空間の政治学に向けて ──シチュアシオニスト、アウトノミアからレオンカヴァッロヘ by伊藤公雄

はじめに
 シチュアシオニストの問題提起には、つねに空問の要素が伴ってきたことは誰でもすぐに気が付くことだ。1950年代にドゥボールは、すでに『都市地理学批判序説』を発表しているし、シチュアシオニストによる「統一的都市計画」や「心理地理学」といったテーマ設定は、本『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』のペーシを繰ってみれば、次々と発見されることだろう。
 そこでは、つねに空間をめぐる階級闘争が提起されているのだ。
 空間をめぐる階級闘争とは何か。
 「心理地理学」「精神状態に応じたカルチエ」の構築、「漂流」という行動様式…。そこで提起されているのは、空間が人々の情動的な行動様式と密接に関連しているということの指摘とともに、既成=規制の空間がわれわれから奪い取ってきたものを奪還することの必要性である。それゆえに、所与の空間の構造に絶えず亀裂を入れ続け、それを自らの精神状態に応じた形で再構築し続けることが必要であり、そのためにも、常に固定的な場に自らを置くことなく、空間的諸条件を素早く擦り抜ける「漂流」という実験的技法の開発が問われるのだ。
 しかし、本『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』第3巻を読めば、当初からのシチュアシオニストのこの方針が、結果的に既存の都市計画の内に回収され始めたことがよく分かる。前衛的な建築家たちの行政あるいは資本の手になる「都市計画」への参加は、彼らの生み出した新しい技法を、そのまま新たなスベクタクル提供の場作りへと転用させてしまうことになったからだ。当初のユートピア的な「統一的都市計画」の路線は、現実の資本と市場のスペクタクル化の路線の前に、敗北が告げられようとしたのだ。だからこそ、「統一的都市計画」とは都市計画批判なのだ」というテーゼが再確認される必要が生まれたのだろう。
 その結果、アンテルナシオナル・シチュアシオニストは、改めて、こう語ることになるわけだ。

「SIの統一的都市計画綱領の言う、実験的生活のために整備された『基地』とは、建物であると同時に、今、われわれが入りつつある歴史的同時代において、すでに日程にあがっているとわれわれの信じる新しいタイブの革命組織の常設の施設である。これらの基地が存在したあかつきには、それはまさに体制を転覆するものとなるだろう。それは未来の革命組織が頼るべきもっとも完璧な手段となるだろう」(本書30頁。一部筆者の改訳)。


