ドゥボールの死について

 本書の校正の最中に、ギー・ドゥボールの自殺を知らされた。12月2日、本書にも解説を書いていただいたパリのコリン・コバヤシ氏からのファックスで、フランスの新聞がドゥボールの自殺を報じているとの知らせを受けたのである。コリン氏からすぐにファックスで送っていただいた12月2日付『リベラシオン』や3日付『ル・モンド』の記事では、ドゥボールは11月30日の夜、オーヴェルニュ地方の自宅で自殺したということだった(後にアリス・ベッカー=ホーさんから送られてきた出展不明の別の雑誌の記事では12月1日)。『ル・モンド』も『リベラシオン』もそれぞれ、彼の死を一面トップで扱ったうえで、さらに文化欄で1ページから2ページ全部を使ってドゥボールシチュアシオニストを特集し、ドゥボールの映画やシチュアシオニストの活動と影響についてエドゥアール・ワイントロップら数名の論者が論じた。その後も12月6日『ル・モンド』紙のフィリップ・ソレルスによるドゥボールの映画への賛辞、12月6日の『リベラシオン』の「何よりもまず(ダボール)、ドゥボールを」と題したソレルスや画家のメリ・ジョリベら3名の追悼文、『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』誌(12月8−14日号)、『レクスプレス』誌(12月8日号)のフランス二大週刊誌での特集など、フランスのマスメディアはこぞってドゥボールの死を「スペクタクル」に仕立てようとしているかのようだった。だが、結局、こうしたメディアによる「スペクタクル」化に、ギー・ドゥボールの死は十分よく抵抗したといえるだろう。というのも、これらのマスメディアは、ドゥボールの最近の写真を掲載すること(『リベラシオン』が、一面トップに飾った写真は1952年の雑誌『イオン』に掲載されたほとんど顔の解らない写真だし、『ヌーヴェル・オプセウヴァトゥール』の写真は1989年『ル・モンド』紙上でのフィリップ・ソレルスによる書評で使われた写真である)も、その最近の様子を伝えることもできなかったし、まして、なぜ彼が自殺したかに関しては、何1つ確かなことは伝えることはできなかったからだ。どぅボールのしについての唯一の具体的な「情報」は『ル・モンド』が最初に報じた内容、つまり、どぅボールが最近住んでいたオーヴェルニュ地方の村の役場に彼の埋葬許可証の申請があったということだけである。

アルコール性多発神経炎(polynévrite alcoolique)と呼ばれる病気が、90年秋に発見された。最初はほとんど感じとれなかったが、次第に進行していった。本当に耐え難いものとなったのは、94年11月終わりからのことにすぎない。
不治の病はすべてそうであるが、養生のために走り回ったり、治療を受け入れたりしないほうが利益は大きいものだ。これ[=私の病気]は、後悔すべき軽はずみな行動によってかかる病気とはまったく逆のものである。逆に、それ〔=この病気にかかる〕には、生涯をとおして考えを堅く貫き通すことが必要である。」

 これは、ドゥボールの長年の同伴者アリス・ベッカー=ホーから著者への手紙に添えられていたもので、アリスによればドゥボールが自殺の直前に彼女に口述タイプさせた文章のコピーである。これが、「生涯をとおして」シチュアシオニストとしての「考えを堅く貫き通」すとともに、「生涯をとおして」多くの酒を飲み続けたギー・ドゥボール(彼は実際、1989年の著作『称賛の辞(パネジリック)』のなかで、若くから相当の酒を飲み続けたことを書いている)の自殺の、ドゥボール自身による説明である。この文章は、1月9日、フランスのペイ・テレビ〈キャナル・プリュス〉で放送されるドゥボールに関する番組(その中でドゥボール自身が2ヶ月前に協力して作られたブリジット・コルナンのドキュメンタリー「ギー・ドゥボール、その芸術とその時代」と、ドゥボールが1973年に製作した映画『スペクタクルの社会』が上映される。われわれは今、この春に日本でこの番組を見る催しを計画している。)の後で公表されるらしい。ドゥボールは、ピストルを使った自殺によって自らの「生」とともに「死」までも自分の意志のもとに置くだけでなく、その「死」に関する情報をマスメディアに売り払わず、あくまで自ら管理した情報を自らの選択に従って提出することによって、「死」という最もスペクタクル化されやすい出来事を徹底的に非スペクタクル化しようと試みたのだと言えるだろう。
 昨年の春、われわれがこの翻訳の試みを告げたとき、ドゥボールは訳者への手紙で次のように書いて来て、この試みに全面的に賛意を表してくれた――「SIの機関誌のすべてを翻訳するのは大変な作業です。しかし、実際、それは、アメリカ人たちの本当に一面的な観点を正す最良の手段です。深田卓が危険を冒して引き受けた勇敢なエディションのために、わたしたちのかつてのアンチ−コピーライトの方式を適用することは確かにまったく正当なことです」。そして、昨年7月に本書 第1巻『状況の構築へ』を送ったときもことのほか喜び、今後の「付録資料」といて収めるべき貴重な文書(特に『危険! オフィシャル・シークレットRSG−6』と題したイギリスの政府核シェルター破壊闘争に関するSIのパンフレット)を送ってきてくれた。ドゥボールはわれわれのこの翻訳のただ1巻だけを受け取って死の世界(そんなものがあるとして)に行ってしまった。シチュアシオニストの運動がドゥボール一人のものでないことは言うまでもない。(とはいえ、その運動の最初から最後までドゥボールが果たした役割は途方もなく大きいと言わねばならない)が、それでもやはりわれわれのこの翻訳作業にとって彼の死はこの上なく残念なことである。
 われわれは、ドゥボールの死をフランスのマスメディアのようにスペクタクル化して「消費」するのではなく、彼の死にもかかわらず、われわれ自身の翻訳作業をしっかりと進めてゆきたい。それが、ドゥボールの「死」を記憶するのではなく、その「生」を記憶する唯一の方法だと思う。

1995年1月3日 監訳者しるす