『1950年代末の統一的都市計画』訳者解題

 ここで冒頭に挙げられているマルセイユの「アヴァンギャルド芸術フェスティヴァル」とは、1956年8月にマルセイユ市の主催で開催された展覧会で、復興・都市計画省などの公的機関や観光産業の援助を得て、ル・コルビュジエの「輝く都市」の構想を入れた会場で開催された。このフェスティヴァルには、元コブラのジャン=ミッシェル・アトランや廃品彫刻で有名なジャン・ティンゲリー、菅井汲のような画家から、モーリス・ベジャール、イヨネスコなどの舞台芸術家、ジャック・プレヴェールやミシェル・ラゴンなどの詩人や批評家、レトリストの創始者イジドール・イズーピエール・ブーレーズメシアンシュトックハウゼンのような前衛音楽家など、ジャンルも国籍も異なる多くの前衛芸術家が参加した。当時のレトリスト・インターナショナルのメンバーたちは、この展覧会が50年代アヴァンギャルド芸術の体制内化のお祭り騒ぎにすぎないとして、ボイコットを呼びかけ、粉砕行動を行った(ドゥボール、ヨルン、ヴォルマンの署名によるレトリスト・インターナショナルの「ボイコット指令」も含め、この時の事の顛末は「マルセイユ物語」という記事になり、『裸の唇』誌 第9号に報告されている)。
 こうした展覧会に彼らがとりわけ敏感に反応したのは、50年代という高度資本主義・大量消費社会の開始期に、文化・芸術が資本と国家の両方にとって新しい意味を帯び始めてきたからである。生産と消費の速度の飛躍的増大によって、都市はとりわけ自動車の発達に見合った形──高速自動車道と規格化された住居──で改造されはしめた。だが、それだけでなく、資本は文化と芸術を積極的に取り入れて商品の差異化を行い、国家は美術館と展覧会を中軸に据えたスペクタクルを巧みに使って国民統合を図ってくるようになってきた(アンドレ・マルローがド・ゴールの文化大臣として、フランスの文化政策を強力に推進し始めるのは1958年のことである)。そして、この資本と国家の目論見に、ル・コルビュジエらの機能主義の建築家やアヴァンギャルドを自称する芸術家たちが次々に動員されはじめたのである。「統一的都市計画」によってシチュアシオニストが対抗しようとしたのは、まさしくこうした国家−資本−芸術家の三位一体に対してである。体制側の上からの都市改造に対して、シチュアシオニストは「漂流」の実験によって文字どおり地を這いながら、「心理地理学的」に都市を脱臼させ、新しく分接しなおそうと試みるのである。

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