存在の前衛

訳者改題

 つい最近、文化の前衛(アヴァンギャルド)の専門批評家になったリュシアン・ゴルドマン*1が、『メディアシオン』誌 第4号で「不在の前衛(アヴァンギャルド)」について語っている。この「不在の前衛」とは、現代社会の物象化に対するある種の拒否を芸術や文章で表現するものだが、彼の意見によれば、ただそれだけを表現するものである。今世紀における前衛(アヴァンギャルド)文化のこのような否定の役割を、彼は、それが起きてから約45年後になってようやく認めるのだが、奇妙なことに彼がそれを行っているのは彼の同時代人や仲間に対してなのである。それゆえ、よみがえったダダイストの仮面の下に見出されるのは、ばかならぬ、イヨネスコ*2ベケット*3、サロート*4、アダモフ*5、デュラス*6である。もちろん、『マリエンバート』のロブ=グリエ*7も含まれている。そして、この楽しい小劇団は、みんな揃って、芸術形式の処刑という悲劇を茶番として再演する。サロートだなんて、いったい誰がそんなこと信じられるだろうか? アダモフだなんて、誰が信じられようか? ゴルドマンは、気のいい観客として、自分が目にするものを重々しい口調で解説する。「前衛の大作家の大部分は、実現された価値ないし実現可能な価値ではなく、とりわけ、その名のもとに社会を批判できるような、容認できる価値が不在であること、そのような価値を言い表したり、見つけたりすることが不可能であることを表現している。」これこそが、まさに間違いのもとだ。こんなことは、ゴルドマンの滑稽な作り話の役者を見捨てて、ドイツのダダイスムや、両大戦間のシュルレアリスムの歴史的事実を調べればすぐにわかることだ。ゴルドマンは、こうしたことを文字どおり知らないようだが、奇妙なことである。17世紀は複雑で、コタンの全集を通読するだけでも時間がかかるという理由から、パスカルラシーヌも読んでいないという公言するような人が、彼の著書『隠れた神』*8の歴史的解釈に真っ向から異を帽えたとしたら、彼はその主張に根拠を認めるだろうか? 少なくとも、オリジナルについておおよその知識をもっていながら、どうして、偽装されたものにこのような新鮮さを見出すことができるのか、まったく理解に苦しむ。使われている語彙自体が、テーマに不適当である。前衛の「大作家」というが、このような観念自体、前衛がずっと昔に決定的に滑稽なものとして捨て去った観念である。それより先でゴルドマンは、すでに息の根を止められた演劇的伝統の断片や切れ端を使ってプランション*9が感じよくまとめた趣味のよい娯楽作品を引き合いに出し、そこに、なおいくばくかの前衛趣味は嗅ぎつけるのに、「歴史的生成とヒューマニスム的価値の存在を中心に据えた、同等に重要な文学作品」を認めることはできないと言う。しかしながら、ゴルドマン的前衛にまったく価値のない作品が大量に含まれていることが打ち消しがたいことを考えれば、プランションが有利な立場に立つことも事実である。それなのに、結局、ゴルドマンは文学作品を話題にするのである。文学の拒否、エクリチュールの破壊自体が、ヨーロッパにおける前衛の探求の20年ないしは30年間の最初の傾向であったことを知らないなどということがありえようか? 彼の話に出てくる華々しい(スペクターキュレール)道化師たちは、このことをオペラグラスの逆の側からしか見なかったのであり、年金生活者のいじましさで、それを利用しているのである。芸術の真の自己破壊をめざしたあの前衛は、まったく別の生の不在とその存在の可能性を不可分の形で表現していた。だからと言って、アダモフの後を追って、あの不在──それがあまりにもよく似合うので、彼は今やそれを独占しようとしている──のなかに陥りたくないと少しでも思うなら、ヒューマニスムの欺瞞のなかに陥らなければならないのだろうか?
 ゴルドマンよりも真面目になろうではないか。彼は、この記事のなかで、現在の社会、つまり、周知のように、残念ながら日々強化され、発展している現代資本圭義のなかに、その乗り越えを引き起こすに足るだけの十分にカ強い要素であるとする新しい社会勢力、あるいは少なくともその乗り越えをめざしている社会勢力」が存在しているのかと自問している。実際、この問いは非常に重要である。われわれは、その答えがイエスであるという証明を試みよう。現実の芸術的前衛運動や政治的前衛運勤のまさに虚像を暴露する研究は、いずれにせよ、評価できる要素をもたらすことができる。そうした要素は、イヨネスコの作品のなかにも、ガロディ*10の作品のなかにも、あまり見られないものである。スペクタクルの社会の社会的外観〔le visible〕は、かつてないほど社会的現実から乖離してしまった。この社会における前衛芸術や、その問題提起的な思考すら、今や、この外観をライトアップすることで粉飾されてしまっている。ゴルドマンをかくも驚嘆させるこの現在の音と光のショー*11の外部に身を置いているものは、今のシチュアシオニストのように、まさに存在の前衛に位置している。ゴルドマンが不在の前衛と呼ぶものは、まさに前衛の不在にほかならない。こうした騒ぎや自惚れは、現実の問題提起と現代の歴史において、何もあとに残さないであろうと、われわれははっきりと断言しよう。この点についても他の点についても、われわれが間違っているかどうかは100年後にはっきりするだろう
 そもそも、ゴルドマン主義的な前衛とその不在主義は、すでに時代遅れである(ロブ=グリエは別だ。彼は、前衛主義的スペクタクルのルーレットのすべての数字の上に賭けている)。最新の傾向は、自らを統合すること、いくつかの芸術を互いに統合すること、いかなる犠牲を払っても観客(スペクタトゥール)を統合することである。まず、今や、どのジャーナリズムでも必ず言及される『マリエンバート』以来、「各人がさまざまに異なる感じ方をするように作られているので、観客の個人的な参加によってしか」(1962年11月28日付け『ル・モンド』紙のジャック・シクリエ*12による、テレビ放映されたつまらぬバレエについての記事)存在しえないような作品は枚挙にいとまがない。マルク・サポルタ*13は、トランプ小説を発表したが、これは読み始める前に札を切らなければならない。そうやって参加するのだ。次に、統合する作品がある。たとえば、陶磁器に実験音楽を統合し、観客が聞けるようにする(スタルゼウスキー*14のパリでの展覧会)。