオニストの除名──それはこの3ヶ月後に突然起きたのだが──は彼らと風紀警察とのいざこざか、彼らの飲酒癖に関係していることをほのめかそうとしたので、現ドイツ・セクションは、残りのSIの同意を得て、この現代芸術の「内輪雑誌」に3月15日付の手紙で、シチュアシオニストは全員この事件の責任者に今もこれからもずっと完全に連帯し続けると断言し、次のように明確に述べた。「彼らの除名の動機は、まさに、彼らがSIのラディカルな結論にすべて従うことを拒否したことにある。それゆえ、いかなる場合も、われわれはこれらの同志に対してその行動および芸術の反順応主義を非難したということはありえない。われわれは、『ヴェルニサージュ』の編集部の観点──すなわち、諸君の貧しい商店主、召使い、淫売の観点──からすれば、われわれはもっとひどいと主張したいとさえ思っている……」
 それに、SIの恒久的連帯の形式の1つは、2名のドイツ人芸術家をSIのブラックリストに載せることであった。この2人は、この機会に『シュプール』誌に連帯する者のなかに数え入れられることを望まないと主張し、むしろ自分たらの仕事は警察の側に立つことだと感じていることを暴露したのである。

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 1961年11月、キンドゥ〔コンゴ(現ザイール)東部、コンゴ川(ザイール川)に上流の都市〕での、国連のコンゴ占領軍指揮下のイタリア人航空兵に対する待ち伏せの時にも、また、去る1月のコンゴロでの19名の聖職者への処刑の際にも、パカサ将軍*4と東部州*5出身の彼の兵士らの影を見ることができる。不幸にもパカサ将軍はすぐ後に逮捕され、同時に、レオポルドヴィル〔コンゴの首都、現キンシャサ〕のルムンバに適用された一連の粛清のプロセスの開始として──穏健派のギゼンガ*6を投獄し、スタンレーヴィル大隊のルムンバ派反乱はルンドゥラ将軍*7によって鎖圧され、多くの部隊が解休され、多くの兵士が銃殺されたのである。

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 ジャン=ルイ・ベドゥアン*8の著書『シュルレアリズムの20年』を称賛するジャーナリストは、それを読んていないか、シュルレアリスムか実際はモーリス・ナドー*9の本が出た後も20年間存在し続けて来たことを知らなかったかのどららかだ。そう考えなければ、これほども空っぼの時期をこれほど平凡に記述した本に幸せそうに驚いている彼らの態度はよく理解できない。シュルレアリスムのこの20年間の歴史は、現代芸術の20年間を無視したものである。ベドゥアンが閉じこもっている狭い部門の中でさえ、彼の情報は価値がない。例えば、ヨルンはマックス・エルンストの作品全体から極度に影響を受けたことを一度として隠したことがないのに、(105ぺージ〔邦訳97ページ〕で) アスガー・ヨルンマックス・エルンスト*10のコラージュのテクニックに負っているものが何なのかなぜはっきりと述べないのか。パリではまさにもはや何も起こらなかったのに、3大陸に存在したシュルレアリスト・グループを、パリの遠い郊外にある単なる支店のように公然と取り扱うのはなぜなのか。なぜ、1954年のランボー生誕百年の際の「レトリストたちが共同署名している」『始まりは立派だ』*11と題したパンフレットのことを引き合いに出しながら(278ページ〔邦訳271ページ〕)、その後すぐに署名者のあいだで起きた論争を隠すのか。この論争はスターリニスムがその敵〔シュルレアリストのこと〕の陣営の中にまでもたらした災禍の極端なケースとして興味深い。このレトリストのフラクション──その一部は最終的にSIの結成に貢献した──は、階級闘争について語ったために、NKVD*12内務省人民警察〕の殺し屋扱いされたのである。『大いなるトリックの常連たち』と題されたシュルレアリストのパンフレットは、彼らに対して、未来のモスクワ裁判に雇われた偽証者の経歴を予告していた。シュルレアリストが、周知のように、これこれの百貨店が炎上するとか、1939年という年が彼らに何かをあらかじめ取っておくというようなことを前もって予告することのできる自動記述(エクリチュール・オートマティック)の行使だけに自らの活動を限らないのは残念なことだ。というのも、論理的な話し方(ディスクール)を用いて彼らは何人かがNKVDに入るだろう──それはまだ起きていない──と予言したが、その年の自分たちの友人、ハンタイ*13とポーヴェル*14の現在は、もちろん将来も、彼らには見えなかったのである。
 結局、ベドゥアンの散文のライト・モティーフとは、ほとんど各ページで語られる確信に満ちた「若者」、シュルレアリスムに大量に参加してくる「若い人々」であり、一瞬も休まず更新されるシュルレアリストの世代なのである。よろしい。新しい若者たちが、毎年、シュルレアリスムの計画のために立ち上がってきた、そのことは確かに良い兆しだろう。だが、その若者たちは何をしたのか? この重大な点についてベドゥアンの物語は曖昧なままである。

