イタリア・セクションの活動

 さる5月30日、トリノのある画廊で、ピノガッリツィオの工業絵画(パンチュール・アンデュストリエル)の最初の数ロールが展示された。この工業絵画は、われわれのアルバの実験工房で、ジョルス・メラノッテ*1の援助のもとに生産されたものである。この展示は、ほとんど間をおくことなく(7月8日)ミラノでも行われたのだが、われわれの見るところでは、旧来の造形芸術を消滅させようとする運動において決定的な転回点を徴づけるものであり、また、われわれのイタリアの同志たちの「自立した絵画に抗して、応用〔された〕芸術に抗して、環境の構築に応用しうる芸術を」というスローガンに表明されているような、造形芸術を新たな力へと変形するための諸前提をその内に包含しえたひとつの到達点でもある。
 トリノの展示の際に刊行され、また、そのすぐあとにミラノでも再版されたテクストにおいて、ミシェル・ベルンシュタインは、この展覧会が与える経験の正当性を理論的に明らかにしている。
 「この驚くべき発明のいくつもの優れた点を、ただ1度で、すべて理解しようとしても、それはできるものではない。いろいろなことが入り混じっているのだから。たとえば、作品のフォーマットの問題はもはや存在しない、なぜなら、買手の目の前で、好むとおりの大きさに画布が裁ち切られるのだから。時期による出来不出来の問題も生じない、偶然的な要素と機械的な要素をたくみに配合することによって、工業絵画のインスピレーションが失せることは、決して起きなくなるからである。形而上学的テーマもない、工業絵画は、そんなものを支持しないのだから。永遠の傑作の疑わしい複製も存在しない。オープニングのレセプションもない。
 したがって、当然のことながら、やがて画家なるものも存在しなくなる、このイタリアにおいてさえ。(……)
 自然に対する支配の進展は、偶発的で、1回的な『芸術』の実践が公共領域での大量の=大衆的な普及にとって代わられ、最終的には、一切の経済的な価値の喪失へと向かうことによって、ある種の問題が消滅していく歴史である。
 このようなプロセスを前にして、反動的勢力はつねに、古くからの問題に値段をつけなおそうと試みる。アンリ2世の本物の食器棚、アンリ2世の偽物の食器棚、名のない贋作の絵画、サルバドル・ダリのどうでもいい作品の、正規のプリント部数を超えて番号づけされているエディション、ありとあらゆる領域の手のこんだ作品。革命的な創造は、新しい問題を、新しい構築──それだけが値をつけるに値するものだ──を規定し、また、拡張しようと試みるのである。
 絵画の工業化は、この20年というものつねにやりなおしばかりを続けて利益をあげている道化たちの面前で、遅れをとることなしに介入を企てなければならない技術的進歩として現れる。彼の倦むことのない探求を、絵画の旧世界がもはや何も残っていないこの地点まで果敢に推し進めることが出来たというのは、ガッリツィオの偉大さを示すものである。
 絵画的オブジェの克服と解体のためのこれまでの歩みは、抽象化を極限まで推し進める(マレーヴィチ*2が切り開いた路線)にせよ、十分な知的作業によって絵画を造形性を超えた要素への関心に従わせる(たとえばマグリット*3の作品のように)にせよ、何10年ものあいだ、絵画的な手段そのものによって枠づけられた、芸術的な否定の反復という段階から抜け出ることができなかったことは誰でもが認めるところである。つまり、これらは「内部からの」否定なのである。
 問題がこのように立てられるなら、所与の同一のものの言いなおしを無限に続ける以外不可能であったし、その過程の中には、問題を解決するのに必要なものは含まれてはいなかった。しかしながら、私たちの目の前で、ありとあらゆる方向から、世界の変革が追求されていた。
 私たちがいまたどりついた、新たな集合的な構築と、新たな総合の実験の段階では、ネオ・ダダ的な拒否によって旧世界の価値と闘っている暇などもはやない。たとい、それがイデオロギー的なものであれ、造形的なものであれ、あるいは、財政的なものであるとしても、それらの旧来の価値にインフレーションをひきおこして、炸裂させてしまうことこそがふさわしい。ガッリツィオはその最前線にいるのである。」

