いくつかの解釈の間違いについて

 ロベール・エスティヴァル*1が、自らシチュアシオニストの体系と呼ぶものに関して行っている研究(『グラム』誌第4号)について、正確な情報を求めようとするその真面目な態度は認めねばならない。だが、ことSIに関する限り、この態度は極めて稀である。エスティヴァルの批判的努力が全般的無理解に変質してしまった原因は何か、それを指摘しなければなるまい。彼の全般的無理解は、SIに対する評価の非一貫性に如実に現れている。というのも、彼はシチュアシオニストの理論が「誇大妄想狂的だ」と非難し――しかも、その誇大さは、このように述べられる以外のかたちでははっきり規定されてはいない――、さらに奇妙なことに、「学識に乏しい」とも非難しておきながら、そこから「シチュアシオニストの理論には、創造を真のものたらしめる特性がたしかに備わっている」という一般的な結論に達するのである。
 エスティヴァルの足かせになっているのは、知識の量的欠如ではなく、その不十分な思考水準である。このことは、エスティヴァルも含め、ブルジョワジーの概念的道具を用いてブルジョワ美学を乗り越えんとする、すべての「前衛主義者」に共通して言えることである。
 実際のところを見てみよう。エスティヴァルの分析によると、構築された状況という考え方は、人間の行動とその行動が変化させる環境との間の相互作用にかかわるものであるから、確実に、オーギュスト・コントから受け継いだ哲学的二元論である、ということになる。エスティヴァルは、「シチュアシオニストは自由に状況を創造する、……状況はシチュアシオニストの意志にかかっているのだ……」と決めてかかり(24ページ)、われわれに「自由意志」なる理念を帰した上で、これが明らかにわれわれの現代芸術に関する判断の一切を左右していると断じている。奇妙なことに、彼は、かかる現代芸術に関する判断を、われわれがいかに階級闘争と結び付け、革命の遅滞と結び付けてきたかを読みとっていない。さらに奇妙といえば、エンゲルスマルクスの非常に有名なテーゼを解説して「状況の変化と人間の活動の一致は、もっぱら革命的実践としてのみ考えることができ、また合理的に理解されうる」と書いて以降、かなり広く知られてきた方法も、エスティヴァルにかかると二元論に還元されてしまうわけである。しかし彼は、自らのイデオロギー的欠陥をさらけ出すかのように、「シチュアシオニストの考え方は……」「総合的なパースペクティヴに基づいている」ため、「互いに根本的に分離された諸領域から成る歴史的現実を視野に収めることができない」(26ページ)と述べる。このエスティヴァルの主張――それはまた他の大勢の人々の主張でもあるが――に強調符を付したのは私である。というのは、それは、われわれの観点と真っ向から対立する彼の観点をいやというほど明らかにしてくれるからである。ルカーチ*2がいみじくも述べているように、「全体性というカテゴリーの支配こそは、学問における革命的原理の支柱である」。エスティヴァルに欠けているのは――学識ではないらしいから――弁証法にほかならない。

