シチュアシオニスト情報

 SI創立時に29.5歳より少し高かった平均年齢(わずか4年前の1953年夏、レトリスト・インターナショナルの平均年齢は21歳よりわずかに低かった)は、たった1年の間に32歳を上回るまでになった。

 本誌編集委員会の委員の交代(ピノガッリツィオからヨルンヘの交代)は、個人的に工業主義絵画の指導を続けているガッリツィオが、一時、その大仕事に全精力を注がなければならなくなったという事情によるものにすぎない。
 ただしW・コールンは、昨年5月に決定されたベルギーでの出版計画を実行できない状態になったため、当面のあいだ、彼がSIのためにベルギーで引き受けた任務を解除されることになった。

 ド・ゴール主義に対する闘いのために、経済闘争や政治闘争以外の形態での革命闘争がなおざりになってはならない(……)。シチュアシオニストの企ては遊びに訴えることである。遊びは、人間の自由をおそらくもっともよく表現するとともに、芸術的創造の根底にある機能である。この遊びという経験は、全面的革命(集団的な生の物質的・精神的なすべての構造を、それぞれ不可分なかたちで変容させること)のパースペクティヴの中に位置づけられるものであり、われわれはこれに無関心ではいられない。

ルネ・フュグレル『ル・モンドリベルテール』*1

第41-42号(1958年8-9月)

(……)「インターナショナル・シチュアシオニスト」を自称する一派は、何か新しいものをもたらしているつもりで、曖昧さと混乱ばかり生み出している。しかし状況を釣り上げるのは、こんな濁った水からではないのか。

バンジャマン・ペレ『ビエフ』誌 第1号(1958年11月15日)

 (……)われわれの野心は文句なしに誇大なものである。しかし、一般に幅をきかせている、成功という基準でそれを計ることはできまい。思うに、生の変容をはかることに従事する未来の政府の余暇省でなら、わが友人たちは皆、熟練工の賃金で人知れず働くことに甘んじるだろう。

G=E・ドゥボール『ポトラッチ』誌 第29号(1957年11月5日)

 クロード=ニコラ・ルドゥ*2がショーの製塩工場に建築した建物群にいくつかの一連の状況を構築するために、近くSIでは同ビル群の整備状況を調査する予定である(ピエール・カスト*3がこの建築家の作品を撮った短編映画を参照のこと)。
 この建物群を変容させるプランは現在放棄されたままであるが、事情が許し次第、修正の上で実行に移されることになろう。ショーの製塩工場を遊びの方向に再転換させられる見通しがたたない場合には、このプランのために準備された観察と結論は、ヨーロッパにある利用可能な他の建築物の転用のために用いられるだろう。


 
 イギリスの元シチュアシオニスト、ラムネイが、本誌前号で告知された除名の決定的性格を理解しようとしないため、われわれとしては改めて次のことに注意を促さざるをえない。すなわち、われわれにとって彼は、その思想においてもその生においても、完全に無用なものとなっているということである。彼が『アルク*4その他の雑誌に、心理地理学その他どんなテーマで物を書こうと、また彼がわれわれの誰彼の名前をどう利用しようとするも、SIとは一切無関係である。 

*1:ル・モンドリベルテール』 フランスのアナキストの代表的機関紙。

*2:クロード=ニコラ・ルドゥ(1736-1806年) フランスの建築家。奇抜な空想的建築を多く構想し、フランス革命直前に、ショーの製塩場のための巨大な集合建築「アルク=エ=セナン製塩工場」(1774年起工)や、巨大な記念碑「パリ税関門」(1785年起工)などを手掛けた。革命時に獄中で書いた『芸術と道徳および法治の観点より見た建築』(1804年)は、この大空想家の建築理論として名高い。

*3:ピエール・力スト(1920-) フランスの映画監督。『ルヴュ・デュ・シネマ』、『カイエ・デュ・シネマ』などで映画批評家として出発し、1949年から短編映画の監督を、1957年からは長編映画の監督も手掛ける。短編に『シネマサクル(映画虐殺)』、『プレイアード百科辞典』(1950年、ボリス・ヴィアンとの共作)、『実存の魅力』(1950年ヴェネチア・ビエンナーレ短編映画グランプリ)など、長編に『ポケットの恋』(57年)など。

*4:アルク 現在も発行されているフランスの文芸雑誌。