映画とともに、映画に反して

訳者改題

 映画は現代社会の中心芸術である。映画の発展が、いろいろな新しい機械技術のたゆまぬ集積運動のうちに探求されているという意味においても、その通りである。それゆえ、映画は、逸話表現や形式表現としてのみならず、その物質的下部構造においても、いろいろな発明が無秩序に併置されている(有機的に組み合わされているのではなく、単に付け加わっている)時代を最もよく表しているものである。ワイド・スクリーン、ステレオ音響の登場、立体映像の試みの後に、米国は、「サーカラマ*1」という方式をブリュッセルの博覧会に出展した。『ル・モンド』紙 4月17日付が報じているように、その方式によれば、「観客は、スペクタクルの真っただ中にいて、スペクタクルを生きている。というのも、スペクタクルの一部になりきっているのだから。車内にいくつもの撮影カメラを搭載した自動車がサンフランシスコの中国人街に飛び込むと、観客は、車の乗客のとっさの反応と興奮を味わえる」。他方、最新の噴霧スプレーの応用によって、においのする映画も実験されており、有無を言わせぬ迫真の効果が期待される。
 このように、映画は、現在可能な統一的芸術活動の受動的代用物という様相を呈している。映画は、いまだかつてない力を、参加なきスペクタクルという古くさい反動勢力に与える。くだらないスペクタクルの真っただ中に自由もなくいる「というのも、スペクタクルの一部になりきっているのだから」ということを理由に挙げて、観客は我々の知っている〔現実の〕世界に生きている、などと忌憚なく述べられている。しかし、生は、そんなものではないし、観客はいまだに世界に属していない。とはいえ、その世界を構築しようと望む人々は、映画において、状況の反一構築(奴隷の環境の構築、大聖堂の継承)を構成しようとする傾向と闘いつつも、同時に、それ自体において有効な新しい技術的応用(ステレオ音響、におい)の意義も認識しなければならない。
 芸術の現代的徴候の出現が映画において遅れている(例えば、形式に関して破壊的な幾つかの映画作品は、美術や文学においては2,30年前から受け入れられてきたことに相通ずるものなのに、まだシネ・クラブ*2においてさえ拒絶されている)原因はといえば、あからさまに経済的な軛や理想主義の粉飾をこらした軛(道徳的検閲)だけではない。現代社会における映画芸術の実際的重要性もまた、その原因である。映画のこの重要性は、映画が実行しうる優れた感化手段に依拠しており、それゆえ必然的に、支配階級による映画の管理強化を招くことになる。それゆえ、映画における真に実験的な部門を奪取するために闘わなければならない。
 われわれには、映画の利用法として、次の2つが考えられる。まず、プレ・シチュアシオニスト的過渡期における一種のプロパガンダとしての利用。次に、実現された状況を構成する要素としての直接的な利用。
 このように、万人の生における映画の今日的重要性の点で、また、映画に革新の道を閉ざしている諸限界の点で、しかしまた、映画が秘める革新の自由が持っているに違いない広大な影響力の点で、映画は、建築に比することができる。環境の心理学的機能に基づいて粗織された建築を見つけ出すことで、絶対酌機能主義の掃き溜めの中に隠された真珠を取り出せるのと同じように、商業映画の進歩的な側面を利用しなければならない。

*1:サーカラマ 原語 Circarama。不詳だが、全周(360度)映画のことか。

*2:シネ・クラプ 古典・前衛作品中心の映画上映会。通例、討論会や講演を伴う。