あるいは、演奏家の意のままに楽譜〔の順序〕を「変更できる」ようになったシュトックハウゼン*15の音楽を、キルヒゲッセルというドイツ人の抽象映画に統合する(ダルムシユタット〔ドイツ中部サクセン州内部の都市〕現代音楽院で)。さらに、視聴覚環境のなかでの、ニコラ・シェフェール*16とフィリップス社*17の統合(『壁‐創造』)もある。最後に、ヨーロッパのいたるところのビエンナーレ展で互いに統合される無数の統合があり、それらは統合の最高峰となっている。雑誌『メディアシオン』のなかには、新しい職業の統合も見られることも指摘しなければならない。絵画のカタログのなかでは、ここ15年来日常茶飯事になっていた抽象作品の「抽象的な」散文による批評──ミシェル・タピエ*18は傑作をものした──が、文学においては、ジャン・リカルドゥー*19とともに現れたのである。彼は、テクストの説明という幼稚でおとなしい形式を貼に移植するだけないハが、そわにひとつの改良を加えた。つまり、純粋なヌーヴォー・ロマンのひどく読みにくく、わざと内容を貧しくした文章に、黒字に黒く塗るように、内容と読みやすさの点で模範たるにふさわしい不定形な批評言語で注釈を加えるのである。こういう具合に、30の小匙でも、10万本の壜でも、100万人のスイス人でも、何でもかんでも「新しい写実主義(ヌーヴォー・レアリスム)」*20に統合することができる。それがその威力である。新具象芸術(ヌーヴェル・フィギュラシオン)*21は、絵画の過去と現在と未来を、儲かるものになら何にでも統合したがっている。抽象芸術の愛好家と具象芸術の愛好家の両方に対して掛けられた全災害保険というわけである。
 文化はこのような現状なのだから、解体を互いに統合することしかできはしない。そして、誰も指摘しようとしないが、これらの解体自体が、ほとんど常に、過去のものの繰り返しにすぎない(サポルタのトランプ小説は、1930年以前に出版され、数年前に再販されたポール・ヌージェ*22のトランプ詩『言葉と偶然の戯れ』の焼き直しである。こうした例はいくらでも数え上げることができよう)。こうした結構なものへの観客の統合について言えば、それは、観客を、ニュータウンヘと、国土のいたるところにあるテレビヘと、彼らを雇用する企業へと統合することの貧弱な縮小コピーにすぎない。それは、同じ筋書きをたどっているが、その力は無限に弱く、そのモルモットも無限に少ない。新たな解体の芸術の古くさい形式はどれも、今やそれ自体、現代文化の支配のための闘争の中心から遠くはずれている。文化の地盤の変化は、ただ単に、文化における革命的前衛のテーゼであるだけではなく、不幸なことに、現在の支配者たちの側の逆の計画でもあり、その計画は、すでに広く実現されているのである。もっとも、「キネティック」運動*23の専門家たちについては別に論じる必要がある。彼らは、単に時間を芸術のなかに統合したがっているだけだ。彼らはついていなかった。というのも、現代のプログラムはむしろ、芸術を生きられた時間のなかに解体することなのだから。
 何人もの研究者からが、まだ空きのある専門領域を確保するために、すでに多くの点でこうした性急な統合やその短絡的な正当化を越えた地点にまで足を踏み入れている。何人もの技術者が、ル・パルク*24のようにスペクタクルを改革することを望んでいる。彼は、1962年9月の「視覚芸術探究グループ」*25のパンフレットのなかで、受動的な観客を「刺激された観客」や「演技者としての観客」にまでも進化させることができると考えているが、それはあいも変わらず、「格闘させるための彫刻や描かれるためのダンスやフェンシング絵画のたぐい」をもたらすような専門化したがらくたの枠組みのなかにとどまっている。おまけに、ル・パルクは、シチュアシオニストめいた言い回しすらいくつか使っている。「受動的な観客という伝統的な状況を転覆することをはっきりと認めることによって、スペクタクルという観念を回避できる(……)。」しかしながら、この観念は、回避するのてはなく、社会におけるその位置を正確に測定したほうがよい。.観客は、「実際の参加(諸要素の操作)」──その通りだ。そして、視覚芸術家は、もちろんその.要素をすべて準備しているだろう──を達成することで、ル・パルクを満足させるだろうが、観客に対する彼の期待の無益さが何かもっと堅実なものに到達するのは、彼が、文章の終りで、「プログラミングの概念」、すなわち権力側のサイバネティックス研究者に手を差しのべるときである。もっと先の地点にまで逓んでいる者は犬勢いる(『フランス=オプセルヴァトール』誌 *261962年12月27日号を参照せよ)。たとえば、「RTF〔フランス・ラジオ・テレビ放送協会〕研究局」は、先の12月21日にユネスコで、雑誌『プラネット』を率いる有名な地球外生物たちの参加を得て、会議を開催することで、まさしく「状況を創造」しようとしたのであった。
 理論面でのシチュアシオニスト・インターナショナルの勝利ゆえに、すでに敵どもはシチュアシオニスト変装せざるをえなくなっている。ここに、歴史の弁証法がよく示されている。われわれに敵対して行なわれている接近戦には、さっそく2つの傾向が見出される。1つは、シチュアシオニストの思想を何も持たないのにシチュアシオニストと自称する輩(ナッシュ主義*27のいくつかの変種)であり、もう1つは、逆に、シチュアシオニストなしに、またSIの名を挙げることなしにシチュアシオニストのいくつかの考えを取り入れようと決め込んでいる輩である。われわれのテーゼのなかでも、最も単純で、最も古いもののいくつかの正しさが立証される確率がしだいに高まってくるにつれて、大勢の者が、口には出さずとも、あれやこれやのテーゼのかなりの部分を自分のものとして取り上げるようになってきた。もちろん、これは、前例があることを認めるべきだとか、当然受けるべき個人的名声の問題ではない。こうした傾向を指摘することに意味があるのは、次のような決定的な1点でそれを糾弾するためである。つまり、彼らは、そうすることで、新しい問題について語りながらも、ただ単にその問題のもつ暴力性や社会全体の転覆との関係を完全に排除し、それゆえその問題を骨抜きにして大学の研究発表かそれよりずっとひどいものにしてしまうことで、その問題をできる限り排斥し、結局彼ら自身でその問題をありきたりのものにしてしまうのである。こういう意図があるからこそ、SIを隠しておくことが必要なのである。