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 本誌第3号の論説記事の1つ「芸術の消滅の意味」は、1959年12月に、次のように指摘していた。リュシアン・ゴルドマン*15が、『弁証法研究』において、社会生活の他の領域から切り離された自律的現象としての芸術」は末来において消滅し、そこではもはや「生から切り雛され」ないような芸術を構想すべきだということを認めようと望んだのだとしても、彼がそれを予言していたのは空の高みからであり、同時代の表現の中にそれを確証するものを認めることはしなかった。彼はまだ、既にマルクスにおいてあまりに不適切になっていた古典主義とロマン主義の対立に基づいて判断していた。彼の最近の進歩は無視しがたいところがある。『メディアシオン』誌 第2号(1961年 第2季)で、彼は「まったく仮定としての話」(強調はゴルドマン)として次のような考えを構想している。「事物と人物の非本来性は多少は普遍的なものとなったがラディカルな非本来性は存在できない世界において」、「文化創造に少なくとも2つの構造的段階、すなわち不在のテーマ的な表現と、より進んだ段階として、事物の徹底的な破壊の意図」を見出すことを期待できるはずだ。彼は遠慮がちにこう付け加えている、「言うまでもなく、前者は、カフカからロブ=グリエにいたる現代文学の全休を特徴付け、おそらくマラルメヴァレリーのような作品のなかにも既にその大部分が見いだせた。一方、後者は非具象絵画と現代詩の多くの重要な潮流の起源にありそれらを基礎付けている」。
 彼はまた人々が物象化に抵抗している! ことを発見して驚いている。153ページにはこうある、「今日われわれが一時的だが明確に述べることのできる仮定は次のようなものである。物象化はさまざまに異なるグループをグローバルな社会のなかに解体し、そこに統合する傾向があるが(……)、生物学的(……)現実にあまりにも逆行する性格を持つため、あらゆる個人のなかに、多かれ少なかれ強力にそれに反対する反応、すなわち多がれ少なかれ一般的で、多かれ少なかれ集団的なものとなりうる抵抗(レジスタンス)、創造行為の背景となる抵抗を産み出すのである(……)」。
 それゆえ、かくして、1961年になって世界が、まったく変わらぬ状態で、「不在の文学と事物の破壊の芸術を産み出す」のを突然われわれは眼にするというわけだ。確かに、ゴルドマンはそれを知らなかったのだ。というのも、彼は自分の発見したものにあまりにびっくり仰天したために、予期せぬ精神の嵐によって自分か投げ入れられた無人島に、フランスの強制収容所と同じくらい多くの人が往んでいるとは考えもしなかったからだ。そこで彼を待ち受けていたフライデーの痕跡は、百年前から続いてきたあらゆる文化革命の痕跡である。
 したがって、われわれには、ゴルドマンが慎重に結論を述べている次の文章をSIの機関誌にさらに引用することはとりわけ刺激的だと思える。「この指摘は単なる仮説にすぎず、それは当然のことながら、何年もかかる長い集団的な探究作業によって厳密化され検証される必要がある。だがこのままの状態でも、この指摘はわれわれにはかなり示唆的であるように思える。この作業の利益そのものにおいて、それを明確に述べ、議論の素材として提供することは有益だったのである」。それこそが、この研究者がいかなる入物か暴露する、良質の慎み深さである。このことについては、だれもがわれわれに同意するだろう。