 エスティヴァルはかなり形而上学に捕らわれている様子であると考えざるをえない。というのも、曰く、「契機という概念は、歴史についての伝統的な見方や、それゆえまた、そこから生じる形而上学や道徳と対立する立場に通じている。契機の概念は、それらを、明らかに自分自身から由来する別のものに置き換えてしまうのである」。かくしてシチュアシオニストは、どんな形而上学だかわからないが、ともあれ何らかの形而上学のなかに自己を認識するよう催促されているわけだ。さて、シチュアシオニストはいったいどこに向かうのだろうか。エスティヴァルによれば、われわれのお気に入りは、「現在主義(プレザンティスム)」の形而上学である。なぜか。「17世紀末以来、近代の信条となってきた、進化や進歩や永遠性」(22ページ)――実に奇妙なかたちで寄せ集められたものだ――といった観念を、われわれがひとまとめに棄却するからである。17世紀末に永遠性という観念が現れたなどと言われると、ほとんどJ・L・ボルヘスの作品のタイトル『新時間否認論』*3のユーモアを思い出してしまうが、エスティヴァルはふざけているのではない。だが、われわれの言う状況は、たとえばヒュームにおいて形而上学的な意味で考えられているような、分割不可能で、分割可能な瞬間として提示されたことなど決してない。それは、時間の運動におけるひとつの契機、自らの解体要因、自らの否定を内在したひとつの契機として提示されてきた。状況が現在を強調するかたちになるのは、マルクス主義が「現在が過去を支配する」ような社会のプロジェクトを明らかにすることができた限りのことである。自らの消滅が不可避であることを認識し、自らが別のものに取って代わられることに協力する現在、――この現在の構造は、変動する現実から抽出され、移行内容を欠いた、基体化された現在を人々に伝えようとしてきた伝統的芸術よりも、はるかに「現在主義」と遠いところにある。
 エスティヴァルの頭を一杯にしている形而上学と永遠性は、当然のことながら、個人による観念論的な創造というものへの決然たる過大評価をともなっている。「シチュアシオニストの」創造についていえば、何とも結構なことであるが、エスティヴァルは、薮から棒に、その最上の部分を私に帰するのである。思うに、これは、エスティヴァルがイズーのイデオロギー体系の影響をまだ多分に受けていることを示しているのだろう。というのも、イズーに対してエスティヴァルは、機械的な推論の誤てる明快さを持もって、いかにも不十分な「社会学的」批判を行っているからである。
 イズーが提唱した芸術は、他のどのような芸術にもまして、現代文化の解体を身をもって立証しているが、これは、唯我論の芸術としては他の追随を許さぬものである。ますます一方向的になり、相互に切断されてゆく芸術表現にかかわる今日の状況のなかで、しかもまったくその尻馬に乗るかたちで、ついにイズーは理論的に大衆を排除するにいたり、返す刀で、旧来の芸術活動の根本的傾向の1つを絶対的なもの――それは死と不在にほかならない――の位置に戴冠させた。そういうわけで、彼は第2の「造形芸術の将来の力とその死に関する覚書」(1951年『Ur』誌*4に掲載)で次のように予告していた。「われわれは日々、新しい形態を創造してゆくことになろう。そして、もはや、それらを証明してみせたり、それらの耐久性を『価値ある作品』によって説明する労を取ることはあるまい……。人々は言うだろう――『これは可能性の宝庫だ』、『これは世紀の傑作を生むチャンスだ』と。だが、誰も小石を拾うために身をかがめたりはすまい。もっと別の<世紀の鉱脈>を発見するために、人々はさらに先に進んでゆくだろう。しかし、その<世紀の鉱脈>といえども、これまた未開拓の潜在性のままに打ち棄てられることだろう。人々がいかにする術も知らぬ豊かな美が、世界から吐き出されてくる」。芸術の消滅という語るに落ちたイズーの告白は、あらゆる芸術の現実の消滅のひとつの反映である。しかし、偶然だか天才によってだか知らないが、とにかく自分が文化のゼロ点にあることを発見したイズーは、ひとたび無に帰した後、旧来の要素と同質の要素をもって再び開花すべく運命付けられた、シンメトリーをなす文化によって、その空虚を埋めることに精を出す。そして、彼は、この思わぬ天恵を利用して新−文化の唯一の決定的創造者になろうと、もはや自分が場を占めることのないだろう芸術の土俵では次々に譲歩を繰り返してゆく。消費されえぬ芸術の時代の所産たるイズーは、ついに自らの消費という観念さえも取り除いてしまった。彼はもはや公衆を必要といていない。彼が必要とするのは、いまなお隠れた審判者――これはほとんど無に等しい、「傍観者としての神」のイズー流のヴァリアントである――の臨在を信じることだけであり、この審判者たるや、時間の外にある小法廷の判事として、未来永劫にわたってイズーという個性のあらゆる資質に認可を与え続けることを唯一の職務とするわけである。
 イズーの「創造の体系」とは、言ってみれば、最大限広範囲に取り揃えた一件書類から組み立てられた訴訟弁論の体系である。これは、創造ということにおいて、仮にその一片であっても、不正に自らの権利を承認させようと企てかねない、ありうべき競争者の悪意や言いがかりから、彼の理想の領域を個々の点において弁護するためのものなのである。何ものもイズーの至上権に制約を加えることはできない。ただ、法廷にせよ、訴訟手続きにせよ、それらはすべて彼の夢想のなかにしか現存しないだけのことである。
 しかしながら、イズーの体系がそのまま純粋なかたちで適用されるということはなかった。というのも、ほとんど偶然にではあるが、この世紀にあって前衛運動を行おうとする意図が、現代芸術の解体にかかわるいくつかの現実的な実験へとイズーを導いたからである。(「メタグラフィー」*5による書物、映画)。エスティヴァルは、まったく明らかな客観性にもとづいていズーを論駁しながらも、1946年から少なくとも1952年にいたるレトリズムの実践活動の領域と、それが観念論的な疎外に陥った領域とを十分明確に区別し、両者の関わりやその矛盾を明らかにはいていないように思われる。その結果として、いざシチュアシオニストの立場を検討する段においても、エスティヴァルは――いくつかの部分的な明察や、細部においては正しい仮説を提出してはいても――、全体として見るかぎり、あの極めて観念論的な前衛的創造――彼はどのような場合でもそれをあるがままに受け取り(その誇張や妄想癖しか批判していない)――を神秘化してみる考え方の犠牲になっているのである。彼にとっては、すべてが個人に還元されなければならない。そして、そのようにすべてを個人に還元した上で、その個人にもう少し謙虚であれと勧めにかかるわけであるが、こうしたわけで、エスティヴァルは、必要とあらば、創造者たる個人を自ら創造することも辞さない。「イズーが作りあげた3次元の物語は、芸術創造の一分枝を転覆させるものにすぎなかった。ドゥボールは、人間のおよそ一切の活動から構成される状況の中に、それら一切の活動を同時に転覆させるための手段を見いだすのである」。私としては、やはりまだそこからかけ離れたところにいる。それに、1人でそんなことをしようなどとは考えていない。
 あえて繰り返す必要があるだろうか。「シチュアシオニスム」なるものは存在しない。私自身がシチュアシオニストであるのも、ひとえに、私がいまこの瞬間に、ある一定の条件のもとで、1つの仕事のために実践的に結集した集まり〔=共同体〕に参加しているという事実によるものにすぎない。この集まりがその仕事を果たしうるか果たしえないか、それはわからない。指導という観念を受け入れることは、たとえそれが集団指導という意味であれ、われわれのようなプロジェクトにおいては、すでにプロジェクトの放擲を意味する。言うまでもなく、SIは実にさまざまな個人から構成されており、さらにいえば、それぞれ見分けのつくいくつかの潮流から構成されているといってもよく、それらのあいだの力関係はすでに何度も変化してきた。全体としての活動が、いまだ前‐シチュアシオニスト的であることは異論の余地なきところである。われわれふぁいかなる意味でも、全体のなかの何人かに帰属するような「創造」を擁護することはないし、ただ1人に帰属するような「創造」についてはなおさらのことである。逆に、われわれのもとに加わる同志たちが、われわれの問題設定と結び合うような実験的問題設定に、すでに自分自身で到達していることは大歓迎する。ちなみに、観念論的妄想のもっとも著しい兆候は、同じ個人たちだけが、何年間も、いつも同じ恣意的な価値をめぐって相互に支持しあい、あるいは論争しあいながら滞留する――というのも、その恣意的な価値をこの貧困なゲームの規則として認めるものは彼ら以外にいないのだから――という事態である。シチュアシオニストとしては、彼らが埃を溜めるのに汲々としているのをそのまま打ち遣っておこう。エスティヴァルは彼らの利害を過大評価し、およそ他に応用することのできない判断基準をそこから導くまでにいたっている。これはおそらく、最近の「前衛主義的」時期についての彼の研究が、あまりにもパリに局限された視点しかもっておらず、そのために細部が誇張されてしまったためだろう。そうした枝葉末節の知識があるなら、エスティヴァルは、少なくとも、私が人々との関係を引き受けるのに、彼らとのあいだに保ちえた従属関係を動機とするようなことがなかったことは、知っていてくれるはずである。私の動機はもっと別の関心にある。

