『存在の前衛(アヴァンギャルド)』 訳者解題

 『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌第2号の論説「不在とその飾り立て役」、第6号の論説「ふたたび、解体について」に続き、この論説もまた、前衛芸術と呼ばれる文化領域を支配する「解体」派をいっそう手厳しく批判するものである。現代社会の気分としての「不在」を最も「前衛」的に表現する者としてリュシアン・ゴルドマンが讃えるヌーヴォー・ロマンの作家たち、読者や観客の参加によって成り立つマルク・サポルタのトランプ小説やシュトックハウゼンらの実験音楽、あるいは「視覚芸術探究グループ」の実験的なスペクタクル作品、都市の環境を改善する「空想的な建築」の例として『今日の建築』誌が掲げる統一的都市計画の紛い物、行為としての芸術として観客を巻き込んで行われる「ハプニング」芸術……60年代の新しい前衛芸術としてマスコミを賑わすこれらの試みを、シチュアシオニストは2つの点から批判する。まず、これらの「前衛」の作品は、少しも新しいものではなく、すでに過去にダダイストシュルレアリストが「芸術の真の自己破壊をめざして」試みた探求の模倣である。それらは、ダダイストらが戦前に行っていたさまざまな芸術形式の破壊の実験から、コンテクストを無視してその技術のみを切り放して移植したものにすぎず、過去の実践に合まれていた社会と歴史に対する批判を巧妙に消し去ったものにほかならない。「小説社会学」を提唱し、「価値」の「不在」という言説スタイルを採用したヌーヴォー・ロマンの「大作家」たちのなかに、現代消費社会における「人間」に対する「モノ」の優位という情況への告発を見出すゴルドマンは、そうした作家たちの作品が、実際には、あらゆる芸術形式の「拒否」というかたちで「現代社会の物象化」を誰よりも鋭く告発していたダダイストたちの試みの焼き直しであるどころか、そうした試みを「文学」に回収するものですらあることには気がつかないのである。シチュアシオニストが「解体」派の芸術を批判する第2の点は、より切実なものである。すなわち、シチュアシオニストが次第に世間の注目を集めつつあるこの時期に、シチュアシオニストのものと見紛うばかりの「作品」が現れはしめたことである。「受動的な観客という伝統的な状況を転覆する」、「スペクタクルという観念を回避」するなどというシチュアシオニスト的用語法を用いて自分たちの総合的視覚芸術への観客の「実際の参加」を語る「視覚芸術探究グループ」のル・パルクなどは、明らかにシチュアシオニストの発想を巧みに盗み取っている。しかし、こうした「視覚芸術探究グループ」のスペクタクル作品や、『今日の建築』誌で紹介された統一的都市計画の紛い物、あるいはハプニング芸術などの作品は、いかにその外見がシチュアシオニストの試みと似ていようとも、「自由で実験的な行動様式」が支配する社会の実現のための「生の瞬間」としての「状況の構築」というシチュアシオニストの本質的な目的と照らし合わせるならば、むしろそれと正反対のものである。ル・パルクの「作品」において「観客」は「操作」の対象である以上、その「作品」は「スペクタクルの社会」に人々を統合する役割しか持ちえない。元シチュアシオニスト(おそらくコンスタント)の統一的都市計画も『今日の建築』誌という建築の専門雑誌に紹介されることによって、他の多くの「空想の建築」とともに体制派のメガロマニアックな建築の夢の1つとされてしまうだろう。そして、何も起きない日常生活のなかでの単に「何かが起きる」場としての「ハプニング」は、逆に、観客の日常生活の「貧困」を際立たせるだけであり、そうした日常生活を生み出している社会の変革にはまったく結びつかない。
 偽装された自らの姿に立ち会うという、悪夢とも言えるこうした情況のなかで、シチュアシオニストは、しかし、自己の教義のなかに閉じこもり自らを秘教化することはない。逆に、彼らは、「生に対する還元不可能な不満と欲望を基盤とした「異議申し立ての力」の大衆的な解放に賭けるという選択を行う。現代社会における「不在」ではなく「否定」を復権し、生の「存在」を追求する「前衛」としての彼らのこの選択こそが、60年代の体制側のユートピアも諦念の「解体」派の芸術も転覆する大衆的な異議申立ての反乱を生み出すことになるのである。