 彼女に次いで、アスガー・ヨルンが工業絵画の展示の後にこう宣言するであろう。「ピノガッリツィオの工業絵画をインダストリアル・デザインと同列のものたりうるなどと想像するとするなら、過ちをおかすことになるだろう。複製=再生産すべきモデルが問題なのではない。シチュアシオニスト的な環境の経験=実験という目的以外には、まったく役に立たない1度限りの創造物の実現が問題なのだ。それは、ばらばらの断片にして売られる絵画というものである。
 社会的な成功は、努力の評価によって計られる。この評価は、ガッリツィオが実現したものを導いていた、絵画に対する価値剥奪の意図とは、直接に対立することは明白である(……)」
 そして、工業絵画の予期せぬ商業的成功に触れながら(「ヨーロッパやアメリカの最も知的な層に属するコレクターたちには、製品[=作品]は、ロール単位で売られたのであるが、この絵画の断片を極めて安い値段で買おうとする者はいなかった……」)、ヨルンは、経済の領域でのこの思いがけなくつけ加わった経験をわれわれは重視する必要があることを強調した。事実、絵画取引業界の側からの応急的防衛反応が問題となっているのである。彼らは、この工業絵画全体が、現実に存在する芸術の世界の外にあると宣言することはためらっていたくせに、あたかも、これらのロール1本1本がひとつの大絵画であるかのように扱い、才能と趣味というこれまでの基準で計ることができるかのように振る舞って、それを今までの彼らの価値休系のなかに統合することにしたというわけだ。
 シチュアシオニストの「工業絵画オペレーション」の責任者は、いま、この危険に対して、2つの手段によって対応しようとつとめている。ひとつは、価格の引き上げである。8月の終わりに急遽、メートルあたり1万リラから4万リラに引き上げられた。もうひとつは、ひと続きの長さがより長いロールの生産である(6月までに生産されたものは、最大の長さが70メートルを超えなかった)。われわれが工業絵画をどのように使用することができるかは、直接的には、ギャラリーでの芸術の提示からラディカルに断絶した展示がいかに可能かに係っている。そして、別の面では、作業工程の改良に係っている。それを、いまだ職人的な段階から、真に工業的な効率性を達した段階へと進めなければならない。
 ジョルス・メラノッテとグラウコ・ヴェルリッヒ*4の、データに満ちた研究が取り組んでいるのは、まさに、この技術的な問題であった。それは、こう強調している。
 「何よりも、工業的という言葉を目にするや生じてくる疑念とは、きっぱりと手を切る必要がある。この言葉によって、われわれは、工業的生産の基準(労働時間、生産コスト)や、あるいは、機械に内在する性質と、芸術的生産との結合を肯定しようというのではない。そうではなくて、われわれは、この言葉によって、生産の量的な理念を確立するのである。
 工業絵画の最初のサンプルの製作の過程で出会った大きな困難のうちのひとつは、空間が足りないということであった。縦に長く伸びた、風通しがよく、明るい、かなり大きな空間が使えることが、この生産のための設備としては必要なのだ。われわれとしては、十分な場所がとれなかったので、気化した溶剤の害を避けるためにガスマスクを着用しなければならなかった。(……)
 量的に満足のいくだけの生産を行うために克服すべき困難の中でも最も重要な点は、実は、色をつけたあとの速やかな乾燥の問題だったのだ。(……)
 工業絵画にその特性を与えることになるものは、チームを組んでの共同作業であるだろう。」
彼らが、呆気にとられる観客たちとジャーナリズムの愚鈍な論評に向けて………とりわけ、トリノの展示に工業絵画を身にまとった2人のカヴァー・ガールが現れたときの驚きよう………工業絵画を提示した、まさにその瞬間に、イタリアのシチュアシオニストたちは、別の戦場へと、そこで活動すべく連れ出されていったのだった。
 6月の終わり、ミラノの1人の若い画家で、これ以外にはまったく興味を引く点などない、ヌンツィオ・ヴァン=グリエルミなる人物が、自分に関心を向けさせる目的でラファエロのタブロー(『聖母戴冠』)に軽微な損傷を与えた。作品を護るためのガラスにこう書かれた手書きの紙を貼り付けたのである──「イタリア革命万歳! 坊主どもの政府は出ていけ!」。彼はその場で逮捕され、すぐさま精神の異常を宣告され、いかなる異議申立ても行えぬまま、ただこの行いひとつのために、ミラノの精神病院に収容された。
 これに対し、ただ、シチュアシオニスト・インターナショナルのイタリア・セクションだけが、「あらゆる場所で自由を擁護せよ」というビラで抗議を行った。そのビラは、イタリアの多くの印刷所が用心して印刷を拒んだために、やっと、7月の4日になって出来上がったのだった。
