『日常生活の意識的変更のパースペクティヴ』 訳者解題

 最後の付記にあるように、ドゥボールのこの論文は、パリの国立科学研究所(CNRS)の社会学研究センターでアンリ・ルフェーヴルの主宰していた日常生活研究グループのセミナーで、テープレコーダーを使って発表されたものである。ルフェーヴルは、1945年からこの年(1961年)まで、この研究所の主任研究員をつとめ、その間に日常生活批判に関する研究を積み重ねてきていた。その成果は、1957年にアルシュ書店から出版された『日常生活批判』(邦訳『日常生活批判 序説』、田中仁彦訳、現代思潮社、1968年。以下『序説』とする)と62年の大部の『日常生活批判2 日常性の社会学の基礎』(邦訳『日常生活批判1』奥山秀美・松原雅典子訳、現代思潮社、1969年)として刊行される。前者が、フランス解放直後の1945年8月から11月に書かれ、1947年にグラッセ書店から出された『日常生活批判序説』に新たな長い序文を付して再刊したものであることを考えると、ルフェーヴルの日常生活批判の成果は、ドゥボールのこの論文とほぼ同時にまとまったかたちで刊行されたことになる。
 シチュアシオニストの運動と、その前身であるレトリストあるいはコブラの運動が、ルフェーヴルの『日常生活批判』に影響を受けていることは、例えば、『シチュアシオニストと68年5月』の著者パスカル・デュモンティエ(Pasca1 Dumontier,Les Situationistes et mai 68,Editions Gerard Lebovici,1990)などが指摘している。だが、厳密に言うと、47年の出版当時「少数の熱心な読者を除いては、〔……〕冷く迎えられた」(邦訳「あとがき」)『日常生活批判』の直接の影響を受けたのは、シチュアシオニストの「本流」であるレトリスト・インターナショナル(LI)の系譜に連なるドゥボールよりも、コブラアスガー・ヨルンやコンスタントらシチュアシオニストの「傍流」の方である。LIの運動(1952年から57年)は、コブラの運動(48年から51年)よりも時期的に後であるにも関わらず、LIの機関誌『ポトラッチ』には、ルフェーヴルのこの書物に関する言及もルフェーヴルその人への言及も一切なされてはいない。一方、コブラは、そのベルギーの中心メンバーであるクリスチアン・ドトルモンが、コブラ結成以前からルフェーヴルに注目していた。彼は、神秘主義化しかシュルレアリスムと訣別してフランス人のノエル・アルノーらと作った〈革命的シュルレアリスム〉の結成(1947年)のための国際会議での基調報告の際に、出版されたばかりのルフェーヴルの『日常生活批判』を援用して「日常生活の実験」という考えを白分たちの基本方針とすることを提案している。自分たちの芸術実験の場を、戦後の秘教化したシュルレアリスムのように脳髄のなかに据えるのではなく、日常生活という社会的な場に据え、芸術活動を日常生活に対する実験的介入のための道具とするというドトルモンの考えは、48年以降のコブラの運動においてヨルンやコンスタントらに共有され、運動の中心的課題となる。コブラの研究家ジャン=クラレンス・ランベール(Jean-Clarence Lambert,Cobra,Chane/Hachette,1983)は、コブラの初期の2回の展覧会「目的と手段」展と「時代を通して見たオブジェ」展の名称はルフェーヴルの『日常生活批判』の強い影響を受けたものだと述べている。