 例えば、雑誌『今日の建築』*28第102号(1962年6−7月合併号)は、ついに「空想的な建築」一覧の特集をした。そのうちの新旧のいくつかの試みは、かなり興味深いものかもしれない。しかし、その興味深い応用の鍵を握っているのは、SIだけである。『今日の建築』誌のへぼ絵描きたちの手にかかると、そうした試みも受動性の砦を飾るためにしか役立たない。例えば、この雑誌の編集長は、その個人的な芸術活動──それが芸術と言えるとして──において、流行の彫刻のほとんどすべてに手を染めて、見紛うばかりにそっくりに模倣してきた。このことで、彼は、心理操作という造形芸術の分野での権威を薙かなものにしたようてある。こんな奴らが今、環境(デコール)を改善しなければならないと気付いたのは、あらゆる改良主義者だちと同様に、先手を打って行動して、より強い圧力に対抗するためである。こうした今日の責任者たちは、舞台装置(デコール)を改良する気ではいるが、そこで送られる生活には触れようとしない。そして、彼らは、これについてのいかなる結論からも逃れるために、この件に関する調査を「システム」とこわごわ呼ぶのである。この号のなかで、1960年にSIを去ることを余儀なくされた、統一的都市計画の亜流の「技術者」に、最小のスペースが与えられているのは、理由のないことではない。この最大限に貧弱にされた亜流の理論さえ、古い機能主義からの改宗者の折衷主義にとっては、あまりに厄介なのである。しかしながら、われわれは、まさしく、いかなるシステムも擁護しはしない。われわれには、彼らが擁護する一方で、彼らをかくも細かく切り刻みながら、彼らを守っているシステムが、そのあらゆるレヴェルにおいて、誰よりもよく見えるのである。われわれは、このようなシステムの息の根を止めたいと思っているのだ。
 過去6ヵ月ないし10ヵ月来、いくつかの雑誌で、余暇の問題や、将来の革命組織の内部で必要とされる新しい人間関係について、再考し始めている者たちについても、同じように反駁しなければならない。彼らには何か欠けているだろうか? 実際の経験、既存のものに対する仮借ない批判という酸素、全体性である。今や、シチュアシオニストの観点は、酵母のように不可欠であると思われる。それなしでは、数年来SIによって提起されてきた最良のテーマもしぼんだ生地のようにつぶれてしまう。支配的な生活と支配的な思考の倦怠にどっぷり浸かって形成された者たちは、倦怠の余暇に喝采を送ることしかできはしない。革命運動の現在やその可能性をよく感得しなかった者どもは、精神工学の賢者の石を追い求めることしかできはしない。その石は、政治離れした現代の労働者を、既存の社会の模範を巧妙に再生産している左翼組織の熱烈な活動家に再び変貌させるだろう。そうなると、左翼組織は、工場のように、自分たちののミクロ集団に少々潤滑油を差すために、社会心理学者か何かを雇うかもしれない。社会調査法やサイコドラマの方法は、決して誰も、状況の構築の方へと前進させはしないだろう。
 参加がますます不可能になるにつれて、モダニズム芸術の二流のエンジニアたちは、当然のように誰もの参加を要求する。彼らは、公認されたゲームの規則として、使用法のパンフレットを配布するが、そこには請求書も付いてくる。まるで、(あらゆる芸術を制限してきた階級と深さという点での限界はあったが)参加が現に存在していた芸術において、参加とは常に暗黙の規則ではなかったかのように。われわれは、これほどわずかしかわれわれに関係のない芸術やスペクタクルに「介入する」よう、厚かましくせき立てられる。こうした栄えある物乞いの滑稽さの裏側で、彼らは、労働や私生活の余暇のような「参加することの不可能な何かのなかへの参加」を組織するスペクタクルの社会の高等警察の不吉な領域に行き着くのである(『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第6号 「統一的都市計画事務局の基本綱領」を参照せよ)。この観点に照らして、次に引用するル・バルクの文章の明らさまなお目出たさを再検討しなければならないたろう。ル・パルクが「刺激」しようとする大衆には、奇妙な非現実性がまとわりついている。「観客が非−実現、非−観照、非−行動に参加したいと強く思うような場にでくわすかもしれない。その場合、たとえば、完全な暗黒のなかにいる10人ほどの非−行動の観客が、何も言わずにじっと動かずにいることも想像できるだろう。」このような状態に置かれれば、人は大声で叫びだすだろう。否定(ネガティヴ)の前衛の実際の行動に参加したことのある者なら、幸運にも誰でもそのことには気がついたであろう。否定(ネガティヴ)の前衛は、ゴルドマンが信じているのとは違って、決して純粋な不在の前衛であったことはない。それは、望まれた存在に呼びかけるための不在のスキャンダルの演出、「人間存在そのものの謂いたる遊びへの扇動」(『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第4号の「マニフェスト」)であったのだ。「視覚芸術探究グループ」の生徒たちが抽象的な大衆について持っている観念は非常に形而上学的なので、彼らはきっとそれを芸術の地盤の上に見出すことはできないだろう。こうした傾向の連中がみな、あきれるほど破廉恥に想定している大衆とは、完全に痴呆化した大衆であり、専門家だちと同じように、彼らの愚にもつかない仕掛けに対してうっとうしいほど真面目になれる大衆である。だが、彼らが考えるのとは逆に、こうした大衆は、社会全体のレヴェルで形成されつつある。それは、スペクタクルの社会の「孤独な群衆」であって、この点で、もはやル・パルクは、自分で思っているほど現実に先んじているわけではない。この疎外の組織化において、純粋に受動的であり続ける自由のある観客は、確かにいないだろう。彼らの受動性は組織されていて、ル・パルクの言う「刺激された観客」は、すでにいたる所にいるのである。