アウトノミア──シチュアシオニストのイタリアにおける後継者たち
 実際、このような下段としての基地=空問は、その後の運動によって、さまざまな形で構築されてきた。パリでローマで東京で、あちこちの地区(カルチエ)はバリケードによって封鎖され、大学の建物や工場が占拠された。しかし、こうした空間の構築は、シチュアシオニストたちが予想したようには、「常設」のものとはなりえなかった。つねに.一時的で暫定的なものに止まった(その方が、シチュアシオニスト的ともいえるかもしれないが)のである。
 もっとも、対抗的で永続的な空間の設営の試みが、60年代で終焉を告げたたわけではない。むしろ、1970年代80年代は、西欧社会においては、この空間の占拠=占有は、新しい左翼・新しい社会運動のひとつの戦略となったともいえるのからだ。
 典型的なのは、空き家占拠の運動だろう。
 80年代のヨーロッパで暮らしたり旅行した人々なら(特に、カウンターカルチャーや社会運動に関心のある人なら)、どこかで、この空き家占拠の運動と出会ったことがあるだろう。マドリッドでもアムステルダムでもミラノででも、たいてい空き家占拠の運動体があり、占拠された空き家は、さまざまな運動の交流の場になっていた。
 筆者自身、1980年代初頭、当時留学中のイタリアで、大学の壁に貼ってある次のような貼り紙をよく見たものだ。
 「○月○日、午後○時、○○に集合。○○の空き家の占拠をするので、家のない学生は結集せよ」。
 イタリアにおいては、特に、この空き家占拠運動は、住宅不足問題への左翼からの回答として重要な戦術のひとつだったという印象が強い。実際、占拠されてしまうと占拠者の側に占有権ができてしまい、法律上の所有者といえども、なかなか追い出すことができなくなるのである。
 こうした左翼の空間をめぐる政治の発展が、イタリアにおいて最も盛んだったのは、言うまでもなく、1970年代中期から後期にかけてのことだっただろう。日本においても「アウトノミア」の運動を代表して語られることの多い、あの「運動」の時代である。
 アウトノミアと空間占拠について、ひとつ面白い例をあげてみよう。1970年代の初期、ミラノでの出来事である。当時ミラノ大学建築学部を占拠していた学生たちが、住宅難に悩む生活困窮者の家族を大学に招き、そこで住んでもらうという運動を展開したことがある、もちろん、大学側は「関係者以外の立ち入り禁止」ということで、これに強く反発した。ところが、学生の動きを支持する教官たちの援助もあって、この生活困窮者たちは、大学の非常勤講師として扱われることになった。バリケード内部で、彼らを講師に、住宅問題の講演会やシンポシウムが開かれたのである。こうして、しばらくは、講師として生活困窮者家族の生活か大学構内で営まれることになったのである。もっとも、この運動も、そう長くは続かず、数カ月後、機動隊の導入で、解除になるのだが、運動の力もあり、生活困窮者家族は全員、電気・ガス・水道付きのほとんど無料の住宅を提供されるという「人道的」な生活権の保証がされたのである。
 このように、アウトノミアをはじめとする、1970年代のイタリアの「運動」は、資本と市場によるスペクタクルの支配に対して、これに対抗的な自前のスペクタクル空間の構築を常に模索し続けた。それは、空間の占拠にとどまらず、自由ラジオの運動などに見られるように、市場のメディアに抗する自前のメディアの構築という形でも展開されたのである。
 アメリカ・インディアン(ネイティーヴ・アメリカンと呼ぶべきか)の格好で街路を駆け巡り、建物を破壊したり、機動隊と衝突するメトロポリタンのインディアンたちの運動や、あちこちの路上で繰り広げられた街頭演劇・パフォーマンス、思いっきり派手な格好をした学生たちによる自転車デモ…。そこで見られたのは、ガタリの言うように、開放的な運動の分子的な発展であった。
 後に、獄中から見せられたメッセージの中で、アウトノミアのメンバーたちは、この情況を次のように語っている。

 運動の生み出した〈第2の社会〉は、生産力、科学、技術、知識、豊かな共同性、という点で〈第1の社会〉そのもの、あるいは、それに比肩しうるだけの力をもっていた。闘争の新しい課題は、物質的労働過程とコミュニケーション活動との間で、情報化された工場の現実と、発展した第三次産業という現実の問で、増大する自己確認への要求を反映しており、また、それに先行してもいたのである。
 運動は、豊富な、独立した対抗的な生産の源であった。賃労働の批判は、〈自己運営〉、福祉国家のメカニズムにおける下からの運営という形態をとって積極的で創造的な傾向を表現していた。
 77年に全局面を占領したこの〈第2の社会〉は、国家権力に対して“対抗的なるもの”であった。それは、真正面からの対決ではなくて、逃避、つまり、自由な空間と収入の強化増大への具体的な追及であった。
 こうした〈対抗性〉は、運動のもつ貴重な与件であり、それはまた一方で、社会過程がいかに堅固なものであったかをも逆に証明してもいるのである。しかしながら、この対決には時問が必要であったのだ。時間と調停とが。時間と対話とが。
 (「アウトノミアとは何だったのか──アウトノミア自身による統括」M・ダルマヴィーヴァ、A・ネグリ他、麻生令彦訳、『インパクション』25号、インパクト出版会、1983年)


