状況の構築とシチュアシオニスト・インターナショナル潮流の組織・行動条件に関する報告4

訳者改題

暫定的反対の基本方針


 文化における革命的行動は、生を翻訳したり説明したりすることを目的とするのではなく、それを拡大することを目的とせねばならないだろう。いたるところで不幸を退散させねばならない。革命とは、重工業がどのような生産水準にあるか、だれがその主人かというようなことを問うことにあるのではない。人間の搾取とともに、それによって産み出された情動や代償行為、習慣も死に絶えねばならない。今日の可能性と関連して、新しい欲望を定義せねばならない。現在の社会とその社会を破壊しようとしている勢力との闘いのさなかに、より高度な環境の構築と新しい行動様式の条件となる最初の要素をすでに見出ださねばならないのである。それも実験的なやり方で、プロパガンダとして行なうのである。残りのものはすべて過去に属するものであり、過去に仕えるものである。
 今や、日常生活を一変させるあらゆる手段を統一的に使用することをめざした、組織された集団的作業を企てなければならない。すなわち、われわれはまず、それらの手段が、より大きな自然支配、より大きな自由という展望のなかで、相互に依存し合っていることを認めなければならない。われわれは、新たな行動様式の成果であると同時にその道具でもあるような新しい環境を構築せねばならない。そのために、最初は、現在存在している日常的手段と文化形態を試行錯誤的に利用しつつも、それらの本来の価値に異議を唱えなければならない。新しさの基準自体が、形式に関する発明の基準自体が、個々の芸術、すなわち不十分な断片的手段の伝統的枠組みのなかで、その意味を失ってしまった。そうした芸術は、部分的な更新すらあらかじめ無効となってしまっており、更新そのものが不可能なのである。
 われわれは現代文化を拒否するのではなく、それを否定するためにそれを奪い取らねばならない。われわれが直面している文化革命を認めない革命的知識人などというものはありえない。創造的知識人は、どれほど独自の方法でであろうと、1つの党の政策をただ単に支持することで革命的にはなりえず、すべての党の横で、文化的上部構造すべての必要な変革を実行することによって革命的となるのである。同様に、ブルジョワ知識人の質を最終的に決定するものは、彼らの社会的出自でも、1つの文化に対する認識──それは確かに批評と創造の共通の出発点だが──でもなく、歴史的にブルジョワ的な諸形態の文化の生産において彼らが果たす役割である。政治について革命的な意見を持つ作家は、ブルジョワ的な文芸批評に称賛されたなら、どんな誤りを自分が犯したか探してみるべきだろう。
 文化における革命的戦線のために数多くの実験的潮流の統一が、1956年、イタリアのアルバでの会議によって開始された。その前提となっているものは、われわれが3つの重要な要因を無視しなかったということである。
 まず第1に、この統一行動に参加する個人と集団の完全な同意が必要であり、それらの者がそのことによって生じるいくつかの結果を見ようとしないことを許してこの同意をやりやすくしてはならないということである。いいかげんな考えの者や、この方法によって無意識に成功することを欲している出世主義者は、そこから遠ざけておかねばならない。
 第2に、実際に実験的な態度はすべて有用であるとしても、この実験的という語の濫用はたいていの場合、現在の構造のなかでの芸術的行動、すなわちあらかじめ他人によって発見された芸術的行動を正当化しがちだ、ということを忘れてはならない。唯一の有効な実験的手段は、現存の諸条件に対する正確な批判と、その条件を意図的に乗り越えることに基づいている。他人によって作られた方法的枠組みのなかでの個人的な表現にすぎないものを、創造と呼ぶことはできない。そのことをはっきりと断言せねばならない。創造とは事物や形式のアレンジではない。それは、そのアレンジについての新しい法則を発明することなのである。
 最後に、われわれのなかからセクト主義清算せねばならない。それは限られた目的のために、同盟の可能性のある者との行動の統一に反するからだ。レトリスト・インターナショナルは、いくつかの必要な組織浄化の後、1952年から1955年まで、常に一種の絶対的厳格さへと向かってきた。それは、同じように絶対的な孤立と無能へと道を開き、最終的にはある種の現状維持と、批評と発見の精神の退化を助長した。現実的行動のためにハこうしたセクト主義的行動を決定的に乗り越えなけれぱならない。われわれが同志を糾合するか離反させるかは、ただこの基準に則してのみ行なわねばならない。当然のことながら、このことは、みんながわれわれに勧めるように、断絶を放棄せねばならないということを意味するのではない。われわれは逆に、習慣や個人との断絶を今以上に推し進めねばならないと考える。
 われわれはわれわれのプログラムを集団的に定義し、芸術的なものであろうとなかろうと、あらゆる手段を使って、規律あるやり方でそれを実現しなければならないのである。

>つづく