 われわれは、状況の構築という考えこそが現代の中心的な考えであると、ますます確信を深めている。その逆のイメージ、奴隷制論者的なその反対物は、現代のあらゆる心理操作のなかに現れている。まだ現れたばかりの社会心理学者──マックス・パジェス*29は、過去20年にまだ50人ほどしかいないといっている──は急速に増加するだろう。彼らは、いくらかの所与の状況を操作できるようになったが、そうした情況とはまだまだ粗雑なものである。サルセル*30の住民のために計算された恒久的な共同の境遇〔=状況〕が粗雑なのと同様である。サイバネティックスの仕掛けの装飾家という専門を救うために、この陣営に並ぶ芸衛家たちは、統合の操作においてその第1歩を踏み出したことを隠そうとしない。しかし、この統合に反対する芸術的否定の側に立つならば、回収の危険を冒すことなくこの状況という地雷原に近づくことはできないように思われる。もっとも、あらゆる面で、首尾一貫した新しい異議申し立てを行うという立場を取るなら、話は別である。それにはまず、政治の面でそのような立場を取る必要があるが、この政治においては、どのような未来の革命組織を考えるにせよ、それを真面目に考えるなら、多くの点で「シチュアシオニスト」的な資質をもはや欠くことはてきないだろう。
 自由な遊びというものも、それが、芸術の解体の経験という地盤だけの上で孤立するなら、回収される危険性がある。1962年春に、ジャーナリズムは、ニューヨークの芸術的前衛たちのあいだでのハプニング*31の実践について報告し始めた。それは、閉ざされた場所に居合わせた者たちによる、一種の極端に解体されたスペクタクル、ダダイスト風の即興的な動作である。そこには、ドラッグとアルコールとエロティシズムが多少とも寄与している。「役者」の動作は、詩、絵画、ダンス、ジャズを混ぜ合わせようとするものである。こうした形の社会的出会いは、古くさい芸術的スペクタクルの限界例とみなすことができる。そこには、そのようなスペクタクルの残骸が共同墓穴に投げ捨てられているのである。あるいは、通常のびっくり(サプライズ)パーティや古典的な乱痴気騒ぎの革新の試み──もっとも、そう呼ぶにはあまりに美学が詰まりすぎているが──とみなすこともできる。「何かが起きること」への無邪気な探求、分解された観客の不在、人間関係のかくも貧しい分野に少しでも新風を吹き込もうという意志によって、ハプニングは、貧困(物質的貧困、出会いの貧困、芸術的スペクタクルから受け継いだ貧困、こうした契機の現実を大いに「イデオロギー化する」はずの厳密な哲学の貧困)の基盤の上での状況の構築の孤立した探求であるとすら考えることができるだろう。SIが定義した状況は、これとは逆に、物質的かつ精神的な豊かさの基盤の上にしか構築されえない。言い換えれば、状況の構築の始まりは革命的前衛の遊びでありかつ真面目さでなければならず、いくつかの点で、政治的受動性や形而上学的絶望、さらには芸術的創造性の純粋な欠如さえをも甘受している者たちにとっては存在し得ないのである。状況の構築は、自由で実験的な行動様式が支配するであろう社会の、究極の目的であると同時に最初の模型でもある。しかし、ハプニングは、程なくしてヨーロッパに輸入され(12月にパリのレーモン・コルディエ画廊に)、フランスの模倣者の手でまったく裏返しにされ、詰めかけた観客がじっと見ているだけの、美術学校のダンス・パーティのような雰囲気のなかで、シュルレアリスム風のがらくたの展覧会の初日(ヴェルニサージュ)の単なる宣伝に成り果ててしまった。
 貧困の基盤の上に構築されたものは、常にそれを取り巻く貧困によって回収されて、貧困を保証するものに奉仕することになるだろう。1960年初頭、SIは、1つの罠を免れた(『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第4号の「迷宮としての世界(ディ・ヴェルト・アルス・ラビリント)」を参照せよ)。罠となったのは、市立(ステーデリク)美術館からの舞台装置(デコール)の設計の提案のことで、それは、アムステルダムにおける一連の漂流や、この都心で統一的都市計画のいくつかのプロジェクトを行う口実として役立つはずだった。当初SIは迷宮のプランを認めさせたのだが、その迷宮は、36種類の規制と統制によって、伝統的前衛芸術のイヴェントの域をほとんど出ないものに矮小化されそうなことが明らかになった。それで、われわれはこの契約を破棄した。前衛主義的なこの美術館は、長い間悲嘆に暮れていたようである。というのも、1962年にとうとう彼らは、「彼らの」迷路*32を実現させたからである。それは、より簡単に、「ヌーヴォー・レアリスム」の一味に委託してのことだった。この連中は、ツァラ*33がその全盛期に言っていたように、「心にダダを持っている」とても写真映りのいいものを寄せ集めたのだった。
 使用可能で説得力のある──どうして奴らを説得しなければならないのか?──詳細な計画を公表せよとわれわれに迫る奴らは、その計画を一目見て、われわれのユートピア主義の証拠だと言ってすぐに突き返すか、あるいは、すぐさまそれを骨抜きにしてそこらじゅうにまき散らすことだろう。実は、他のほとんどすべての者に対しても、詳細(デターユ)な計画を要求できるのである。それらの多くが満足のいくものだろうと思い込んでいるのは、あなた方なのだから。しかし、われわれに対してはできない。基本的な文化的革新は、細部(デターユ)においてではなく全体としてのみある、というのがわれわれのテーゼなのだから。われわれは、他の者より数年先んじて、現在の極限的な文化的解体のありとあらゆるトリックを発見するのに、明らかに有利な立場にいる。そうしたトリックは、われわれの敵のスペクタクルにおいてしか利用できないので、われわれはそれについて言うべきことは引き出しの奥に隠してある。しばらくすれば、その多くが聞違いなく自然に見つけ出されて、何某によって鳴り物入りで発表されるだろう。しかしながら、われわれの手のなかにある大部分は、今なお「歴史に追いつかれて」はいない。その多くは、決して歴史に追いつかれることがないかもしれない。これは戯言ではない。それどころか、実験によって証明されていることである。
