新しい操作技術の管理のための闘い

 「今後は、人間の反応を、前もって決めておいた方向に確実に引き起こすことができるようになる」と、両世界大戦間に革命派とファシストが共に集団に対して使用した感化方法に関して、セルジュ・チャコティーヌ*1は書いた(『政治プロパガンダによる群衆の凌辱』ガリマール社)。以来、科学の進歩はたゆむことがない。行動のメカニズムについての実験的研究は進展している。既存の装置の新しい利用法が見つかり、また、新しい装置が発明されている。かなり前から、見えない広告(映画の筋の展開の中に、それとは別個の24分の1秒の映像を何度も挿入する。その映像は網膜には感知されるが、識閾下にとどまる)とか、聞こえない広告(超低周波音による)とかの試みが行なわれている。1957年にカナダ国防省の諜報局は、退屈についての次のような実験的研究を実施した。被験者を、何も起こりえないように調整された環境(壁には何の飾りもなく、照明は遮断されることがなく、家具は心地よいソファだけ、臭いも音も温度変化も全くない小部屋)の中に隔離したのである。研究者たちは、被験者の行動の広範な障害を確認した。脳は、感覚刺激がないと、正常な働きに必要な標準的興奮状態に保たれることができないのである。それゆえ、研究者たちは、退屈な環境が人間の行動に及ぼす有害な影響を結論として引き出し、またそれによって、オートメーションの普及とともに必然的に増えていく単調労働の際に突発する不慮の事故を説明することができた。
 ラヨシュ・ルフなる人物の証言によれば事態はもっと先に進んでいる。それはフランスのマスコミに取り上げられ、書籍としては1958年初めに書店に出た。彼の物語は、多くの点で疑わしいけれども、いかなる空想科学的な細部の描写も含んでいない。それは、1956年にハンガリーの政治警察が彼に施したとされる「洗脳」について記述している。ルフは、部屋の中に閉じこめられて6週間を過ごしたと述べている。そこでは、いずれもよく知られている諸手段の統一的な使用によって、彼が自分の外界知覚および自分の人格を信じられなくなるようにすることがめざされた──そして結局それに成功した。それらの手段とは次のようなものである。まず、その密室の徹底的に異様なインテリア(透明な家具、曲がったベッド)。照明は、毎夜外から入る光線によってなされ、そして、その光線が身体に及ぼす影響に気をつけろという警告がわざと彼に与えられているのだが、彼はその光線を避けることができない。また、日常会話の際に、医師により精神分析の諸技法が利用される。あるいはまた、様々な麻薬。そして、それらの麻薬のおかげで成功した初歩的なまやかし(彼はその部屋から何週間も出ていないと信じるだけの全く正当な理由があるにもかかわらず、あるとき目覚めてみると、服は濡れていて靴は泥まみれであったりする)。さらに、支離滅裂またはエロチックな映画が上映され、それはその室内で時おり起きる別のシーンとごっちゃになる。あげくに、訪問者が彼に、まるで彼が冒険物語──ハンガリーにおけるレジスタンス運動のエピソード──の主人公であるかのように話しかけ、別の一連の映画がその冒険物語を彼に見せる(細かな経緯がそれらの映画の中と現実の会話の中で再現され、彼はついにはその行動に加わる満悦感を感じることになる)。
 われわれはそこに、かなり複雑な段階に達した環境構築の弾圧的な使用を見て取らなければならない。非実利的な科学研究の発見は全て、これまで、自由な芸術家からは無視され、すぐさま警察によって利用されてきた。見えない広告は米国でいくらかの不安をかき立てたが、初めに放映された2つの宣伝コピーは誰にとっても危険がないだろうと告げられて、皆が安心した。それらのコピーは次の2つの方向へ影響づけるだろう。「もっとゆっくり運転しなさい」──「教会に行きなさい」。不可侵にして不変の人格という、人間主義的、芸術的、法的な観念全体が、いまや破綻している。その観念が躊躇せずに去っていくのを、われわれは目の当たりにしている。しかし、われわれは、これから、新しい操作技術の使用法の実験と開発をめざした、自由な芸術家と警察の問のスプリント競走に立ち会い、参加することになる、ということを理解する必要がある。その競走において警察はすでにかなり先行している。しかしながら、わくわくするような解放環境が出現するか、それとも、旧来の圧制と恐怖の世界という環境が強化される──科学的に管理され、突破口もなくなる──かは、その競走の結果次第である。われわれはいま自由な芸術家と言ったけれども、20世紀に蓄積された諸手段を奪取するまでは、芸術の自由はありえない。それらの手段は、われわれにとって芸術生産の真の手段であり、それらの手段を持たない人々は、この時代の芸術家たりえないのである。もしそれら新しい手段の管理が全面酌に革命的でないならば、われわれは、文明化された蜜蜂社会の理想の方へと導かれていきかねない。自然の支配は、革命的であるか、それとも過去の勢力の絶対的な武器になるか、いずれかであろう。シチュアシオニストは、忘却の必要性に奉仕する立場に立つだろう。シチュアシオニストにとって何かを期待できる唯一の勢力とは、理論的に言って過去を持たず常に全てを再発明せざるをえないプロレタリアート、つまり、かつてマルクスプロレタリアートは「革命的であるか、それとも何ものでもないかである」と述べたが、まさにそのプロレタリアートである。そのようなプロレタリアートは現代にあるのか否か。その問題は、われわれの論題、すなわち、プロレタリアートは芸術を実現しなければならない、という論題にとって重大である。

*1:セルジュ・チャコティーヌ 不詳。『政治プロパガンダによる群衆の凌辱』は1952年刊。