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 本誌先号で問題になったあ美術商オットー・ファン・デ・ローは、1961年8月30日、『シチュアシオニスト・インターナショナル」のある論文についての公開の声明』と題した長い声明を発表した。そのなかで彼は、最終的に、事件についてのわれわれの説明のすべてを、だらだらともたついた言い方でではあるが、細部にわたって確認している。ただし、次の事実だけは別である。すなわち、彼が何人かの芸術家に先ずより気品あるセンチメンタルな言葉使いで圧力をかけた後、彼らと月額1000ドイツ・マルクで和解する契約を彼が電報で申し出たというふざけた行いを誰も疑いえないことを、彼は認めようとしない。1ヵ月1200「新フラン」で1人の芸術家の生産を保証することが法外なことであるかどうか(とりわけ、1961年8月にはあまりに莫大な金額であるがゆえに「考えられない」この額が、8ヵ月後にはあまりにわずかな額であるがゆえに再び考えられないものとなったような場合において)は、芸術経済を知るすべての者の判断に任せよう。彼はさらに、自分の否認を裏付けるために、これらの者たちの生産するものは何の価値もなく、誰の興味も引かなかったと述べている。彼自身の規準に従って判断しても、ここで彼は間違っており、嘘をついているが、この主張は、彼がその芸術家たちに興味を抱いていたのは彼らがSIのメンバーだったからであり、彼らを介してシチュアシオニストの決定に何らかの影響を行使するためであったという事実をはからずも漏らしてしまっている。彼は部分的にはそれに成功したと吹聴している。さらには、それをし続けることができるとさえ言っている。というのも、彼はその声明の中で、今も何人かのシチュアシオニストと親密な個人的関係を持っていると偉そうに述べているからだ。彼は、そのことを論拠に、SIの機関誌の情報の信憑性を疑問に付しさえしている。それゆえ、われわれは特定の美街商に対してわれわれの意思を表明する──そのようにすれば、われわれは他の美術商との結び付きを求めることになってしまう──べきではないこと、SIを最高に強固な手段でもって外部の圧力から守ることを強調して、本誌第6号の主張のすべてをそのまま述べる。そして、その証拠に、この事件に終止符を打つため、ファン・デ・ローが去る8月30日にその親密さと絵はがきとを秤にかけていたこの収集家の一味を構成しえた者全員が、以後、SIを去らざるをえなくなったことを記しておこう。

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 3月15日、スウェーデンで、ヨルゲン・ナッシュアンスガー=エルデ*16が突然、シチュアシオニスト・インターナショナルに反対であることを宣言し、スカンディナヴィア・セクションを採算の合う、できればシチュアシオニスムの商標を付けた、いくつかの芸術的商品をすぐにでも売り出せる1つの「バウハウス」──まだ1つである──に変えようと試みた。この策謀の展開はおそらく、ナッシュが依拠しようともくろんていたSI右翼が最近になってSIから除去されたことによって早まった(『シュプール』の周辺では、計画は一種の国家シチュアシオニスムとして明らかになっていた。それは自律的な勢力として組織され、スイスとオーストリアへと拡張しようして、その拠点を北欧に求めていたのである)。ナッシストは、その宣言において、どうしようもなく呆れはてた嘘に訴えることもおそれない。2月10日の最新のSI中央評議会──いわば街頭の圧力の下で開催された!──で、少数派を脅すために、2日前から(いやはや!)パリを覆っていた内戦の雰囲気をわれわれが利用したと思わせようとする始末だ。彼らは自分たちの企てにさらに1名を加えて、この憐れむべき少数派を大きく見せねばならないとまで考えた。この人物は、彼らが後になってCCのメンバーだったと主張しているが、SIは全員がもちろんそれが嘘であることを知っている。ナッシストのギャングどもはわれわれから何の和解も期待できない。
 3月23日、SI中央評議会は、アントワープ大会まで、かつてスカンディナヴィア・セクションがカバーしていた地域(デンマークフィンランドノルウェースウェーデン)においてシチュアシオニスト・インターナショナルを代表するあらゆる権限、直ちに真のシチュアシオニストを再結集させ、反ナッシュ闘争に必要なあらゆる措置を命ずる権限を、デンマーク人のシチュアシオニスト、J・M・マルティンに委ねた。

*1:訂正 以下の訂正は第6号の初版に対するものである。われわれの翻訳が依拠した第2版では、すでに訂正済みだが、95ページ第6行のみ、訂正漏れが生じ、「この対立」とすべきところを「1つの対立」としたままになっている。なお、ページと行の数字は本書のものに変えて翻訳した。

*2:アンドレ・フランカン ベルギー出身のシチュアシオニスト。1961年に脱退。シチュアシオニストの活動と平行して『アルギュマン』誌にも協力しており、同誌に「W・ライヒと性の経済」(第18号、1960年)、「党、日常的なもの」(第25−26合併号、62年)などを発表。

