『パリ陥落』 訳者改題

 戦後のパリの文化的地位の低下は、たとえば第二次大戦後、現代美術のヘゲモニーがパリからニューヨークへと移ったことをもって言われることが多い。ナチスが政権をとり、ヨーロッパの他の国々を侵略し始めると、バウハウスのメンバーやシュルレアリストらが続々とニューヨークに亡命し、その地で活動を開始する。戦後、これらの者の影響を受けて、ジャクソン・ポロックやアーシル・ゴーキー、ヴィレム・デ・クーニングなどの「抽象表現主義」絵画や機能主義の建築が、ニューヨーク近代美術館など現代芸術を積極的に支援する美術館を中心に、ヨーロッパの模倣ではないアメリカ的な美術として力強く展開された。パリでは、アンフォルメルなどの試みが断片的に行われはしたものの、総じてシュルレアリスムや20世紀初頭のピカソマチスなど過去の遺産の自己模倣を繰り返すだけで、新しい活力には乏しく、その都市の芸術的地位は相対的に低下した。加えて、ナチスによる占領の後遺症で、フランスの映画産業の威光は陰り、余暇産業の分野でのアメリカの優位は隠しようのないものとなっていた。戦後、フランスにはハリウッドの映画が押し寄せ、フランス人はまぶしいアメリカ映画に熱狂していった。
 こうしたなか、1959年からド・ゴール政権の文化相となったアンドレ・マルローの文化政策は、一方で、文化の家や博物館、図書館、記念碑などをフランス各地に建設して文化装置による国民統合を図りつつ、他方では、アメリカから文化・芸術のヘゲモニーを奪回することを目指した。その意味でそれは、産業構造の近代化と核兵器保有などの独自の軍事力によってフランスのヨーロッパでの地位を向上させ、それをもって米ソの世界戦略に対抗しようとするド・ゴールの政策の一翼を担っていたのである。国家が文化を保護し、文化の創造に力を貸すという「文化闘争」政策は、以後、フランスの基本政策となってゆく。
 「偉大なフランス」を掲げるこうしたド・ゴールの政策に対して、戦争直後の2年あまりの間ド・ゴールとともに政権を担ったフランス共産党は、60年代に入って、表面的には「ファシズムの再来」に異を唱え、ことあるごとに反対の票を投じていたにも関わらず、アルジェリアの問題に関しても、文化政策に関しても、はっきりとした反対の行動は行わなかった。アルジェリア問題に関して言えば、56年のギー・モレ社会党内閣のアルジェリア弾圧強化策である「特別全権」に対して「左翼の統一と団結」の立場からフランス共産党は、その後も一貫して「交渉による解決」を唱えるだけで、FLNを「過激派」と呼び、その闘いに対する支援は行わず、FNLを支援するフランス国内の運動に対しても「冒険主義」、「分散主義」のレッテルを貼って非難した。その底には、レジスタンス以来、あるいは1937年の人民戦線以来、フランス共産党の中に延々として生き延びてきたフランス中心主義思想が流れている。フランス的なものの価値を擁護・顕揚するという点では、ド・ゴールやマルローと、フランス共産党との間には、矛盾はないのである。しかしこれは、フランス共産党に限らず、フランスの左翼と呼ばれる部分全体の特徴であるだろう。
 シチュアシオニストは文化と政治の双方においてこうした「フランス的なもの」に対する「裏切り」をむしろ公然と称揚するのである。