『迷宮としての世界(ディー・ヴェルト・アルス・ラビリント)』 訳者解題

 60年代のシチュアシオニストのもう1つのキー・タームは「迷宮」である。1957年にドイツで出版されたグスタフ・ルネ・ホッケの書物と同じタイトルを持つこの論説記事のなかでは、60年4月に実際に計画され、結局は実現しなかったアムステルダム――それは、同心円状の幾重もの水路でできた迷宮的な都市である。――での大がかりな漂流計画の顛末が記されているが、シチュアシオニストは総じて「迷宮」への志向を強く持っている。
 アスガー・ヨルン*1は、コブラコブラという動物自体がバシュラールによると「生きた迷宮」である)の時代から錯綜した線を描き、そこから形態を浮かび上がらせるという手法で絵を描き、迷宮への関心を強くあらわしていたが、1963年には「シチュアシオニスト・タイムズ」から「迷宮」に関する映画、絵画、建築、人類学などの資料集まで出版している。また、本書の論文「開かれた創造とその敵」で彼がルメートルに対する反論として延々と書いている幾何学トポロジーについての考察と、新しく提唱する「シチュロジー」なる概念も、こうした「迷宮」的思考の文脈の中に理解されるものである。
 コンスタントは、1957年にアルバでジプシーのキャンプを見て以来、「ニュー・バビロン」という名の「迷宮」都市を追求し、その都市模型をいくつも制作した。そして、60年代末にその計画を断念して絵画に戻ってからもその生涯を通して「迷宮」内部のさまざまな風景を描き続けた。
 ドゥボールか唱える「漂流」もまた、既存の都市のさまざまな線を「ずらす=転用する」ことによって、それをこちら側から積極的に「迷宮」に組み替える作業である。50年代の初めから、彼がレトリスト・インターナショナルのメンバーとともに行ってきたさまざまな形の「漂流」の実験は、そうした都市の構築の迷宮化としてあった。あるいはそれは、資本主義的な都市の「物語」を解体し、資本主義の都市のコミュニケーションを阻害し、より錯綜した過激な迷宮によってそれを乗り越えるための「状況の構築」を目的としたものであった。その時代に作られた彼の映画第1作『サドのための叫び』はまさに次のような言葉で始まる――「この物語の最初には、この物語を忘れるようにされた人々がいた。そして、迷路のなかで迷うよりも、錯綜した美しい時代があった」。文字や絵の「転用」でできたドゥボールとヨルンの書物『コペンハーゲンの終わり』や、これもまた「転用」された要素からのみ作られた、ドゥボールの50年代の活動を回想する書物『回想録』、あるいはまた『心理地理学的パリ・ガイド(ネイキッド・シティ)』などの地図は、こうした迷宮化された都市の漂流記録として読むこともできるだろう。
 シチュアシオニストの「迷宮」は、ルネ・ホッケの迷宮のようにこの世界をマニエリスム的な迷宮と見てそれをただ単に解釈したものではなく、世界そのものを「迷宮」に改造するという積極的な意味を持っている。コンスタントの「ニュー・バビロン」もドゥボールの「漂流」も、既存の世界の地理を迷宮化し、「スペクタクルの社会」の国土を整備し直す強い意思の現れである。「統一的都市計画」のなかにも「状況の構築」のなかにも、この「迷宮」への嗜好が色濃く流れている。シチュアシオニストは、迷宮のなかに閉じこめられた牛の頭と人間の身体をもつ怪物ミノタウロスではなく(それはシュルレアリストのお気に入りだった)、その迷宮を作り出した知恵と技術の達人ダイダロスたらんとしたのである。

   

*1:アスガー・ヨルン (本名)アスガー・オルフ・ヨルゲンセン 1914―73年)デンマーク生まれの画家、思想家、人類学者。コブラの創設者として北欧・ベネルクス3国からイタリアまで戦後ヨーロッパの前衛芸術運動に大きな影響を与えた。1948年、コブラを創設、コブラの解散後、1953年に「イマジニスト・バウハウスのための国際運動」を組織する。1957年、ドゥボールらとともにシチュアシオニスト・インターナショナルの創設に加わり、そのフランスセクションで活躍。61年にSIを脱退した後は、「比較ヴァンダリズムスカンジナヴィア研究所」を拠点に芸術活動を続ける一方、故郷のシルケボアに象徴主義シュルレアリスムからコブラシチュアシオニストに至るまでの作品と資料を収集した美術館を開設し、その運営を行った。