 現代芸術は、その出現の条件そのものにおいて新に批判的で革新的であったところろではどこでも、その大きな役割を果たし終え、そして、それが産み出した物に対する投機的な思惑にもかかわらず、いまだに自由の敵によって嫌悪されている。そうわれわれは考えている。同毒療法(ホメオパシー)論者の非スターリン化の主導者たちが、現代芸術をすっかり忘れさせたと思っていた自分の国に、それが舞い戻ってきたわずかな兆しを見て、恐怖に襲われる様子を見るだけで十分である。彼らはそれをイデオロギーの浸水孔のように暴きたて、あらゆるレヴェルでこのイデオロギーの操作を独占することが、自分たちの権力にとって死活問題だと白状する。しかし、それでもやはり、現在、西側で閉塞したかつての文化的遊戯の恭しい延命と人工的な蘇生によって繁栄している者たちは、実際は現代芸術の敵である。そして、われわれはといえば、現代芸術の遺産をまるごと受け取る者なのである。
 われわれは、たとえどれほど現代的なかたちを取っていようとも、文化の因習的な形態には反対する。しかし、当然のことだが、それよりも、無知や、肉屋のプチ・ブルジョワ的良識や新(ネオ)−ブリミティヴィスムを好むというのではない。古くさい神話への不可能な回帰の流れである、反文化的態度というものがある。われわれはもちろん、そのような流れとは逆に、文化の側につく。ただ、われわわは、文化の別の側に立っているのである。つまり、それ以前ではなく、それ以後にいるのである。分離された領域としての文化を乗り越えることによって、文化を実現しなければならない。ただ単に、専門家に任された領域としての文化を乗り越えるだけではなく、生──これには当の専門家の生自体も合まれる──の構築に直接関わらない専門的生産物の領域としての文化を乗り越えることによって。
 われわれはユーモアをまったく欠いているわけではない。ただ、このユーモアさえもが、いささか新しい種類のものなのである。われわれの諸テーゼに関して、その微妙な点やニュアンスのより精緻な理解に立ち入らずに、とりあえず1つの態度を選ぶ必要があるなら、その場合、最も単純で最も正しい態度は、われわれの言うことを完全に真面目に、文字通りに受け取ることである。
 どのようにして、われわれは支配的な文化を破産させようとしているのか? それには2つのやり方がある。最初は徐々に、次いで急激にやるのである。われわれは、芸術に端を発する諸概念を、芸術的ではないやり方で用いるつもりである。われわれは、1つの芸術的要請から出発したが、それはまさに、全盛期にあった革命的現代芸術の要請であったために、かつてのいかなる美学的理論とも似ていないものだった。われわれは、この要請を生活のなかに持ち込み、革命的な政治の方向に、すなわち、実際には革命的政治の不在とその不在の説明の探求に向けて推し進めた。そこから生じた全体的な革命的政治は、過去100年間の現実の革命闘争の最良の部分によって立証されてきたものだが、それがこの計画の第1段階(直接的な生への意志)ということになる。この段階においてすでに、芸術や政治は独立した形態としては存在せず、その他の分離した領域も、ことごとく認められることがないだろう。異議申し立てや世界の再構築は、このような計画を分割せずに実行することにおいてのみ生命を与えられる。そこにおいては、慣習的な意昧での文化闘争は、より深遠な作業のための口実や隠れ蓑にすぎなくなるだろう。
 優先的に片付けねばならない問題の果てしないリストを作るのは、たやすいことだ。困難はいくつもあるし、悲しいことに、短期的には解決できない問題すらいくつかある。たとえば、パリにあるユネスコ本部において十分に目立つスキャンダルを巻き起こそうという計画は、シチュアシオニストの間で人気を博したが、それは、まず第1に、シチュアシオニストの活動がシチュアシオニストのものとして、公然と、肯定的に現れるような具体的な介入の地盤を見つけたいというSIに潜在的な好みをおそらく表しているのである。それは一種の出来事の構築であり、そこでは、官僚主義化された文化の世界的な中心に反対する立場を華々しく表明することになるはずであった。こうした側面を補完するのが、アレキサンダー・トロッチ*34がかつても今も支持している見解で、シチュアシオニストの活動の一部が秘密裏に行なわれれば、われわれの介入の自由度が増すこともありうるというものである。ヴァネーゲム*35が書いているように、「華々しい(スペクターキュレール)やり方である程度までわれわれの存在を知らしめることは避けられない」のである限り、こうした新しい秘密のやり方は、われわれの敵やわれわれに拒否された追従者たちがすでに頭のなかにこしらえている、われわれ自身の華々しい(スペクターキュレール)イメージに対して戦うためにおそらく有益であるかもしれない。この世で形成されるどのような威光とも同様に(われわれの「威光」は本当に特殊なものだが)、われわれは、われわれ自身服従するという悪し尽力を解き放ち始めてしまった。こうした力に屈伏しないためには、われわれは、過去においてほとんど研究されてこなかった適切な防衛手段を、新たに講じなければならないだろう。シチュアシオニストの活動の疲労の原因のもう1つは、高度に専門化された思考と実践の社会にあった、すべてから包囲され攻撃されている非専門化の拠点を守り、全体性の旗を掲げ続ける務めが必然的にもたらす、一種の専門化である。さらにもう1つは、人々をわれわれの活動と彼らの行動に照らして判断して、私生活のレヴェル──これは受け入れることのできない基準である──では楽しい何人かの者たちとの交際を絶たねばならないということである。しかしながら、既存のものに対する異議申し立てというものは、それが日常生活をも考慮に入れるものならば、当然、日常生活の中での闘争として表現されるものなのだ。こうした困難は、数え上げれば切りがないが、それに端を発する議論は、まだ極端に薄弱である。というのも、われわれには、この時代の分岐路で思考が行う二者択一のもう一方の側、すなわち、すべての点での無条件の服従、が完全に見えているからである。われわれは、ほとんど無に等しいもの──すなわち生に対する還元不能な不満と欲望──の上にわれわれの大義の基礎を置いたのである。
 SIは、状況を構築したというのには、いまだほど遠いが、すでにシチュアシオニストを生み出した。それだけでも大したことだ。この、解き放たれた異議申し立ての力は、その最初の直接的な適用とあいまって、そのような解放は不可能ではないという実例である。したがって、まもなくさまざまな分野でその成果を見ることになるだろう。