*3:モーリス・ルメートル(本名モイーズ・ビスミュト 1926−)フランスのレトリスト。1949年、イジドール・イズーと出会い、レトリスム運動に参加。以後、ドゥボールらがレトリスト・インターナショナルを結成した時には、イズーの側に立ち、以後、終始イズーとともに行動した。50年に発表した著作『イヌとネコ』において、レトリスムに音学的次元を加え、また、より純粋なレトリスムの詩論を完成させるとともに、自ら「ハイパーグラフィック」と名付けた絵文字・象形文字などで構成されたレトリスム絵画や造形詩、[失語詩」と呼ぶ音響詩、『映画はもう始まった』(51年)などの映画まで幅広い作品によってレトリストの最も積極的で革新的な芸術家に数えられる。

*4:パカサ将軍 ルムンバ派の特車と思われるが不詳。

*5:東部州 コンゴ東北部の州。州都スタンレーヴィル。

*6:アントワーヌ・ギゼンガ(1925−) コンゴ(現ザイール)の政治家。60年にルムンバ政府副首相となり、コンゴ動乱の際にルムンバとともにスタンレーヴィルに脱出、臨時政権を樹立。政治的には、当初、運部制を唱えるなど穏健だった。

*7:ルンドゥラ将軍 反ルムンバ派であるモブツ派あるいはチョンベ派の将軍と思われるが不詳。

*8:シャン=ルイ・ベドゥアン(1929−) フランスの詩人、シュルレアリスト。1947年ブルトンと出あいい、戦後期のシ−ルレアリズムの活動に参加する。詩、映画、ラジオ、シナリオ、「ピクト−ポエム」と題したデッサン、オブジェ等の作品のほか、ブルトンの評伝、シュルレアリスムウ歴史などを著している。代表作に『アンドレ・ブルトン』(セゲルス書店〈今日の詩人〉叢書、1950年)、『シュルレアリスムの20年──1939−1959年』 (61年/邦訳、三好郁朗訳、法政大学出版局)など。

*9:モーリス・ナドー(1911−) フランスの批評家。1945年発表の『シュルレアリスムの歴史』によって、シュルレアリスム運動を歴史のなかに位置づけたことで知られる。

*10:マックス・エルンスト(1891−1976年) ドイツの画家、シュルレアリスト。1919年、ケルンでダダの運動に参加し、一連のコラージュ作品やアッサンブラージュ作品を製作。21年にパリでブルトンと出会い、ダリとインドシナを旅行した後、24年、パリに戻りシュルレアリスムに参加。25年にフロッタージュを発見し、20年代から30年代にかけて一連の「コラージュ・ロマン」を製作。第二次大戦期は敵国人として強制収容所に入れられるが、41年に合衆国に亡命し、そこでブルトンデュシャンらとともにシュルレアリスムの活動を行う。戦後、53年にフランスに帰国するが、54年ヴェネツィアビエンナーレで大賞を獲得したためシュルレアリストを除名される。

*11:『始まりは立派だ』 1954年のランボー生誕百年祭で、ランボーの故郷シャルルヴィルヘの彫像建設に抗議して、シュルレアリストレトリスト・インターナショナルが共同で製作したビラ。本書252ページの訳注を参照。

*12:NKVD〔内務省人民警察〕 1920年代の反革命摘発組織、GPU(統一国家保安部、ゲーペーウー)を1934年に吸収して設立され、30年代のソ連で、スターリンの粛清政策に多大な役割を果たした機関。1941年には、NKVDの任務の多くはNKGV(国家安全人民警察)に引き継がれる。

*13:シモン・ハンタイ(1922−) ハンガリー生まれのフランスの画家。1949年バリに居を構え、戦後期のシュルレアリスムに参加。50年代の半ばに、ポロックを「発見」し、アンフォルメルの画家マチューに近づくと共に、その王党派的思想によってブルトンから離反。

*14:ルイ・ポーヴェル(1920−) フランスの作家・ジャーナリスト。ジャック・ベルジェとの共著『魔術師たちの朝』(60年)で有名となり、61年、ベルジェとともにオカルト・政治・芸術を扱う総合雑誌『プラネット』を創刊。以後、その主幹として、神秘主義新右翼の論陣を張る。1978年からは保守派の新聞『フィガロ・リテレール』の編集長。

*15:リュシアン・ゴルドマン(1913−70年) フランスの哲学者・批評家。マルクス主義の立場から社会学的方法論を文学批評に適用した。著書に『隠れた神』(1956年)、『弁証法研究』(58年)、『小説の社会学のために』(64年)など。『アルギュマン』の協力者の1人でもある。

*16:アンスガー=エルデ SIスカンディナヴィア・セクションのメンバー。スウェーデン国籍。1962年5月、ヨルゲン・ナッシュらとともに、スウェーデンで「バウハウスシチュアシオニスト」を結成しSIの分派活動を行ったため除名