『自由時間の使い方について』 訳者解題

 1960年代の冒頭を飾るこの「論説」は、高度資本主義社会が生み出した「余暇」の増大と「消費」の拡大をめぐり、〈アルギュマン〉派の「左翼社会学者の天上世界」と、〈社会主義か野蛮か〉グループの新しいマルクス主義の「神話学的作業」をともに批判する内容になっている。
 1955年1月−2月−3月発行の『アルギュマン』誌第12−13合併号は、労働運動の再生のために「フランスの労働者階級とは何か」という特集を組み、経済学者と社会学者の7つの論文(ベルナール・モテの「労働運動の状況」、セルジュ・マレの「生成途上の労働者階級」、ダニエル・モーテの「労働者と搾取」、ミシェル・コリネの「労働者の新しい条件についての社会学」、ジャック・ドフニの「社会環境と労働者の現実」、ミシェル・クロジエの「プロレタリアートの時代は終わった」)と2人の組合活動家の意見を載せた。これらの論文と意見は、50年代半ばからの高度成長を遂げド・ゴールが推進する国家独占資本主義段階に入ったフランス社会の質的変化の中で、新しい労働者の姿を分析し、時代に見合った運動の可能性を探ることを意図したものだとされている。だが、たとえばこれらの全体の基調をなすアラン・トゥレーヌの論文が労働運動に対して行う提案は、組合を使った経営側への「要求」の体系的拡大と、高度産業社会の経済・政策の決定過程への労働者の「参加」(それをトゥレーヌは労働者による「管理」という言葉で呼ぶ)という、現状肯定の上に立つ改良主義的なものに過ぎない。
 これに対して、1959年4月−5月発行の『社会主義か野蛮か』誌 第27号は、ピエール・カンジュエールの「フィクションの左翼のためのフィクションの社会学」(セルジュ・マレについて)と、ジャン・デルヴォーの「社会階層とトゥレーヌ氏」という2の反論を載せる。彼らの〈アルギュマン〉派社会学者への批判は、確かに「新資本主義」は労働者の生活水準を押し上げたが、労働者の条件――その生活、その闘争、その意識――にとってそれは何ら本質的なものでなく、「新資本主義」が約束する新しい消費生活は非人間的で、逆に人々のフラストレーションを増大させるという点にある。
 シチュアシオニストはこれら2つの意見に対して批判を行うが、それは、〈アルギュマン〉も〈社会主義か野蛮か〉も、どちらも「余暇」と「労働」というものを分離・対立させた上に議論を行っているからに他ならない。〈アルギュマン〉派にとっては、大量生産の出現によって売るべき専門「労働」――すなわち特殊な技能――を失ってしまった現代の労働者の賃金は「労働」ではなくむしろ「消費」によって計られるのであり、それを決定するのは「余暇」である。しかし、ここには、その「余暇」を既存社会の提供する商品の消費のための時間として一義的にとらえ、既存社会の枠組みそのもの――その文化が提供するモノや、そのなかでの人々の生き方――を疑う視点はまったく存在しない。
 〈社会主義か野蛮か〉が突くのは、まさにこの点である。しかし、その彼らも、消費の共同体とも言える現代社会の住人に対して、消費による阻害を乗り越える具体的な方策は提出しえず、「真に人間的なあらゆる自主的活動」という抽象的な言葉で「労働」の価値への信仰を唱えるだけだ。その意味で〈社会主義化野蛮か〉の主張は、〈アルギュマン〉の「余暇」と「消費」を「労働」に裏返しただけだと言える。そこには新しい現実における文化戦略が決定的に欠けている。
 シチュアシオニストは「労働」の価値ではなく「遊び」の価値を称揚し、「余暇」の代わりに「自由時間」という言葉を用いることで、「労働」と「余暇」の区別を消滅させようとする。そして、そのときに高度産業社会が生み出す「芸術」と「技術」の資源を拒否するどころか、それを完全にわがものとして「贅沢」に使うことを提案する。が、それは、スペクタクルの観客としての「受動的消費」の行為なのではなく、スペクタクルを破壊する「積極的な焼尽=消費」のための「近代的道具」の「転用」行為である。これが、シチュアシオニストが高度資本主義によって変化した社会を前にして提出する戦略である。