*1:リュシアン・ゴルトマン(1913−70年) フランスのマルクス主義社会学者。マルクス主義の立場から社会学的方法論を文学批評に適用した。著書に『隠れた神』(56年)、『弁証法研究』(58年)、『小説の社会学のために』(64年)など。『アルギュマン』誌の協力者の1人である。

*2:イヨネスコ(1912−94年) フランスの劇作家。『禿の女歌手』(50年)、『授業』(51年)などで、アンチテアトルあるいは不条理演劇の代表的作家として認められる。

*3:サミュエル・ベケット(1906−89年) アイルランド生まれのフランスの小説家・劇作家。38年以降フランスに定住し、最初は英語で、45年以降は主にフランス語で小説・戯曲を発表。代表作の小説『モロイ』(51年)と戯曲『ゴドーを待ちながら』(52年)で、ヌーヴォー・ロマン、アンチ・テアトルの先駆者とされる。69年ノーベル文学賞受賞。

*4:ナタリー・サロート(1900−) ロシア生まれのフランスの女性作家。38年発表の『トロピスム』は、後に有名になり、ヌーヴォー・ロマンの最初の作品と見なされる。他の作品に『見知らぬ男の肖像』(48年)、『プラネタリウム』(59年)など。

*5:アルチュール・アダモフ(1908−70年) ロシアーアルメニア系のフランス人で、劇作家 1924年以降フランスに定住し、シュルレアリスム運動に参加。やがてマルクス主義の影響を受け、50年代に劇作に投じ、アンチ・テアトルの代表者となる、作品に『侵入』(50年)、『1871年春』(61年)など。

*6:マルグリット・デュラス(1914−96年) フランスの女性作家。暗示的な会話と極度に簡素な文体によってヌーヴォー・ロマンの作家と見なされる。代表作に『モデラート・カンタービレ』(58年)、『わが愛、ヒロシマ』(59年)など

*7:アラン・ロブ=グリエ(1922−) フランスの小説家。『消しゴム』(53年)、『覗く人』(互五年)などの小説によって、ヌーヴォー・ロマンの騎手とされる。アラン・レネ監督の映画『去年マリエンバートで』(61年)の脚本、自らが監督した映画『不滅の女』(63年)によって、映画にも手を染めたが、シチュアシオニストから批判されている。本書 第3巻『サンセット大通り』を参照。

*8:『隠れた神』 リュシアン・ゴルドマンの1956年の著書。ルカーチなどの影響を受けて、作品は社会状況に一方的に規定されるという還元主義的なマルクス主義文学批評に異を唱え、作品は社会を構成する要素であるという新しい批評を打ち出した。具体的には、ラシーヌパスカルの中に見出される「悲劇的ヴィジョン」が、社会状況の反映ではなく、独自の自律性をもって機能するものであることを証明した。

*9:ロジェ・プランション(1931−) フランスの劇団主宰者、演出家、劇作家。シェイクスピアモリエールナノの古典劇や、ブレヒト、アダモフなどの現代劇の演出を手掛けた。ここで暗示されているのは、彼の作品『ル・シッドの破砕』(発表年不詳)のことか(『ル・シッドはコルネイユ作の古典劇)。

*10:ロジェ・ガロディ(1913−) フランスの哲学者、政治家。当時はフランス共産党政治局員、中央委員(かつ大学教員)。当時までに社会主義リアリズムや唯物論についての研究を著しており、当時の近著として『神は死んだ』(62年)。なお、その後68年のチェコ事件に対する立場の相違から、70年にフランス共産党を除名され、さらに81年の著書ではィスラームに改宗している。

