ポトラッチ 第12号


この上なく頑丈な植民地

 われわれが得たニュースによれば、廃墟と化すと形容される震度8の地震か、災禍と形容される震度9の地震が起きた模様である。その場合、どれほど頑丈な建物も、部分的にあるいは完全に崩壊するのが見られる(……)。

(『レ・ジュルノー』紙、9月10日付)

 LIアルジェリア・グループの拠点、オルレアンヴィル*1は彼らのスローガンによると「世界一美しいレトリストの街」であり、このスローガンの正しさは、アルジェリア住民からなる進化した1フラクションがわれわれのプログラムに寄せた支持によって証明されていた。しかし、この街が、9月9日の地震と、その後の余震によって地図の上から消えてしまったのである。
 1300名の死者と何千名ものけが人のなかには、アルジェリア・グループの大部分の者も含まれており、われわれはその損失を悼む。現地に派遣されたムハンマド・ダフ*2は、彼らが散らばって住んでいたために、まだその正確な数字をわれわれに知らせてこれないでいる。

 『フランス・ニュース』は、かつてないほど興に乗り、この事件を短いフィルムにして騒ぎ立てたが、そのフィルムにはヨーロッパ人しか映っていなかった。映っているのはヨーロッパ人の棺と、ヨーロッパ人の十字架、ヨーロッパ人の司祭や神父だけで、アルジェリア全土がフランス人の住民と、カトリックの宗教と、地震がない時には高度な生活水準をそなえた地方であるということを見せようする道化芝居になってしまっていた。
 これとは逆に、9月19日付の『ル・モンド』紙は、軍隊が占領するオルレアンヴィルにとどまっている原住民のあいだで、得体の知れない「扇動者たち」の行動が広かっていることを報告していた。
 オルレアンヴィルの再建の問題は、実際、とても重大な諸問題を提起している。
 どことなくネオ・コルビュジエ風の兵舎型住居のブロックを建設することに対して、アルジェリアのレトリスト・グループと、それに影響を受けた分子がどれほど反対していようとも、5万人の住民が、どんなものでもいいから住む家を行政から提供されるのを待っている時に、われわれの行動の現段階で、特に悲惨なこの建築形式を真剣に批判することは差し控えるのが当然だ。
 だが、原住民の住居を街の外に再建しようとする公式の計画とは断固として闘うべきである。原住民の住んでいた敷地を整理した場所に、あとで、ヨーロッパ人専用の新都市が建てられてしまうからだ。
 アルジェリア・グループはこの差別をたえず告発し続け、仕組まれたゲットーに対して全員一致の反対を巻き起こすだろう。


「眼を閉じて、何でも買うの、プランタン*3で」

 今から90年前の今日、1864年9月28日、国際労働者協会*4が初めて会合を開いた。

〔中略〕


地震地震

 レトリスト・インターナショナルの資金はすべてアルジェリアの同志を救援するために使われたため、『ポトラッチ』は、今後、期間は定かでないが、月1回の発行になる。そのかわり、発行部数は今後も現在の数字を維持し、最新号以降に、主として外国から受け取った新しい住所にも送られる。オルレアンヴィルの予約購読者は、LIアルジェリア・グループの新しい本拠のムハンマド・ダフ宛てに申し込まれたい。これからは彼が生存者にこの情報誌を送り届ける役目を果たすことだろう。

〔中略〕


偉大なる夕べに

 1951年9月二25日、ジル・J・ヴォルマン*5はその映画『アンチコンセプト』*6を完成したが、その上映はいまだにフランス検閲局の手によって禁止されたままである。

>平和と自由

だが、おまえたちの平和でも、おまえたちの自由でもない。

内戦とプロレタリア独裁だ。

 
 雑誌『アンテルナシオナル・レトリスト』第5号は、1955年1月にパリで発行されるだろう。

『ポトラッチ』編集長 ムハンマド・ダフ

パリ5区、モンターニュ=ジュヌヴィエーヴ街32番地

*1:オルレアンヴィル アルジェリアのオラン地方の都市。1954年10月19日激しい地震に会い、1400名の死者を出した。独立後エル・アスナムと改名されたが、その後再び地震で壊滅し、再建されシュレフと3度改名された。

*2:ムハンマド・ダフ アルジェリア生まれのシチュアシオニスト。パリでドゥボールとともにLIの中心メンバーとして活動。1957年のSI結成以降はそのアルジェリア・セクションで活動するが59年にSIを脱退。

*3:プランタン 1865年設立のフランスの百貨店。フランス全土に数多くの店舗を持つ。

*4:国際労働者協会 1864年9月28日、ロンドンで結成された国際的な労働者の結社。第一インターナショナルのこと。1795年に設立されたフランス革命時のバブーフの《平等者の陰謀》、1847年から1852年にマルクスとエングルスがロンドンで設立した《共産主義者同盟》の理念を受け継ぎ、マルクスの指導のもとに、プルードン主義者、ブランキ主義者、イギリスの実証主義者が参加。1867年のローザンヌ大会からはバクーニン派のアナキストも参加するが、72年のラ・エー大会で彼らは除名される。政治弾圧のために、その後、マルクスのインターナショナルはニューヨークに拠点を移すが、1876年に解散。

*5:ジル・J・ヴォルマン(1929-95年)1950年にイジドール・イズーレトリスム運動に参加、「メガプヌミー」と名付けた音響詩、「シメマトクローヌ」と名付けた実験映画を製作。52年にドゥボールとともにレトリスト・インターナショナルを結成、その中心メンバーとして活動。56年のシチュアシオニスト・インターナショナル創設のためのアルバ会議にはLIの代表として参加するが、57年、SI結成直前に「長年のばかげた生活様式」を理由にLIを除名。本書第1巻191ページの訳注を参照。

*6:『アンチコンセプト』 ジル・ヴォルマンのレトリスト的手法の実験映画。叫び、独白、会話、生理的音響、雑音などのサウンド・トラックが、気球でできた球状スクリーンの上でリズミカルに明滅する光に呼応して流される。1952年2月11日、パリの人類博物館のシネマデータで初上映されたが、検閲に会い上映禁止にされた(本書第2巻256ページのドゥボールの文章「トーテムとタブー」を参照)。その後、『アンチコンセプト』は、52年のカンヌ映画祭でジャーナリストのための非公式の上映とレトリスト自身による上映会を例外として見ることはできなかったが、1981年になってようやくパリのポンピドー・センターで開催された『パリ・パリ』展のなかで上映されたが、依然として検閲が解かれたわけではない。