 しかし、周知のように、イタリアにおいては、77年を頂点として、こうした分子的な運動の発展はテロリズムの時代のなかで急速にその勢いを喪失していってしまう。


レオンカヴァッロと社会センター運動──シチュアシオニスト/アウトノミアの現代の継承者たち
 とはいっても、心理地理学に基づく空間を軸とする新たな政治の動きが、全く息を止められてしまったわけではない。九〇年代のイタリアにおけるカウンター・ムーブメントの代表である社会センターCentro Sociale運動、特にその典型例であるミラノのレオンカヴァッロの運動は、明らかに、40年の歴史を越えて、シチユアシオニストの空間の政治学の延長線上にあるといえるだろう。
 実は、このレオンカヴァッロ自体、70年代の「運動」の渦中においてその成立を見た基地=空間=カウンター・スペイスである。今なお全国に30ほど存在するというイタリア社会センター運動の象徴ともいうべきレオンカヴァッロが、歴史に登場するのは、1975年10月のことだった。ミラノの運動グループが、レオンカヴァッロ通りにある元医療器具工場跡地の大きな空き家の占拠を行ったのだ。総面積3600平方メートルというかなりの規模をもつレオンカヴァッロは、この後、ミラノを中心にイタリアのカウンター・ムーブメントにとって、永続的な基地=空間として存続していくことになる。
 アウトノミアのグループやロッタ・コンティヌア、アヴァングアルディア・オペライアなどの左翼党派、アナキストなどの諸グルーフや個々人が参加し、占拠委員会が設置さ牡運営を拒うことになった。皿ハ昧深いのは、当初の教育面での活動だ。地域に居住する字の読めない人々への識字教育や労働者の再教育の場として、レオンカヴァッロは、大きな役割を果たしたのだ。労働協約によって保証された労働者への「150時間」教育(コース受講者は時間休暇が保証され、コースの単位によって中卒、高卒などの資格が与えられる社会教育講座。1コースが150時間なのでこう呼ばれた)の面での活躍などにより、不法占拠の場所であったにもかかわらず、当局も、彼らの活動を正式な労働者の社会教育活動として承認するごとになった(このあたりがイタリア風なのだが)。
 もちろん、ここでは、政治集会、演劇、ロック・コンサートを始め、ありとあらゆる対抗運動の催しものが行われてきた。と同時に、情報の発信と交流の場としてもレオンカヴァッロは、大きな役割を果たしてきた。夜には、どこからともかく多くの若者が集まり、ダベったり、政治論議をしたり、さらには、情報交換をしあった。こうして、イタリア資本主義の牙城たる大都市ミラノの一角に、資本や市場の原理から解放された(「資本から脱領域化」された)対抗空開=カウンター・スペイスが構築され維待されてきたのである。
 当時、こうした社会センターは、ミラノ各地に続々と誕生し、70年代の「運動」の拠点として活動し始めていた。この時期に確認されていたセンターの役割には、先ほどよふれたような労働者・民衆教育活動、演劇や映画上映などの文化活動、若者に広がる麻薬に対する反薬活動、、政治的活動としての反ファシスト活動、書店の経営なども含む図書館活動、スポーツ施設としての活用をはかるスポーツ教室活動、健康と女性問題についての活動などがあげられる。
 当時のレオンカヴァッロのこうした活動は、「資本からの脱領域化の運動でありながら、結局、資本や政行の欠落部分を埋める社会活動として、資本や行政に奉仕している」という皮肉が出るばどに、広範かつ、強力なものだったという。
 しかし、70年代後半から始まるテロリズムの時代=鉛の時代の展開は、レオンカヴァッロを始めとする空間占拠の政治に対しても危機をもたらした。赤い旅団やアウトノミア運動などとの関連で、レオンカヴァッロに対する弾圧が強化されるのである。しかし、対抗空間として巨大な場所を確保してきたレオンカヴァッロにとって、八〇年代中期に新しい要素が加わる。「85年の若者」と称される高校生を中心にした運動の広がりである。テロリズムの時代の終焉に対応して、若い世代の運動が広がり、それが脱領域化された場所としてのレオンカヴァッロと結び付くことになるのだ。この新しいうねりは、各地で警察や当局の弾圧にあうが、それを実力で跳ね返しつつ、「10、100,1000の占拠を」というスローガンに示されるように、空き家占拠による新たな空間占拠の運動として、拡犬していくのである。
 しかし、1980年代後半から90年代にかけて、イタリア経済の中心地であるメトロポリス=ミラノにとって、レオンカヴァッロは明らかに異物であった。警察からマスコミまで、さまざまな弾圧が、この空間に対して徹底的な攻撃を開始したのだ。警察との衝突による逮捕者が、数十人を数えることも珍しくないような弾圧と反撃の攻防戦が開始される。この事態に対してレオンカヴァッロは、デモの防衛や警察部隊との衝突の前面に立つ、臼いコンピュータ組み立て作業着に身を包んだ自衛武装部隊を結成している。
 といっても、テロリズム時代の反省からか、暴力の行使については、かなり抑制的なようだ。数年前、ひさしぶりにイタリアに滞在していたときのことだ。ちょうどこの時期、コリエーレ・デラ・セーラ紙による反レオンカヴァッロ・キャンペーンの騒動が開始されたのだ。「レオンカヴァッロは麻薬の取引場所になっているから取り締まれ」というキャンペーンが、連日のように繰り広げられ、警察の介入が開始されたのである。レオンカヴァッロとしては「麻薬撲滅運動の担い手」としての自負はあるのだが、実際にに、さまざまな人間が出人りする解放空間なので、現実に取引が行われている可能性も否定はできない。それゆえ、「麻薬反対」の立場(もちろん「覚醒剤追放」であり「マリファナ解放」の立場だが)を堅持するとともに、明らかに弾圧の呼び水となるコリエーレ・デラ・セーラを批判するという展開になった。こうして迎えたコリエーレ・デラ・セーラ本社前糾弾集会の日、メディアは、レオンカヴァッロと警官隊の衝突の可能性について大々的目論陣を張った。しかし、意外にも、レオンカヴァッロは、整然とした集会とデモでこれに笞えたのだ。「挑発に乗る事なく、今回の事件を契機に運動の意義をキャンペーンさせてもらった」というのが、この日出されたメッセージの趣旨だった。


