われわれの手段と今後の展望について

 以下にあげる3編の文書は、9月にコンスタントがSIに提起した論議の覚書である。2番目の文書はアスガー・ヨルンとの討論を受けて、本誌の編集委員会の見解を説明したものである。



 ヨルンの書いたもの(「機能主義に反対する」、「構造と変化」等)を読み直すと、そこに述べられている意見のいくつかは、ただちに批判されねばならないことは、明白に思われる。それらの意見は、彼の行う絵画活動同様、統一的都市計画となりうるものの概念に照らして弁護できるものではない。現代美術の歴史に関して言えば、ヨルンはダダイスムのポジティヴな重要性を過小評価する一方で、かつてのバウハウスにおけるロマン主義者(クレー)たちの役割を過大に評価している。彼の工業文化に対するアプローチはナイーヴで、彼によると想像力は個々の個人に属していることになる。
 私は絵画における個人主義的プリミティヴィズムにも、冷たい抽象とか冷たい構成と呼ばれているものにも興味はないが、この2つの流派の間の論争はうわべだけのものであり、見せかけにすぎないことを強調している。
 工業、機械文化は否定できない事実であり、職人的なやり方は、この2つの流派の絵画も含めて、死を宣告されている(「自由な」芸術という概念は誤りである)。
 機械はあらゆる人にとって、芸術家にとっても、不可欠な道具であり、工業は世界的な規模での人類の欲求──たとえ美的欲求であっても──に答える唯一の手段である。
 このことは芸術家にとって、もはや「問題」ではない。これが現実なのであって、この現実を無視すると芸術家は必ずや報いを受けるだろう。
 機械を警戒する人も、機械を賛美する人も、機械を使うことはできない。
 機械による仕事と大量生産は創造に前代未聞の可能性を与える。この可能性を大胆な想像力をもって利用できる人が明日の創造者になるだろう。
 芸術家のつとめは新しい技術を発明し、光と音と動き、そして一般に、環境に影響を与えるようなすべての発明を利用することである。
 以上のことが認められなければ、居住空間の構築に芸術を導入することは、ジル・イヴァンの提言のように夢物語にすぎない。
 コブラの時代から10年たった。実験芸術と自称する芸術の歴史はわれわれにその誤りを明示している。
 6年前に私はそこから結論を引き出した。そして、絵画を捨て、統一的居住空間の概念にかかわる、より有効な実験に身を投じた。
 この点に向けて議論が必要である。これはSIの発展に決定的な意味を持つことになろう。



 シチュアシオニストの見地から弁護できる絵画は存在しない。この種の問題はもはや提起されない。1枚の絵について言えるのは、せいぜいその絵がこれこれの構築に適用できるということだけだ。われわれは細分された個々の表現を越えて、いかなるスペクタクル(それがどれほど複雑になろうとも)をも越えて探究しなければならない。
 当然、今ある文化の現実からしか出発できないのだから、混乱や妥協や失敗の危険がないとは言えない。だが、もし、現在の芸術のいくつかの価値がSIの中でも支配的になれば、現代の真の文化的実験は他の所で試みられることになろう。
 時代遅れの職人の自由に拘泥する芸術は、いかなるものでも、すでに敗北している(ヨルンはバゥハウスにおける、こうした反動的傾向をどこかで力説していた)。未来における自由な芸術とは、新しい条件付け=心理操作の技術をすべて支配し、利用する芸術であろう。この展望以外に自由な芸術は存在しない。他は人為的によみがえらされた過去とコマーシャリズムの奴隷にすぎない。
 われわれは工業の積極的な役割についてはどうやら意見が一致しているようだ。文化一般の危機的状況を生み出したのは当節の物質的繁栄だが、その同じ繁栄が実生活の統一的構築において状況を逆転する可能性を生み出すのだ。
 われわれは「機械を警戒する人も、機械を賛美する人も、機械を使うことができない」という文章に同意するが、次のように付け加える。「機械を変えることもできない」と。弁証法的な関係を考慮に入れなければならない。環境の構築はただ単に、技術の進歩によって可能になった高度の芸術的達成を日常生活に適用することではない。それはまた、生活の質的変化でもあり、この変化は技術手段の恒常的な転換を引き起こす可能性を持つ。
 ジル・イヴァンの提言は近代的工業生産に関するこうした考察とまったく背反しない。それどころか、彼の意見はこうした歴史的基礎付けの上に成り立っているのである。それが夢物語に見えるのは、われわれが今日の技術手段を実際に自由にしていないからに他ならない(いかなる社会的組織形態も、まだこれらの手段を「芸術的に」実験的に使用することはできないから、と言いかえても良い)のであって、これらの手段が存在しないせいでも、われわれがそれを知らないせいでもない。この意味で、われわれはこのような、過渡的にはユートピア的に見える諸要求の革命的な価値を信じている。
 コブラの失敗と、解散後の一部の人々の好意的な反応は「自称実験芸術」という言葉によって説明できる。コブラは善意や実験芸術というスローガンがありさえすればいいと思っていた。だが、実際はこのようなスローガンを見つけたときに難問が現れるのだ。現代の実験芸術とはどのようなものか、そして、いかにしてそれを実現するのか?
 もっと有効な実験が統一的居住空間をめざしてなされよう。この居住空間は静的で孤立したものではなく、人間行動の過渡的な単位と関連するものである。



 われわれの討論のクライマックスは、今ある芸術の利用の仕方をめぐってにあるようだ。
 私としては、環境の構築に必要なショッキングな性格は絵画や文学といった伝統芸術の利用を許さないと考える。これらの伝統芸術はもはや使い古されており、新しいものを発見することができない。また、神秘主義個人主義と密接に結びついている芸術はわれわれの役には立たないからだ。
 したがって、われわれは視覚、口承、心理学などあらゆる領域でいくつもの新しい技術を開発しなければならない。将来的には、それらを組み合わせることによつて統一的都市計画のような複雑な活動を生み出すことになろう。
 伝統芸術をより広範で自由な活動に置き換えるというアイデアは今世紀のあらゆる芸術運動の特徴である。デュシャンの「レディ・メイド」(1913年に始まる)以来、作品の創造が実験的行動と直結しているような一連の無償のオブジェが芸術運動の歴史を区切ってきた。ダダ、シュルレアリスム、「デ・ステイル*1構成主義コブラレトリスト・インターナショナルは芸術作品を超越する技術を探究した。今世紀のさまざまな芸術運動は一見、対立しているように見えるが、このような共通点を持っている。そして、これこそが、絵画と文学の領域においてはほぼ成功したという風説によって窒息している現在の文化にとって真の発展にほかならない。絵画と文学はまだ息絶えていないのである。
 商業上のさまざまな理由から、現代美術の歴史は信じられないほどに歪曲されてきた。われわれはもはや、それを大目に見ることはできない。現在の文化について言えば、たとえ、それが全体としては捨て去らねばならないものだととしても、正しいものと誤ったもの、さしあたり役に立つものと害をなすものを厳しく区別しなければならない。
 純粋に形式的な研究は、われわれの目的に合わせて改良すれば、役に立つものと思う。
 絵画や文学の死体を埋葬するというくだらない仕事は公認の墓掘り人に任せておこう。われわれの役に立たなくなったものの下落にわれわれは関知しない。それは他の人々の仕事だ。

コンスタント   

   

*1:デ・ステイル1917年から31年まで発行されたオランダの月刊美術雑誌『デ・ステイル』に拠ったピエト・モンドリアン、ファン・ドゥースブルフ、ファン・デル・レックらの美術グループ。垂直線と水平線、三原色と無彩色による新造形主義を唱えた