*11:〈音と光のショー(ソン・エ・リュミエール)〉 城館などの名所旧跡に照明や音響効果を配し、時にはそこにちなんだ歴史上の人物を登場させたりする一種の歴史絵巻スペクタクル。

*12:ジャック・シクリエ フランスの映画批評家。著書に 『ペタンのフランスとその時代の映画』(81年)、『フランス映画』(全2巻、90年、91年)、『七月の夜』(91年)など。ここで言及されている『ル・モンド』紙の記事は、バレエ、オラトリオ、ドラマを組み合わせたマルセル・ドゥラノワの『時間の夜』(脚本はフィリッブ・スーポー)についての批評「テレビ番組『時間の夜』」のこと。

*13:マルク・サポルタ フフンスの作家・文学批評家。著書に『アメリカ小説の歴史』(76年)、『鷹の足跡──ウィリアム・フォークナー心理的伝記』(89年)など。『アルク』誌のナタリー・サロート特集、ヘンリー・ミラー特集、デュラス特集なども編集している。ここで言及されている「トランプ小説」とは、1962年6月にスイユ書店から出版されたサポルタの小説『コンポジション第1番』のこと。そこには『読者には、トランプゲームのようにこの本のページを使って争うことをお願いする。そのゲームから出てくるページの順序によってXの運命が方向づけられることになるだろう」と書かれている。

*14:スタルゼウスキー ポーランドの画家ヘンリク・スタゼウスキー(1894−1988年)と思われる。スタゼウスキーは、ワルシャワで活動した抽象芸術の画家で理論家。30年代に〈セルクル・エ・カレ〉や〈アブストラクション・クレアシオン〉などのッ抽象表現主義の運動に参加、戦後も現代文明と芸術の関係に関心を向けた作品を作り続けた。ここで触れられている、「陶磁器」と「実験音楽」とを結合した作品については不明。

*15:カルルハインツ・シュトックハウゼン(1928−) ドイツの作曲家。パリに来てメシアンらに師事し、ブーレーズとともにヨーロッパ前衛音楽の先頭に立った。彼の探求は、12音技法の原理をリズムと音色と音の強さに拡張することを意図しており、伝統的な音と電子音を混ぜ合わせることによって、空間と時間の観念を一新した。また、「導かれた偶然」の原理を援用して、演奏者が創造に参加することをも可能にした。

*16:ニコラ・シェフェール(1912−92年) ハンガリー生まれのフランス人で、彫刻家。1948年に金属板による幾何学的な構造からなる「空間力学的(スパシオディナミック)」な彫刻を想像し、次いで音と光のインパルスによって動く彫刻を創造した。1957年に「光力学(ルミノデュナミスム)に拠って反射鏡などの光学装置で動く光の効果を、1961年にプレキシガラス製の部品の動きによるアナモルフォーズ(光学的な歪み)作品を製作した。1962年の『光−壁』などでは、感光性のセルのインパルスの作用による抽象的形態を製作した。

*17:フィリップス社 オランダに本社を置く欧州最大の電機メーカー。1891年、電球製造業者として出発、現在は家電から音響、通信、医療機器まで幅広く手がける。

*18:ミシェル・タピエ(1909−87年)フランスの美術評論家。1948年、ブルトンジャン・ポーランと「生の芸術(アール・ブリュト)商会」を設立し、大戦直後から画家のデュビュッフェが実践していた「生の芸術」(幼児、精神疾患者、アマチュアの作品)の収集活動を推進する。それと平行して、デュビュッフェ、ヴォルス、フォートリエら大戦後の前衛的な非具象絵画を「アンフォルメル(非定型)」芸術と命名し、この運動の推進者にして中心的理論家として活動。また、サム・フランシスやアンリ・ミショー、フォンタナ、日本の具体派なども積極的に評価した。著書にアンフォルメルのマニユフェストである『もう1つの芸術』(1952年)などがある。

*19:シャン・リカルドゥー(1932−) フランスの作家。1961年に、テクストが「冒険の物語というよりは物語の冒険」になるような小説『カンヌ展望台』を発表、その後、雑誌『テル・ケル』の編集委員を71年まで勤め、その間に2冊の評論『ヌーヴォー・ロマンの諸問題』(67年)と『ヌーヴォー・ロマンの理論のために』(71年)(邦訳題名は『言葉と小説』と『小説のテクスト』、いずれも野村英夫訳、紀伊國屋書店刊)も著している。

*20:「新しい写実主義(ヌーヴォー・レアリスム)」 現代美術の流派としての「ヌーヴォー・レアリスム」は、1960年から63年に、美術批評家ピエール・レスタニーと画家のイヴ・クライン、デュフレーヌ、彫刻家ティンゲリー、アルマンが行ったフランスの前衛芸術集団の名。彼らは彩色したスポンジ、圧縮したスクラップ、騒音を発しつつ動く廃品彫刻、梱包作品、壁から剥がした広告ポスターによる作品など、現代の産業社会の生産物や機械をそのまま提示することが現代の「新しいレアリスム」だと主張した。ここでは、日常生活の微細な事物を延々と描写する文学流派の「ヌーヴォー・ロマン」の手法を、「写実主義」という共通性の上に美術流派の「ヌーヴォー・レアリスム」になぞらえている。

