イスラエルにおいて文化革命を開始するための指示

 構築された状況の概念そのものは、つねに、人間存在を癒しがたい凡庸という病態(パトス)に陥れる日常化した精神の病によって歪められている、自分たちの、動きを欠いた饒舌の中に留まることに満足している受動的な人々や、自称進歩主義者たちの凡庸さに対して、その中庸に対して戦わなければならない。いまや、精神の永久革命に取りかからなければならない、想像力に一撃を加えなければならない、精神の病とイエロー・ジャーナリズムの注意を逸らさなければならない。要するに、「挑発分子」にならなければならないのだ。
 わらわれの現在の文明の耐えがたいパラドクスは、貨幣の力を持つ者たちだけが、最も近代的な技術を所有し、また、意のままに用いうるということであり、彼らが「金を作る」という目的だけにそれらの技術を用い、何百万もの金をかけて、愚かしく、ブルジョワ的に、獣のように、自分の余暇を活用するということにある。そして、大衆はというと、欲望の欠如に囚われていて、組合の経営家族主義的(パテルナリスト)な独裁が、この50年来、経営者や、工場の親方に取って代わっている。
 イスラエル、この生成途上の国では、いままさに懐胎されつつあるさまざまな力が、自らを表現するのに大変苦労しているところだ。というのも、「いかにして生きていくか」という問題が抜き差しならぬものとして個人に重くのしかかっているからである。この個人は、下意識までしびれさせてしまう祖先の隔世遺伝に縛りつけられて、もはや直接的なもの、つまり、生活の安逸を増してくれるものしか夢見ない――夢見ることができない。入植は、もともとからいた素朴な多数派の中に人間的な環境を持ち込むことによって実行されたし、アメリカ式の安逸の贈り物によって融和が成し遂げられることが望まれていた。ある意味では、義務であり、強制でありさえする安逸、厳格な教義に頭がぼけてしまった哀れな連中(聖書の最高に愚劣な教えによって宥めすかそうとしているが)に、社会主義自由主義という緑青色の後光で飾り立てて、洗濯機や冷蔵庫、醜悪な住宅などを与えたのである。上層部では、一切の解放の試みに全く相反するアメリカ式労働組合主義を根づかせようともがいていたし、意識ある人々の知性は警戒された。隔壁は適切な場所に設えられており、階層は、きっちり区分けされているのだ。
 社会主義的たらんと欲しており、そして、外的な事情から指導的地位についた者たちからなる新たな階級だけによってかたちづくられてゆくこの新しい国には、階級間の葛藤さえもない。何千もの自己犠牲が、まだ未成熟な状態の国民の頂点に位置している。この国のさまざまな要素はこれから平準化されようというところだし、とりわけ――その要素が金で買えない場合には――非人格化が進行中である。
 口先だけの欲望や、よりよい未来への願いよりも確固とした希望にすがりつくこともできないわけではない。もしも、ここから、特別な、革命的な芸術が湧き出してくるなら、そうしたら、その芸術は創造の源泉を与え続けるだろう。そこではまた、幻滅もまた活力あるものである。新しいものを創造しようと欲し、人々を拘束するユダヤ主義の骨組みを壊してしまおうとする芸術家が出発する。
 しかしながら、イスラエルの野蛮が形成されはじめている。われわれが述べたいのはそのことなのだ。それは新しい世代に属している。日に焼けた少年たちと感動的な少女たちだ。だが、都市の連中は腐っている。田舎では、つまり、キブツと協同組合的な農業入植地では、それにもかかわらず、前進が続いている。建国以降、築かれた新しい産業はプロレタリアートを生み出したし、今も生み出し続けている。しかし、意識を持たないプロレタリアートだ。ロボットだ。
 若い農民たちは、疲れ果てた年長者たちのもとを離れる、他方で、若いプロレタリアートは、自らを自動機械にし、日一日と、自分の魂が空っぽになってゆくように感じている。
 イスラエルの革命的意識は、大地からしかやってくることはできないだろう。つまり、砂漠から、彩られたネゲフから。つまり、努力から。イスラエルの革命的意識は、また、知性から、理性を備え、そして、いつも運動の渦中にある精神からやってくるだろう。イスラエルの未来は、そこに粗描されている。現在、イスラエル人の精神のうちに、その確かな予兆を垣間見ることができる、新たな力の衝撃が響き渡るとき、その未来は始まるだろう。いかなるモダニズムにも囚われる必要はない。
 真に革命的な社会では、新しいものはそれ自身で、自らを破壊するのである。

ジャック・オヴァディア*1

*1:ジャック・オヴァディア イスラエル国籍のSIのメンバー。セクション無所属。1961年除名。