 しかし、こうした表面上の影響関係の有無とは別に、ルフェーヴルの言う日常生活批判の理論と実践の深化という点では、コブラよりもむしろドゥボールらの方がよりラディカルにそれを行ったと言える。コブラは、日常生活の実験を掲げて活動したと言っても、その活動は作品の製作と機関誌の発行、何回かの展覧会とワークショップなど、前衛芸術運動の活動を逸脱するものではなかった。それに対して、ドゥボールレトリスト・インターナショナルの運動は、最初から「作品の創造」による「主体」の実現というロマン主義的な芸術概念を乗り越える運動だった。LIの「心理地理学」や「漂流」、「新しい都市計画」、あるいは「状況の構築」という概念や活動は、作品を作ることを至上目的とするのではなく、都市の日常生活のなかでの集団的な彷徨という行動や日常生活で出会うさまざまな要素の「転用」の行為こそを自分たちの作品なき「作品」とすることによって、まさに日常生活批判を実践的に行ったのである。「日常生活の意識的変更」という、ここでのドゥボールの言い方は、LI以来のそうした活動の上に発せられた言葉である。
 1947年のルフェーヴルの『日常生活批判』は、もちろん、そこまでの射程を持ったものではなかった。フランス共産党とまだ決定的に決裂していなかったこの時期のルフェーヴル(彼が『マルクス主義の現実的諸問題』を書くとともにハンガリー事件への共産党の態度を批判して党を除名されるのは1957年のことである)にとって、日常生活批判は何よりも先ず認識の問題であり、彼の言う日常生活批判はまだマルクス主義の読み直しとして構想されていた。また、日常生活の内部への技術の浸透がまだ十分に顕在化していなかった解放直後の社会情況のなかで書かれたこの本の限界として、初期マルクスの思想における「物象化」と「疎外」の概念の現代資本主義における意義を十分に把握していなかった。そのために、ルフェーヴルの日常生活をめぐる記述には3種の「人間主義」が染み着き、「全体性」の「回復」というどこかロマン主義的色彩の色濃いものになっている。ルフェーヴルが労働者の日常生活がブルジョワ的一面と人間的一面を持つというとき、あるいはまた、労働者は「疎外された労働」にさらされていると言うとき、そこには、日常生活の「人間的側面」と「疎外されていない労働」の「本質」への期待がまだ見受けられる。これは、この時期のルフェーヴルの日常生活のモデルが、都市のそれと言うよりはむしろフランスのの農村のそれであり(彼は、社会学者としては農村社会学の研究から出発した)、大ブルジョワと小ブルジョワ、労働者それぞれの階級がまだはっきりと分化し、それぞれが独自の文化を持っていた古き良き時代の日常生活しか見ていなかったことに起因するのかもしれない。
 10年後、フランスの資本主義が「新−資本主義」としての相貌を見せ始めた時代に再開されたルフェーヴルの日常生活批判の社会学の試みは、47年の『日常生活批判』の限界を踏み越えようとするものだった。そこでは、文学や演劇、美術などの領域での現代芸術のさまざまな試みや哲学・社会学などの学問的探究、喫茶店、ラジオ・テレビ、女性週刊誌、自動車、ニュータウン、オートメーションエ場、消費、余暇など都市に現出する日常生活のさまざまな事象を対象として、「現代世界」の日常生活の根源的疎外情況を描き出そうとする。これらの試みは、そのスタンスこそ違え(ルフェーヴルの関心は日常生活批判の社会学を創始することであり、日常生活を批判的に記述することであるのに対し、ドゥボールの関心は日常生活を実践的・意識的に変更することである)、ドゥボールが10年来行ってきた批判の領域と大きく重なる。「日常生活」への注目という点や、「日常生活」という用語の採用という点では、ルフェーヴルは確かにその47年の著書によってドゥボールらに直接・間接の影響を与えたと言うことはできるかも知れないが、その内実については、ルフェーヴルの日常生活批判がシチュアシオニストに影響を与えたというよりむしろ、シチュアシオニストの活動がルフェーブルの日常生活批判の内実を豊かにしたと言うべきであろう。実際に、ルフェーヴルは、『日常生活批判2 日常性の社会学の基礎』の「第1章 問題の要約」のなかで、「日常生活は、ギー・ドゥボールの思い切った表現に従えば、文字通り《植民地化》されている」(邦訳167ページ)という言い方で、ドゥボールのこの論文を引用している。