『映画とともに、映画に反して』訳者解題

 ここに主張されているような、「状況の構築」のための映画の積極的利用、またそのための実験映画への関心は、シチュアシオニストの前身であるコブラとレトリス・トインターナショナルの時代からすでに見られたものである。
 コブラは、1949年6月から7月にかけて、ベルギーで、ドトルモンが中心になって「国際実験映画フェスティヴァル」を開催し、1951年10月の、リエージュでの「第2回実験芸術家インターナショナル展」でも、ジャン・レーヌが組織して「抽象映画フェスティヴァル」を開催している。これらの映画フェスティヴァルでは、ハンス・リヒターやマン・レイなどのダダイストシュルレアリストの映画だけでなく、フィルムに直接イメージを彫り込むカナダの実験映画作家ノーマン・マクラーレンの映画なども出品され、60年代のアンダーグラウンド・シネマをはるかに先取りしていた。また、リエージュのフェスティヴァルのために、コブラは自ら、『ペルセフォン』というタイトルの映画も作っている。これには、後にフランスのヌーヴェル・ヴァーグの後見人となるシネマテーク・フランセーズのアンリ・ラングロワが協力し、ベルギーのコブラのメンバーが総出演している。ゼウスと大地の女神ディメテルの娘ペルセフォネをもじったタイトルのこの映画は、ドトルモンによると電話(テレフォン)を主題としたもので、人(ペルソンヌ)が喋るとその声が違って聞こえるという物語になっていたらしい。ベルギーのコブラのメンバーはみな、ガスマスクをかぶって出演した。
 これらの活動を中心的に行っていたベルギーのドトルモンやレーヌは、シチュアシオニスト・インターナショナルには参加しなかったため、SIの映画理論のもとになっているのはレトリストの映画である。レトリストはドゥボールらのレトリスト・インターナショナルにしても、それ以前のイズーのレトリスムにしても、映画への関心は並々ならぬものがあり、映像と文字・言葉・音を総合的に実験できる映画を実際に数多く作った。カンヌ映画祭で「アヴァンギャルド観客賞」などを獲ったイズーの『涎と永遠についての概論』(1951年)、ジル・ヴォルマンのシネマトクローヌ『アンチコンセプト』(51年)、ドゥボールの反映画『サドのための叫び』(52年)など、レトリストの映画は、何よりも、音をイメージの随伴物にせず、互いに独立したものとして扱い、そのために、フィルム上のイメーシに優先的な価値を与えず、シークエンスの不連続な接続や断絶の多用、既存の映画フィルムの使用、フィルムそのものへの直接の切り込み、といった傾向を持つことにおいて共通していた。これらは実験的というよりもむしろ、「反映画」と形容すべきものである。それは、第7芸術として多くの可能性をはらんでいた映画を、物語映画という固定したスタイルにおとしめ、スペクタクルとして受動的な観客に消費させる商業映画を解体しようとするものであった。またそれは、彼らが高く評価していたロシア革命当初にマヤコフスキーとジガ・ヴェルトフが行ったキノ・プラウダの試みを継承するものでもあった。ドゥボールは、レトリストの映画雑誌『イオン』第1号(1952年4月)の「未来の映画すべてへの前提原理(プロレゴメナ)」の中で自らの映画について次のように書いている。
 「写真の切り貼りと文字の使用(レトリスム)(与えられた要素としての)とは、ここでは、反逆の表現そのものと見なされる。(……)
 ナレーションは、ところどころ削除された文章──そこでは言葉を削除することによって弾劾されているのは反動的勢力だ(『理論的散文の破壊のためのアピール』を参照せよ)──と、より完全な解体の萌芽である1文字ずつ綴られた言葉によって、疑問にさらされる。
 この破壊は、映像とそれに随伴する音の重ね合わせによってなされる。すなわち、文章は視覚的にも音響的にもずたずたにされ、そこで写真映像は言語表現の中に乱入するのである。声と文字による対話は、その文章がスクリーン上に書き込まれるとともに、サウンド・トラックの上でも続き、次いで互いに応え合う。
 結局のところ、私は、2つの無意味(完全に意味のない映像と言葉)の関係、すなわち叫びを乗り越える関係によって、『支離滅裂な映画』の死に至りついたのである。
だがこれはすべて、すでに終わった時代、私にはもう何の関心もない時代に属するものである。(……)未来の芸術は状況を転覆するものとなるだろう。さもなくば無であるだろう。

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