*21:新具象芸術(ヌーヴェル・フィギュラシオン) 60年代初頭のフランスの前衛美術界で支配的な抽象画とも、新しく生まれてきたヌーヴォー・レアリスムとも異なる「第3の道」として、61年以降生まれた芸術表現の流派で、デフォルメされ、図案化された具象表現によって、日常生活の中に神話的素材を見出したり、政治的批判を行ったりした。何回かの集団展が開催されたが、1つの運動体ではなく、そうした手法を用いるものの総称として「ヌーヴェル・フィギュラシオン」の名が用いられた。代表的な画家に、アダミ、アロヨ、エロ、モノリらがおり、集団展として「日常の神話」展(64年)が有名。

*22:ポール・ヌージェ(1895−1967) ベルギーの詩人。1925年から40年まで、マグリットとともにブリュッセルシュルレアリスムの中心人物として活動。フランスのシュルレアリストの自動書記(エクリチュール・オートマチック)に反対し、ヴァレリーを賛美して、理論的にも作品的にも抑制のきいた厳密さを擁護した。彼の詩は、言語的常套表現を巧みに「転用」した手法を用いたもので、デュシャンやレトリストの作品に近いものがある。ヌージェハまた、1919年のバルギー共産党創始者の1人であり、その政治的姿勢を生涯貫いた。50年代以降は、ドゥボールらも協力したマルセル・マリエンの雑誌『裸の唇』作品に定期的に寄稿した。まとまった作品集は死後出版の『笑わない物語』(1980年)、『持続的実験』(81年)など。

*23:「キネテイック」運動 キネティック・アートとは「動く芸術」の意味で、機械仕掛けによって、あるいは光や電気や映像などによって、作品の一部または全体を動かす芸術表現のこと。テクノロジーに裏付けられ1960年代に盛んになった。パリの〈視覚芸術探究グループ〉、西ドイツの〈グルッペ・ゼロ〉、イタリアの〈グルッポT〉などの集団が有名である。

*24:フリオ・ル・パルク(1928−) アルゼンチンの芸術家。 58年からパリに住み、色、光、潜在的ないしは現実的な動きなどについて、体系的に研究し、絵画、レリーフ、動く彫刻、オブジェ、環境芸術などの製作をしている。60年に〈視覚芸術探究グループ〉の共同創設者になり、キネティック・アートの旗手となる。1966年ベネツィアビエンナーレで大賞。

*25:「視覚芸術探究グループ」 1960年、ル・パルク、フランソワ・モルレ、イヴァラル、ロッシ、ソブリノ、スタインの6名により、パリで結成され、68年まで活動を続けたキネティック・アートのグループ。観客の積極的な芸術参加を追求することを主眼に置き、光や動きを重視した視覚的・空間的な芸術を展開し、63年の第3回パリ・ビエンナーレ展には、共同制作の「迷路」を発表して話題になった。

*26:『フランス=オプセルヴァトール』誌 フランスの政治週刊誌。クロード・ブールデが1950年に『オプセルヴァトゥール』誌として刊行、その後、『フランス=オプセルヴァトゥール』と改名、64年に再度『ヌーヴェル・オプセヴァトゥール』と改名し現在に至る。政治・経済・文学を扱うと同時に共産党とも社会党とも距離を保った「中立主義」と反植民地主義の立場で、フランスにおける新しい左翼の形成に努め、60年の統一社会党の結成に寄与した。ここで言及されている記事は、マルク・ビエレの「彼らは健康だ」という記事。『ブラネット』誌の協力によるユネスコでの会議とは、SFファンの夕べのこと。

*27:ナッシュ主義 デンマーク人の元シチュアシオニストヨルゲン・ナッシュがスカンディナヴィアで行った逸脱的活動(シチュアシオニスト商標の家具の販売など)を総称してSIが名付けた呼び名。本書 第3巻の「シチュアシオニスト情報」および、本書 第8巻の「さまざまな国における反シチュアシオニスト作戦」を参照。

*28:『今日の建築』誌 アレクサンドル・ペルシッツが編集長を務めたフランスの建築雑誌。パリの平行都市や空中都市の計画などを次々と提案し、50年代から60年代のユートピア主義的な建築や都市計画の推進役を果たした。

*29:マックス・パジェス フランスの社会心理学者。著書に『心理療法社会心理学の非指導的指針』(86年)、『痕跡か感覚か──情動のシステム』(86年)、『愛の仕事──不確実性礼賛』(新版、91年)など。

*30:サルセル パリの北の郊外の町。1958年から1961年にかけて、パリ周辺では初めての大規模なあ団地が建設されたが、多くの批判を巻き起こし、問題のあるベッド・タウンのシンボルとなった。

*31:ハプニング 音楽・文学・造形芸術・演劇などさまざまなジャンルを総合する芸術として発展してきたパフォーマンス芸術の戦後の展開の中で、60年前後に特にダンスと日常生活の行為との垣根を越えた表現様式として生まれた。「ハプニング」という言葉そのものは、アラン・カプローが59年にニューヨークのルーベン画廊で行った「6つのパートからなる18のハプニングス」のなかで最初に用いたもので、そこでは観衆の直接参加によって表現者と観客の区分の解消が試みられた。

*32:「彼らの」迷路 アムステルダム市立美術館で1962年8月30日から9月30日まで開催された「ディラビーあるいはダイナミックな迷路」展のこと。同美術館長ウィレム・サンドバーグがその任期の最後の企画として、ティンゲリー、ダニエル・スボエリ、ポントゥス・フルテンの協力の下で行い、ヌーヴォー・レアリストやその周辺のアーティストが多く参加した。

*33:トリスタン・ツァラ(1896−1963年) ルーマニア生まれの詩人。第一次大戦中亡命先のチューリッヒダダイスム運動を開始した。1920年、バリに移住してシュルレァリスムに参加したが、マルクス主義に共鳴し共産党に入党。

*34:アレキサンダー・トロッチ 「世界転覆の技術」を参照。

*35:ラウル・ヴァネーゲム 「当たり前の基礎事実」を参照。