おわりに
 シチュアシオニストたちは、統一的都市計画の名の下に、新たな空間の政治学を提案した。その提起は、40年の時を越えて、今なお、イタリアにおいて息づいている。
 しかし、状況は、シチュアシオニストたちの時代のような(彼らの現状認識は、当時の政治勢力のなかではズバ抜けて先を読んでいたのだが)解体と漂流の空間政治学を許さないようにも思う。現状を破壊する解体の実践や、漂流という現状をズラし続ける技法とともに、おそらくは、このズレを共有することで、新たなコミュニケーションの場を形成・維持していくためのもうひとつの技法、すなわち「調整」の能力が、今後の空間の政治学のためには問われなければならないのだろう。レオンカヴァッロの運動には、こうした調整への方向性が感じられる。そしてこの方向性は、テロリズムに象徴される破壊と解体の運動の総括から学ん40年の間に積み重ねられた「運動」の歴史的な知恵が含まれているのだろうとも思う。
 しかし、シチユアシオニストが提起し、その後のヨーロッパの運動のなかに引き継がれてきた空間の政治学は、日本社会においては、いくつかの例外──たとえば各地の学生寮の運動や学館をめぐる運動、京都大学西部講堂やキンジ・ハウスの事例など──はあるにしても、十分な広がりをもって自覚的に運営されてきたとはいえない状況にある。
 日本における空間をめぐる政治は、今後、新たな運動のスタイルとして発展しうる可能性をもっているのだろうか。ここでは、ちょっとためらいながらだが、とりあえず、Si(そのとおり)と答えておきたいと思う。