G=E・ドゥボール

*1:ロベール・エスティヴァル 『グラム』誌の編集長。

*2:ジェルジ・ルカーチ(1885−1971) ハンガリーの哲学者・批評家・マルクス主義理論家。ドイツへの留学によって『魂と形式』(1911年)、『小説の理論』(1914−15年)などの文芸理論を発表し注目を集め、第一次大戦後、ハンガリー共産党に入党し、翌年、ベラ・クーンの革命政府に教育人民相として参画。革命崩壊後、ウィーンに亡命し、1922年に『歴史と階級意識』を発表した。そこに収められた論文は、19年のハンガリー革命の渦中およびその後のウィーン滞在中に、革命の総括として書かれたものだが、「全体性のカテゴリー」と「弁証法」をマルクスの著作において復権させ、その後の「西欧マルクス主義」の思想的出発点となったことで知られる。ここでのルカーチの引用は、『歴史と階級意識』第2章「マルクス主義者としてのローザルクセンブルク」の最初に出てくる言葉(邦訳『ルカーチ著作集 9』、吉田光城塚登訳、白水社、1968年、67ページ)。『歴史と階級意識』のフランス語訳は1960年に出版されている。

*3:J・L・ボルヘスの『新時間否認論』 1946年に発表されたボルヘスのエッセイ。1952年に出版された『続審問集 1937−1952』(邦題『異端審問』)に収められている。

*4:『Ur』誌 モーリス・ルメートルの編集によって出されたレトリストの雑誌。「レトリスト独裁」もしくは「文化の独裁のための手帖」を掲げ、1950年から53年まで全3号、63年から67年まで全7号が刊行された。ここに触れられているイズーの論文「造形芸術の将来の力とその死に関する覚書」が収められた『Ur』第1号は1950年12月に発行された。

*5:「メタグラフィー」 語源的には、文字(graphie)の転換(méta)という意味だが、ドゥボールらは、これを「転用」の手法のなかでも特に文字や物語などのエクリチュールに関わる転用という意味で用いている。この手法を最もつきつめた作品として、ジル・ヴォルマンの『私はきれいに書く』(これはさまざまな小説の断片的な文をつなぎ合わせて作られた「物語」である)や、ドゥボールの『コペンハーゲンの終わり』、『回想録』(これらもまた、新聞・広告の言葉、小説の断片などを切り貼りした「転用」の技術の所産である)などがある。また、レトリスト・インターナショナルは1954年6月から7月にかけて、パリのドゥブル・ドゥート画廊でのメタグラフィーの展覧会も行っている。「メタグラフィー」と「転用」の関係については、「転用の使用法」を参照。