『ふたたび、解体について』 訳者解題

 『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第2号の「論説」の1つに掲げられた「不在とその飾り立て役」)に続き、シチュアシオニストはここでふたたび自らが「解体」派と呼ぶ前衛芸術家らを批判する。しかし、前回の批判と今回の批判とでは、その批判の対象と水準が徴妙に異なっている。前回、批判の対象となったのは、ジョン・ケージの「無音」の音楽やクラインの「モノクローム絵画」、ミシェル・タピエジョルジュ・マチュー、シモン・ハンタイらのアンフォルメル絵画だったが、その批判の主眼は、これらの芸術表現に共通の特徴である「不在」あるいは「空虚」が、シチュアシオニストのかつて用いた方法、たとえばドゥボールの映画『サドのための叫び』の「空虚」と「沈黙」のスクリーンなどを模倣したものであるにもかかわらず、その意図がまったく別の所にあることを問題としていた。すなわち、ケージやクラインは、その「沈黙」や「空虚」を「宗教」という「スペクタクル」によって埋め──ケージは仏教によって、クラインは薔薇十字団という秘教によって──、タピエやマチュー、ハンタイは王党派ファシズムの教義に突き動かされてアンフォルメルの絵画制作を儀式化するが、それらはみな、「空虚」によって「スペクタクルの社会」を反転するドゥボールの行為とは正反対の発想から生じたものである。シチュアシオニストは、「現代芸術」を標榜する者たちの前衛的と称する表現がそのような保守的なイデオロギーに裏打ちされ、「宗教」の装飾になり果てていることを暴露し、その彼らの倫理あるいは思想を問題としていたのである。
 今回、シチュアシオニストが批判の標的とするものは、主として、前回批判したクラインとティンゲリーの周辺にその後形成された〈ヌーヴォー・レアリスト〉のグループと、60年代になって出現してきたニコラ・シェフェールらのエレクトロニクス的なあるいはサイバネティクス的な〈環境芸術〉であるが、ここでのシチュアシオニストの批判は、彼らの倫理や思想を問題とするよりはむしろ、彼らの表現の手法そのものを問題にするやり方へとより深化している。日常生活のなかに見い出される事物──廃物・ポスター・機械・商品な──どを、芸術表現の道具としてそのままのかたちで用いて、現代消費社会の「新しいレアリスム」を実践し、ホップ・アートのフランスでの先駆けとなった〈ヌーヴォー・レアリスト〉たちの手法は、現代の「スペクタクルの社会」においては、現実の政治や消費生活の「スペクタクル」の支離滅裂さに太刀打ちできない。ヌーヴォー・レアリストの芸術は、大量消費社会のモノの氾濫と「あらゆる既存の語彙、あらゆる言語、あらゆるスタイルの枯渇と硬直化」という情況のなかで、「現実に対する新しい知覚的アプローチ」(1960年4月にミラノのアポリネール画廊で開催されたイヴ・クライン、アルマン、フランソワ・デュフレーヌ、レーモン・アンス、ジャン・ティンゲリー、ヴィレグレの集団展のためにピエール・レスタニーが書いたパンフレット『ヌーヴォー・レアリスト』のなかの表現)を追求する運動であると主張するが、それはシチュアシオニストのように「新しい現実」を「構築」するものではなく、単に既存の現実に対する受動的な表現にとどまるがゆえに、たちまちこの現実に追い抜かれてしまったのである。ヌーヴォー・レアリストの芸術表現はそれでもまだ、この大量消費社会への批判意識を伴ったものであったが、エレクトロニクスとサイバネティクスのシステムに全面的に依拠して都市の余暇のためのショーを提供しようとするニコラ・シェフェールなどの〈環境芸術〉は、体制批判どころか現代消費社会を全面的に賛美する体制派の芸術である。シチュアシオニストは、スペクタクルの社会がその観客に提供する相互補完的な芸術として、これら2つの潮流ともに批判するのである。