芸術の消滅の意味 訳者解題
ここで問題となっていることの1つは、ヌーヴォー・ロマンや不条理演劇、抽象表現主義の極致としての純粋絵画、ジョン・ケージの沈黙の音楽や偶然の音楽など、あらゆる領域で「芸術の消滅」として現れてきた50年代前衛芸術の傾向に対して、当時のマルクス主義の最も現代的現れと言えるアンリ・ルフェーヴルら『アルギュマン(議論)』派の知識人でさえ、「芸術」の意味の把握という点では決定的に遅れを取っていることである。
ルフェーヴルは、1945年に書かれた『日常生活批判序説』のなかで、現代資本主義の主要矛盾が、労働-資本の関係よりもむしろ、日常生活の中に現れる神話化された、すなわち物象化された商品と人間の意識の関係であり、それゆえそこに文化・芸術がはたす役割は大きいとして、その「日常生活批判」をボードレールからシュルレアリスムまでのモダニストの作家・芸術家の批判的検討から始める。このこと自体は、硬直していたマルクス主義にまったく新たな息吹を吹き込み、ドゥボールらも含め戦後のアヴァンギャルド芸術運動に大きな影響力を与えた。しかし、その彼が同時代のアヴァンギャルドの試みをすべてなかったかのようにして称揚する芸術とは、おそらくは1920年代に書かれた『アメリカ労働者詩集』の日常生活を主題にした詩であり、また、『総和と余剰』(1959年、邦訳『哲学の危機』)のなかに収められたルフェーヴル自身の詩は、ボードレールとエリュアールを混ぜたような古くさいものである。マルクス主義の立場から「小説の社会学」を唱えるリュシアン・ゴルドマンもまた、その関心の対象は、古典悲劇の作家ラシーヌであったり、せいぜいボードレールどまりである。要するに、『アルギュマン』派のこれらの知識人は、同時代の芸術家──さらに政治的活動家──の実践の意味を理解するセンスのない学者であって、シチュアシオニストは、結局のところ、彼らの理論が、社会革命の前衛と芸術の革命の前衛が手を携えて進んでいた1917年直後のロシア革命の時代や、1930年代のシュルレアリスムの時代にも劣ることを批判しているのである。
日常生活批判というレヴェルでは、シチュアシオニストもある意味でルフェーブルらに同調するが、その高度資本主義社会の日常を乗り越える手段として、彼らは時代遅れの「革命的ロマン主義」に訴えたりはせず、あくまでも同時代の技術と芸術の最先端に目を凝らし、それらを転用するシチュアシオニスト的活動を押し進めるのである。そして、「芸術」という分離された、すなわち疎外された活動の存在しえない「状況」の構築に向かうのである。