『漂流の理論』 訳者解題

 G=E・ドゥボールのこの論文は最初、1956年に、ドゥボールらがレトリスト・インターナショナルの活動を行っていた時期に、ベルギーの雑誌『裸の唇』第9号(1956年11月)に、ギー=エルネスト・ドゥボールの名で発表された。『裸の唇』は、ベルギーのシュルレアリスト、1964年から58年、マルセル・マリエンの主宰で全12号が刊行された雑誌で、ブルトン派のマグリットとも、ドトルモンらの「革命的シュルレアリスト」とも距離を置いた編集方針を取り、パロディの手法や、映画への関心(マリエン自身、『映画のイミテーション』という前衛的なポルノグラフィック映画を作っている。)など、むしろレトリストの関心領域に近かったため、ドゥボール以外にも、ヴォルマン、ベルンシュタインらが協力している。
 『裸の唇』に発表された「漂流の理論」には、『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』に再録された部分の後に、「2つの漂流報告」と題した無署名の報告文が掲載されている。1つは「連続的漂流の結果生じた出会いとトラブル」という副題で、1953年12月25日から翌年の元日まで数日間にわたり、パリの市内でドゥボールとジル・ヴォルマンが行った漂流実践の記録である。これは、パリ5区のグザヴィエ・プリヴァス通りのアルジェリア人のバーを起点にして、バーの中や路上で次々と不思議な人物や場所に出会うというものである。もう1つは「漂流の手段による都市環境の一覧表」という題で、同じくドゥボールとヴォルマンが、1956年3月6日にパリ4区のジャルダン・〔サン・〕ポール通り(レトリストたちは通りの名前から「サン(聖)」をすべて除去することを提案し、実践していた)から北北西にに一直線の針路を取って行った心理地理学的漂流の実践報告である。2人は〔サン・〕マルタン運河の近くで、スペイン人がやっている「反逆者食堂」や、ルドゥの建てたドーム建築などに偶然出会うというものである。
 こうした「漂流」の実例報告としては、この他にも、ジャック・フィヨンの「パリの体系的描写」(『裸の唇』第7号、1955年12月)、「コントレスカルプ大陸の位置――レトリスト・インターナショナル心理地理学研究グループによる専門研究」(『裸の唇』第9号、無署名)などの文章、さらにパリの心理地理学的地図の試みとして、「イマジニスト・バウハウスのための国際運動」の編集によるギー・ドゥボールアスガー・ヨルンの『心理地理学的パリ・ガイド」(1957年3月)がある。

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