 「われわれは確認する、とそのビラは言う、グリエルミによるラファエロのタブローへの貼り紙の内容は(……)われわれもその一部である、イタリア人の大多数の見解を表明するものである。
 われわれは、教会と美術館の死せる文化の価値に対する敵対的な身振りが狂気の証拠として(……)解釈されているのだという事実に注意を喚起したい。
 われわれは、このような前例は、すべての自由な人間と、すべての、来るべき、芸術的、文化的な発展に対する脅威であることを強調する。
 自由とは、まず、偶像の破壊のうちにあるのである。
われわれのアピールは、イタリアのすべての芸術家と知識人に向けて、グリエルミに対して宣告された終身刑から彼を救い出すために直ちに行動を起こすよう訴える。グリエルミは、ただ、公共財産の破損を規定した法の条項にてらしてのみ判決が下されるべきである。」
 フランス語で、7月7日に発行された2番目のビラ「ヴァン=グリエルミを救え!」では、アスガー・ヨルンが、SIの名のもとに、今回企てられた行動に支持を与えている。
 「グリエルミの動機は、未来派から今日にいたるまでの現代芸術の核心に位置するものである。いかなる判事も、精神科医も、美術館館長も、改竄なしにこの反対を証明することはできない。(……)
 世界中のプレスに流されたラファエロの写真には公的機関による改竄が施されていた。画布の実際の損傷は極めて小さいもので、雑誌上の複製では見えないようなものなのだ。写真に写っている線は、画布の大規模な破壊を示しているように見えるが、それは、タブローの前に置かれているガラスが割れているにすぎない。さらに、これらの線は、写真では、事態をもっと重く見せるために、白と黒で人工的に強調されているのだ。反対に、ガラスに貼り付けられたマニフェストのテクストは、何やら巧妙なやり方で、イタリアの雑誌ではまったく読み取れないものにされていた。」
 まさにこの翌日にミラノでの展覧会がオープンしたのである。われわれのイタリア・セクションは、イタリアにいた他のシチュアシオニストたち(ヨルンと、ベルギー・セクションのモーリス・ヴィッカール)による増強をうけ、ミラノで、全面的な敵意に取り囲まれながらビラを撒いたのである。ある雑誌にいたっては、ラファエロの複製を、ラファエロを破壊しようとしている狂人たちの絵の複製と見開きで載せる始末である。しかしながら、7月19日、万人にとって驚きであったが、グリエルミは、ミラノの精神病院長によって、精神的にまったくの健康であると認められて解放された。
 この事件の落ちはきわめて教訓的である。グリエルミは、かなり怯えた様子で、赦しを請うために、ラファエロの聖母の前で膝まづき、祈りを捧げる姿を写真に撮らせた。彼がそれまでは徹底的にこきおろしていたはずの芸術と宗教への崇拝を突然に示したのである。最初から最後まで合理的であったこの事件でのイタリア・セクションの正しい立場は、イタリア知識人の下種どもの中でのその孤立を一層つよいものにした。そんな下種野郎の中でも吐き気を催させるような連中(雑誌『ノテイツィエ』*5の編集長の金儲け主義者、ピストイのような輩だ)は、シチュアシオニストに詐欺まがいのやり方で取り入ろうとしたあとで、自分たちの本当の陣地がどこにあるのかをはっきりと理解した。それは、ミシェル・タピエであり、輸出向けのフランス・ネオファシズムであり、そして、彼らが忘れることができない坊主どものところである。

*1:ジョルス・メラノッテ SIイタリア・セクションのメンバーで、ピノガッリツィオの息子。1960年除名

*2:カジミール・マレーヴィチ(1878-1935年) ロシアの画家。1915年、ペトログラードでの個展に出品した『黒い四角形』など、幾何学的形象を描いた一連の非具象絵画によって、シュプレマティズムを唱えた

*3:ルネ・マグリット(1898-1967年) ベルギーのシュルレアリスト画家。

*4:グラウコ・ヴェルリッヒ イタリアのシチュアシオニスト。1960年除名

*5:『ノテイツイエ』 ルツィアノ・ピストイが運営していたトリノのノティツィエ画廊が出していた雑誌。この嶺廊は、最初はアンフォルメルの主導者ミシエル・タビエの行っていた「美学研究国際センター」に関わり、北イタリアにおけるヨーロッパの前衛芸術の情報センターとして機能していたが、1958年、ガッリツィオの依頼でドゥボールの「状況の構築に関する報告」のイタリア語版を刊行し、シチュアシオニストに接近した。