統一的都市計画事務局の基本綱領

訳者改題

 1 都市計画の虚無とスペクタクルの虚無

 都市計画(ユルバニスム)は存在しない。それは、マルクスのいう意昧での「イデオロギー」にすぎない。建築は現実に存在する。コカコーラのように。それは、イデオロギーで包まれているが、偽造された欲求を偽って満足させる、現実の生産物である。それに対して、都市計画は、コカコーラをめぐる宣伝にも比すべき、人目を引く(スペクタキュレール)単なるイデオロギーにすぎない。社会生活全体を見せ物(スペクタクル)におとしめることを企図する現代資本主義は、われわれ自身の疎外の見せ物以外の見せ物を提供できない。都市計画の夢がその傑作である。


 2 大衆操作および虚偽の参加としての都市の計画化(プラニフィカシオン)

 都市環境の発展は空間の資本主義的教育である。それは、可能性のある形での具現を、他の形での具現を排除して選択することを表している。都心計画は、美学がたどった解体の道を今たどろうとしているが、それは美学と同じように犯罪学のかなりなおざりにされた一部門と考えることもできる。しかしながら、単なる建築の水準に比べて、それを「都市計画」の水準で特徴づけているのは、大衆操作を官僚主義的に生産しはじめるには、住民の同意、つまり個人の統合が必要となるということである。
 これらすべては、有用性を盾にとった脅迫によって押しつけられているが、この有用性が完全に重要であるのは再建設*1に使用されるためであるということは隠蔽されている。現代資本主義は、家が必要だという単純な議論によってあらゆる批判を断念させる。それは、情報や楽しみが必要であるという口実でテレビを受け入れさせるのと同じだ。こうして、この情報、この楽しみ、この居住様式が人々のために作られるのではなく、人々なしで、人々に反して作られるという、明白な事実を無視させるように仕向けるのである。
 都市の計画化はすべて、社会の広告宣伝の場──つまり、参加することの不可能な何かのなかへの参加の組織化──としてのみ理解されるべきである。


 3 都市の計画化の最高段階としての交通

 交通は万人の孤立の組織化である。この点で、それは現代都市の支配的な問題となる。それは出会いとは逆のものであり、出会いや、どのような種類の参加にも使いうるエネルギーを吸収するものである。不可能となった参加はスペクタクルのかたちで埋め合わされる。スペクタクルは住居や移勤手段のなかに現れる(住居や個人の乗り物の豪華さとして)。というのは、実際は、人はある町のある界隈に住むのではなく、権力に住むからである。人はヒエラルキーのなかのどこかに住んでいる。このヒエラルキーの頂点では、序列は、交通の度合いによって計ることができる。権力は、日常的にますます互いに遠く離れた、ますます多くの場所(商用の夕食)にいる義務によって具体化される。現代の上級管理職を、1日の間に3つの首都にいることがある人として特徴づけることもできるだろう。


 4 都市のスペクタクルの前での異化

 住民を統合しようとするスペクタクルの全休は、都市開発としても、恒常的な情報ネットワークとしても現れる。それは、現存する生活条件を守るための堅固な枠組みである。われわれの最初の仕事は、人々に、環境や模範的行動と自己同一化するのをやめさせる事である。そのためには、人間的な活動のために画定された初歩的ないくつかの地域で自由に活動する自分を認めることができなければならない。人々は、これからもなお長い間、都市を物象化する時代を受け入れねばならないだろう。しかし、彼がそれを受け入れる態度は今すぐにでも変わりうる。西側でも東側でも、新しいベッドタウンが作り出す、快適で色とりどりの幼稚園に対する警戒心が広まることを支持しなければならない。覚醒だけが、都市関係の自覚的な構築という問題を提起するだろう。


 5 分割できない自由

 今ある都市計画化の主要な成功は、われわれが統一的都市計画と呼ぶもの、すなわち、日常生活全休の緊張によって育まれた、都市とその住民の操作に対する生き生きとした批判の可能性を忘れさせることにある。生き生きとした批判とは、実験的な生活のための基地の建設を意味している。つまり、目的にかなった設備のある場所に、自分自身の生を創造する者たちを集めることである。このような基地は、社会から切り離された「余暇」のために取っておかれたものではありえない。時空間上のいかなる地域も完全に切り離すことはできない。実際、今あるヴァカンス「専用地域」には、常に社会全休の圧力がかかっている。シチュアシオニストの基地においては、この圧力が逆の方向に働くだろう。それは、日常生活全体に侵入するための橋頭堡の役割を果たすだろう。統一的都市計画は、専門化した行為とは正反対のものである。切り離された都市計画の領域を認めることは、都市計画の虚偽全休を認めることであり、生活全休のなかに虚偽を認めることである。
 都市計画において約束されているのは幸福である。それゆえ、都市計画はこの約束において判断されるであろう。芸術的告発手段と哲学的告発の手段の連携は、必ずや既存の大衆操作を完全に告発することになるだろう。


 6 上陸作戦

 全空間はすでに敵によって占拠されている。敵はこの空間の基本的な規則(裁判機関のみならず幾何学までも)をも自分用に馴致した。真の都市計画が現れる契機は、いくつかの地域に、こうした占拠の空白を作り出すことであろう。われわれが構築と呼ぶものはそこから始まる。それは、現代物理学が作り出した「正札(ホール)」の概念を使って理解することができよう。自由を実現するとは、まず、馴致された惑星からその表面のいくつかの区画を巻き上げることである。


 7 転用の光

 統一的都市計画の理論の初歩的な行使は、都心計画の理論的虚偽全休を、疎外の克服という目的に転用して、書き変えることであろう。大衆操作の吟唱詩人の叙事詩から、たえず身を守り、そのリズムを覆さなければならない。


 8 対話の条件

 機能的なものは実用的なものである。実用的なのは、われわれの根本問題の解決だけであるすなわち、自己の実現(孤立の体制からの離脱)である。これが有益で実利的なものである。これ以外にはない。残りはすべて、実践から派生した些事、実践の欺瞞を示しているにすぎない。


 9 原材料と変形

 現在の大衆操作のシチュアシオニスト的な破壊は、それだけで、同時に、状況の構築である。それは、化石化した日常生活に含まれている無尽蔵のエネルギーの解放である。個人──現在そういうものとしてはまだ存在していない──が将来、自由に自分自身の歴史を構築するときには、虚偽の地質学として姿を見せる現在の都市の計画化(プラニフィカシオン)は、統一的都市計画とともに姿を消し、それに代わって、常に脅かされる自由の諸条件を守るための技術が生まれることだろう。


 

 われわれは、大衆操作の前のどこかの段階に戻らねばならないと主張しているのではない。それを超えたところに向かわなければならないのだ。われわれが考案した建築と都市計画は、日常生活の革命なしには、すなわち、すべての人が大衆操作を自分の手にし、それを限りなく充実させて実現することなしには、実現不可能である。

アッティラコターニィ、ラウル・ヴァネーケム*2   

*1:再建設 「再建設」 (reedification) は「物象化」(reification) の誤植。

*2:ラウル・ヴァネーゲム(1934−) ベルギー生まれのシチュァシオニスト。1952年から56年までブリュッセル自由大学でロマンス語文献学を勉強。61年から70年までSIベルギー・セクションで活動。67年に出版した『若者用処世術概論』は、ドゥボールの『スペクタクルの社会』とともにシチュァシオニストの書物として爆発的に読まれた。シチュァシオニスト以降の著作に『快楽の書』(79年)など