『ポトラッチ2』 訳者改題

 ここにはレトリスト・インターナショナル(LI)の機関誌『ポトラッチ』の第12号(1954年9月28日発行)から第22号(1955年9月9日発行)までの抄訳を収める。本書第2巻『迷宮としての世界』の付録資料には『ポトラッチ』の第1号から第9−10−11合併号までの全訳を掲載したので、それに続けて、今回の巻に第12号から第22号までのすべての記事を収める予定で翻訳を終えていたが、ページ数の制約からその一部分しか収められなかった。分量的には全体のほぼ3分の1になってしまったが、LIの活動と関心の幅が実感できるよう、記事の選択についてはできるだけ変化に富むよう配慮したつもりである。とは言え、ここに紹介できなかった残りの記事にも興味は尽きない。新聞の三文記事への批評(「腐り果てた青年たち」)、教会から「平和賞」をもらったチャップリン(「鉄のカーテンのないポリ公と司祭」)、雑誌『エル』のためにシュルレアリスムヴェネチアの観光案内を書くサガン「1つの幻想の未来」)、サン=ジュストを誉め称えるド・ゴール主義者のマルロー(「髭を取れ、おまえの正体は見破られたぞ」)、罵倒すべきクローデルの死(「車に慄かれた犬」)、ソヴィエト連邦作家会議「詩」の進化を語るおめでたいアラゴン(「条件反射」)などのスター知識人への批判、ヴェトナム和平協定への批判(「サイゴンで軍隊蟻(マラブンタ)が唸っている」)、フランコのスペインに現れた体制派労働運動(「子牛礼賛」)、ソ連でのマレンコフの失脚(「12回まわって、去ってゆく」)、ベルギーの労働運動(「ベルギー、小さなアメリカ大陸」)などの政治問題への鋭い考察、ドゥボールらが〈メタグラフィ〉と呼ぶレトリスト芸術や音楽の紹介(「あらゆる新秩序」、「より広い構築物における音楽的環境について」)、アスガー・ヨルンの建築論『イメージと形態』の紹介(「生の建築」)、LIの展覧会の開催をめぐるベルギーの画廊経営者デュティユールとの容赦ない手紙のやり取り(「守るべき距離」、「レトリスト・インターナショナルに対抗するデュティユール」)、レトリストの創始者イジドール・イズーとその同伴者ルメートルの変節に対する批判(「経済的に乏しい」)、神秘主義シュルレアリスムの雑誌『メディウム』やポヴェールの雑誌『ビザール』批判(「ヴィシーの溶媒=霊媒メディウム)」、「いつもなからに奇抜な(ビザール)もの」)、デュヴィヴィエの映画『わが青春のマリアンヌ』への酷評や前衛映画監督ノーマン・マクラーレンによるレトリスト映画の剽窃への批判(「またも堕落した若者」、「聖書はセシル・B・デミルを落胆させぬ唯一のシナリオライターだ」)……日常生活から政治まで、ゴシップから新しい芸術活動までの幅広い領域をカバーする『ポトラッチ』の全体を味わうことができないのが残念である。
 『ポトラッチ』は、第12号からは、それまでの週1回の発行をやめて、月刊となったが、その理由は、レトリスト・インターナショナル自身(『ポトラッチ』第12号の記事「地震地震計」)に書かれているように、アルジェリア地震の犠牲者となったLIアルジェリア支部の同志を救援するためにLIの資金を使ったからである。代わりに、ページ数は全体的にやや増え、1954年12月に発行された第15号以降は毎号、週刊時のページ数の倍近い分量になり、1955年9月9日発行の第22号〈ヴァカンス特集号〉などは3倍以上の分量である。また、第22号からは、雑誌の肩書きが、それまでの「レトリスト・インターナショナル・フランス・グループ情報誌」から「フランス・グループ」を消して、「レトリスト・インターナショナル情報誌」となり、よりインターナショナルな雑誌であることを強調している。
 『ポトラッチ』のこれらの号の発行された1954年9月から55年9月までの1年間は、フランスがインドシナでの敗北を喫し、それに代わって今度は、アルジェリア人の独立を求める闘いに武力弾圧で応え始めた1年である。アルジェリアでは54年11月1日にFLNの一斉蜂起も開始された。同時に、ヨーロッパでは、フランスは西ドイツの主権の回復と再軍備を認め、ソ連との対話の道を閉ざして米国の主導する西側の体制に完全に組み込まれ始めた時代である。『ポトラッチ』には、こうした情勢に敏感に反応した記事が多く掲載されるが、アルジェリアの独立への彼らの連帯や、フランスとドイツとの欺隔的な和平協定への批判などにLIの政治意識の鋭さが現れている。また、相変わらず、シュルレアリストとイズーのレトリスト右派への攻撃も執拗に繰り返される。とりわけ、ランボー生誕百年祭糾弾行動でのシュルレアリストとLIの共同行動の失敗した試みの顛末を語る記事は、シュルレアリストとLIとの関係を知る上で興味深い。その他にも、第8回カンヌ映画祭フェリーニに対する批判記事、「教育的価値」と題されたドゥボールのラジオ・ドラマのシナリオ(そのスタイルと内容は、彼の映画第1作『サドのための叫び』へと引き継がれて行く)、LIの歴史的意義を説くドゥボールとヴォルマンの長い論文「なぜレトリスムか」などは、この時期のLIの活動と「思想」の深化をよく物語っている。」