状況の構築とシチュアシオニスト・インターナショナル潮流の組織・行動条件に関する報告5

訳者改題

シチュアシオニスト・インターナショナルに向けて


 われわれの中心理念は、状況の構築という理念である。すなわち、生の瞬間的環境を具体的に構築すること、そして、それらをより高次の情動的質を備えたものに変形することである。そのためには、生の物理的な舞台装置(デコール)と、この舞台装置によって引き起こされるとともにそれを激しく揺さ振りもする行為という、常に相互に関連し合った2つの大きな構成要素から成る複雑な要因に対して、秩序立ったやり方で介入する方法を確立せねばならない。
 生の舞台装置に対するわれわれの行動の展望は、その最終的発展段階では、統一的都市計画という概念に行き着く。統一的都市計画とは、まず第1に、環境の完全な構築に与する手段としての芸術と技術の全体の活用と定義される。この芸術と技術の全体というものは、伝統的芸術に対して旧来の建築が持つ支配力とか、生態学に見られるような専門的な技術や科学的探求を、無秩序な都市計画に偶然に適用することに比して、無限に広く捉えなければならない。統一的都市計画は、例えば、種々様々な飲み物や食べ物の配達も、音の環境も、同じようにうまく掌握せねばならないだろう。それは建築と都市計画の新しい形態の創造と既知の形態の転用──さらにまた、古い詩や古い映画の転用も──の両方を包含するものでなくてはならない。これまでしばしば語られてきた総合芸術なるものは、都市計画のレヴェルでしか実現できなかった。だが、それはもはや、美学についてのいかなる伝統的定義にも対応しなくなるだろう。統一的都市計画は、その実験的都市のそれぞれにおいて、いくつかの数の力場を通して展開される。われわれは仮にそれを区域(カルチエ)という古典的な言葉で呼ぶことができる。それぞれの区域はその内部で正確な調和を奏で、隣接する諸区域の調和と断絶することもできるだろうし、また、内的調和が可能な限り破壊される方向に働きかけることもできるだろう。
 第2に、統一的静市計画はダイナミックなもの、すなわち、人々の行動スタイルとの緊密な関係のなかに置かれたものでなくてはならない。統一的都市計画の最小の構成単位は家ではなく、建築物の複合体である。この建築複合体は、ある1つの環境もしくは一連の不調和な環境を、構築された状況のレヴェルに合わせて条件づけるあらゆる要因の集合である。空間的発展は、実験都市によって決定されることになる情動的現実を考慮せねばならない。われわれの同志のある者は、心理状態が地区に対応する理論を提唱した。それによると、都市の各々の地区は1つの単純な感情を引き起こすようになり、主体は事情をわきまえたうえでそれにさらされることになるということである。この計画により、偶発的な初期感情を軽視する動きから様々な当を得た結論を導き出すことができ、この計画の実現によってこの動きを加速させることができるように思われる。新しい建築、自由な建築を求める同志たちは、この新しい建築というものが、まず何より、自由な、詩的な線と形態──今日、「叙情的抽象(アブストラクシオン・リリック)」絵画の唱える意味においての──に働きかけるのではなく、むしろ部屋や廊下、街路などの雰囲気、建築のなかに含まれた人々の身振りと結び付いた雰囲気が持つ効果に働きかけるものであることを理解せねばならない。建築は、感動的な形態よりもむしろ感動的な状況を素材として持つことによって進むべきである。そして、このような素材から出発した実験は、未知の形態へと導かれるだろう。心理地理学的な探求、すなわち「意識的に整備された環境かそうでないかにかかわらず、地理的環境が諸個人の情動的な行動様式に対して直接働きかけてくる、その厳密な法則と正確な効果を研究する」探求は、それゆえ、今日の都市集合体を積極的に観察することと、シチュアシオニスト的な都市の構造についての仮説を確立することという二重の意味を持つ。心理地理学の進歩は、その観察方法を統計学的に拡大することにかなり大きく依存しているが、主要には、都市計画への具体的介入という手段による実験によるところが大きい。この段階までは、心理地理学の初期データについての客観的真理を確信することはできない。だが、たとえそのデータが誤ったものであったとしても、それは真の問題に対する誤った解答というにすぎないだろう。
 行動様式に対するわれわれの行動は、風俗習慣における革命の他の望ましい諸側面と結びついたものであるが、簡潔に言って、それは新しい本質を持った遊びの介入と定義されるだろう。その最も一般的な目的は、生の非凡な部分を拡大し、生の無価値な瞬間を可能な限り減少させることにある。したがって、それは、現在研究されている生物学的手法よりもはるかに真面目な、人問の生の量的増大の企てとして語ることもできよう。まさにその点において、その企ては、どれだけ発展するか予見できない質的増大をも含むのである。シチュアシオニスト的な遊びは、遊戯の競争的性格と日常生活からの分離を根底的に否定するというまさにその点において、遊びの古典的把握と区別される。それとは逆に、シチュアシオニスト的遊びは、自由と遊びが支配する未来世界を保証するものを支持する道徳的選択としてしか現れてこない。