『もう1つの生活のためのもう1つの都市』訳者解題

 ここにコンスタントが提出している都市の描写は、彼が1957年ごろから製作しはしめた、統一的都市計画に基づいた新しい都市計画のエスキスである。シチュアシオニストとしての彼は、アムステルダムの「統一的都市計画研究所」を拠点に、この時期、一貫して都市計画に没頭し、実際に、自ら「ニュー・バビロン」と名付けたその新しい都市計画の模型(マケット)を製作して、展覧会まで行っている(1959年5月、アムステルダム市立美術館)。これらの模型(マケット)は、シチュアシオニスト統一的都市計画の実際の姿を知らせる「作品」としては唯一のものである。空間を移動性の壁で自由に仕切り、道路を中心とせず、巨大なテントあるいはドームで覆われた都市のなかで、人々がノマド的生活を送るという「ニュー・バビロン」の基本構造は、コンスタントが1957年に滞在したアルバ(MIBIの本拠地)で目にしたジプシーたちの居住形態とテントから多くを得ていると言われている。
 機能主義の都市計画のように都市の建築をモノ──「居住の機械」──してとらえるのではなく、人間の心理や感情、その中での人間の行動との相関関係でとらえ、環境全体の構築に向かうコンスタントの都市計画は、シチュアシオニストの主張する「状況の構築」のための有力な道具である。だが、この文章に見られるような技術に対する楽観主義、具体的作品への志向の性急さゆえに、やがてコンスタントの活動はシチュアシオニストの基調と相容れなくなってくる。彼は1960年夏にSIを「脱退」という形で離脱し、その後1970年ごろまで「ニュー・バビロン」の活動に全勢力を傾けるが、それらは社会変革から遊離したものとしてシチュアシオニストから批判される(『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第6号(1961年8月)の「都市計画の批判」)。そして、シチュアシオニストは1960年、アムステルダム統一的都市計画研究所を閉鎖、ブリュッセルにラウル・ヴァネーゲム、アッチラ・コタニイらを中心とした新しい統一的都市計画研究所を開設して、環境整備としての「都市計画」を否定し、日常生活の革命を第一義に置く新しい「統一的都市計画」のプログラムを採択する。