このことは明らかに、われわれの時代が到達した生産力の水準において、余暇が持続的かつ急速に増大するという確信と結びついている。また同時に、それは、余暇をめぐる闘争──その階級闘争における重要性はこれまで十分に分析されてきたとは言えない──がわれわれの眼前で展開されているという事実の認識とも深く結びついている。今日、支配階級は、革命的プロレタリアートが彼らから奪い取った余暇を、支配階級自身のために使うことに成功し、巨大な余暇産業部門を発展させている。この余暇産業なるものは、大衆をたぷらかすブルジョワジーイデオロギーと趣味の副産物によるプロレタリアートの愚鈍化の比類なき道具と化している。おそらく、アメリカの労働者階級が政治化されない理由の1つは、テレビによる大衆の低次元化が大規模になされていることに求めねばならないだろう。プロレタリアートは、集団的圧力によって、自らの労働の価格をその労働の生産に必要な最低限価格よりもほんの少しだけ高くすることができるようになったために、その闘争能力を拡大しただけでなく、闘争の領域まで拡大したのである。その時、経済と政治に直接関わる争いに平行して、この闘争の様々な新しい形態が生まれた。革命的プロパガンダは、現在までのところ、先進的産業の発展がそうした闘争形態を必然的に産み出してきたすべての国で、闘争の形態としては常に抑えられてきたと言える。下部構造の必要な変化が上部構造レヴェルでの過失や弱点によって遅らせられることがあるということ、それこそは、20世紀のいくつかの経験が不幸にも示してきたことである。余暇の戦場に新たな勢力を投入しなければならない。われわれはそこでわれわれ自身の場を占めることだろう。
 新しい行動様式の初歩的試みが、われわれが漂流と名付けたものによって既に成し遂げられている。漂流とは、環境の素早い変化による情動の逸脱(デペイズマン)の実践であると同時に、心理地理学とシチュアシオニスト的心理学の研究方法でもある。だが、遊戯的創造に対するこうした意志の適用は、人間関係の既知の形態すべてに拡大し、そして、例えば、友情や愛情のような感情の歴史的進化に影響を与えるものとせねばならない。どう考えようと、われわれの探求の本質が賭られているのは、まさに状況の構築という仮説になのである。
 1人の人間の生は偶発的な状況の連続である。そして、それらの状況のどれ1つとして他のものと厳密に同じではないとしても、少なくともそれらの状況は、多くの場合、あまりに互いに区別がつかず輝きのないものなので、完全に同じものであるという印象を与える。こうした事情の当然の帰結として、1人の生における魅力ある既知の状況がその人の生を完全に固定し制限することになる。われわれは状況の構築、すなわち、集団的環境の構築、ある瞬間の質を決定する印象の全体の構築を試みねばならない。ある定められた時間に諸個人からなるグループの統合という単純な例を挙げるなら、われわれが持っている知識と物質的手段とを考慮しつつ、どのような場の組織化、どのような参加者の選択、どのような事件の挑発が望ましい環境に適したものかを研究すべきだろう。確かに、1つの状況の力は、統一的都市計画の実現やシチュアシオニスト世代の教育によって、時間的にも空間的にもかなり拡大されるだろう。だが、状況の構築は、スペクタクル概念の現代的破綻のかなたに開始される。非一介入というスペクタクルの原理そのものが、古い世界の疎外といかに深く結び付いているかは容易に見てとれる。それとは逆に、文化における革命的探求のなかで最も価値あるものが、スペクタクルの観客のヒーローへの心理的同一化を破壊し、自分の生を一変させる能力を引き出すことによって、その観客を積極的な行動に引きずり込むようにどれほど努めてきたかもよく知られている。状況とは、したがって、それを構築する者たちによって生きられるために作られるものである。そこでは、受動的とは言わないまでも少なくとも単に端役的なだけの「公衆」の役割は、常に減少することになる一方で、もはや役者ではなく、言葉の新しい意味において「生きる者」と呼ばれる者の関与するところが増大する。
 言わば詩的な客体と主体とを拡大せねばならない。これらのものは現在は、不幸にもあまりにわずかなため、ほんの少しでも見つかればその感情的重要性が誇張される。こうした詩的客体のなかで詩的主体の遊びを組織せねばならない。それこそが、本質的に過渡的な、われわれのプログラムのすべてである。われわれの状況は未来なき場、移行の場となるだろう。芸術であろうと他の何であろうとその不変的性格なるものは、われわれの真剣な考察の対象ではない。永遠の観念は、人間が自らの行為について持ち得る観念のなかでも最もおぞましいものなのである。
 シチュアシオニスト的技術は、まだこれから発明されねばならない。だが、われわれは、どのような任務であれ、それが出現するのは、その実現に必要な物質的条件がすでに存在するか、少なくとも形成途上にあるところだけである、ということを知っている。われわれは小規模な実験段階から始めねばならない。おそらく、そのためのシナリオとして、状況のプラン──当面はその不十分性は避けられないが──を準備せねばならない。したがって、記号表現のシステムを普及させねばならないだろう。その正確さは、われわれが構築の実験を重ね、いっそうよくそれを理解するにつれて増してゆく。シチュアシオニスト的感動を、行為の極端な集中あるいは極端な拡散(前者のケースの近似的イメージを与えるものは古典悲劇であり、後者のそれは漂流である)に応じて決定する法則のような様々な法則を発見し、検証せねばならないだろう。状況の構築は、明確な目的に用いられる直接的手段に加え、その肯定的段階において再生産技術の新しい適用をコントロールすることになるだろう。例えば、ある状況のいくつかの側面を別の状況のなかに直接映し出すことによって変化と干渉を引き起こすテレビを構想することもできる。だが、より単純なやり方としては、ニュース映画と呼ばれる映画が、ニュース〔=新しいもの〕という名に値しはじめることもできるだろう。そのような映画は、状況を構成する要素がまだ異なる状況を引き起こすようになる以前に、その最も意義深い瞬間をシチュアシオニストの記録文書のために定着することに専心する新しいドキュメンタリーの流派を形成するのである。状況の体系的構築によって以前には存在していなかった感情が産み出されるはずである。そうである以上、映画はその新しい情動の普及において最大限の教育的役目を見出すだろう。
 シチュアシオニストの理論は、生の非連続性という考えを断固として支持する。統一性という概念は、全人生──そこにおいては、生は不死の魂への信仰と、結局のところ、労働の分割〔=分業〕に基づいた反動的欺購である──というパースペクティヴから、生のばらばらな諸瞬間というパースペクティヴ、シチュアシオニスト的手段の統一的利用によって各々の瞬間を構築するというパースペクティヴヘと置き換えられねばならない。階級なき社会では、もはや画家は存在しないだろう。存在するのは、何よりも絵画を作るシチュアシオニストだけである。
 欲望とそれに敵対する現実との絶えざる衝突の後で、生の主要な感情的ドラマはまさに時間の流れの感覚だけであるように思える。シチュアシオニスト的態度とは、感動の固定化をめざしてきた美学的手法とは逆に、時が過ぎ行くことに賭けることにある。感動と時間とが過ぎ去ることに対するシチュアシオニストの挑戦は、遊びと感動的な時期を増大させることにおいて常により遠くまで行くことによって、変化に対して常に勝ちをおさめる賭けだろう。今この瞬間のわれわれにとって、そのような賭をすることは明らかに容易なことではない。しかしながら、1000度それに敗けることになろうとも、われわれには他の前進方法を選ぶことはできない。
  少数派シチュアシオニストは、まずレトリスト左派のなかで、次にこの左派が最終的に支配したレトリスト・インターナショナルのなかで、潮流として構成されてきた。これと同じ客観的運動によって、最近の多くの前衛的グループが同じ次元の結論に達した。われわれは全員で、近い過去の遺物をすべて除去せねばならない。今日われわれは、文化における革命的前衛の統一された行動のための同意は、そうしたプログラムの上になされるべきだと考えている。われわれには決まったやり方も、決定的な成果もない。われわれはただ、われわれが現在決定しているいくつかの方向と、まだこれから決定せねばならない他の方向において、集団的に実行すべき実験的探求を提起しているだけである。シチュアシオニストの最初の成果に到達する困難そのものが、われわれが入っていこうとしている領域の新しさを証明している。われわれの街路の見方を変えるものは、われわれの絵画の見方を変えるものよりも重要である。われわれの作業仮説は、どこから訪れるか分からぬ未来の激動の度ごとに再検討されるであろう。
 趣味の問題について一種の無能力に甘んじている革命的知識人・芸術家の側から主として、この「シチュアシオニスム」というものはまったく不快であるという言葉が聞こえてくる。彼らは、われわれは美しいものは何も作らなかったとか、ジッドについて話したほうがましだとか、われわれに興味を持つ理由は誰にもはっきり解らないとか言っているようだ。これまで既に十分すぎるほどのスキャンダルを引き起こしてきた数々の態度──それはただ目立ちたいがためのものにすぎない──をただ繰り返しているだけだと言ってわれわれを非難し、言葉を濁している。距離を保ちあるいは再び取るために、いくつかの折りにわれわれが採用せねばならないと思った手法に対して、彼らは憤慨しているようでもある。われわれの答えはこうだ。これが君たちの興味を引くかどうかはどうでもいい。文化の創造の新しい諸条件のなかで君たち自身が興味を引く存在になることができるかどうかが問題なのだ。
 革命的知識人と芸術家よ、君たちの役目は、われわれが自由の敵と歩みを同じくするのを拒む時に、自由が侮辱されたと喚きたてることではない。君たちは、既成のものは自分たちを困惑させないという理由ですべてを既成のものに連れ戻そうとしてきたブルジョワ耽美主義者を模倣すべきではない。いかなる創造も決して純粋ではないことを君たちは知っている。君たちの役目は、国際的な前衛が作るものを探しだし、そのプログラムを構成する批判に参加して、それを支持することを呼びかけることなのだ。

>つづく