ポトラッチ 13

レトリスト・インターナショナル・フランス・グループ情報誌────月刊

1954年10月23日


ブルトンーネットワーク」と赤狩り*1


 ブルトン*2とその哀れな友人たちは、10月7日のわれわれの確認に答えて、レトリスト・インターナショナルを「モスクワの手先」呼ばわりした。これは、少なくとも、10月22日付の『フィガロ・リテレール』紙*3掲載のゴシップ記事でわれわれが知ったことである。というのも、シャルルヴィル*4に姿を現せられないほど臆病なこの同じ者たちは、われわれに反対するビラについてわれわれに知らせることもできないほど臆病だったからだ。
 10月3日の議論に出席した6名の個人(ベドゥアン*5、コルドファン*6、ハンタイ*7、ルグラン*8シュステル*9、トワイヤン*10という名の)が、われわれの実際の立場を知って、彼らに吹き込んだ嫌悪の感情などどうでもよいが、この年寄りの怒りには笑うしかない。そしてまた、この用心にも。
 たまたまわれわれがNKVD〔内務省人民警察〕*11のようなものに加わったことについては、アンドレ・ブルトンやジョセフ・マッカシー*12のようなブルジョワの取調官どもの前ですべてを否認することは不名誉なことだとわれわれは考えている。もっとも、確かに、選択を強いられるような事態になれば、われわれは当然、「モスクワ寄り」の者の側に──彼らの主人とその主人の印には反対して──与するだろう。

短信

 ブルトンと、ブルトンの若い仲間の者たちよ、立派な運動と立派な振る舞いをしたまえ。君たちがわれわれを侮辱しているそのビラを一部、われわれのところに送ってきたまえ。恐れることはない。君たちを殴ったりはしない。ただ、笑い飛ばしてやるだけだ。われわれは君たちのスタイルを愛している。


ヨーロッパの教育

 このほどパリで行った話し合いの結果10月20日レトリスト・インターナショナル・スイス・グループが結成された。

住所────スイス、ローザンヌ(ヴォー)、フロレアル

シャルル=エミール・メリナ

『コンパ』紙編集長への手紙

 拝啓
 貴紙の記事「シャルルヴィルの100年祭」(『コンバ』紙*13、10月21日付)によってわれわれがやり玉にあげられたので、ここにあなた方に正確な事実をお伝えする。
 シャルルヴィルのスキャンダルに関して、レトリストとシュルレアリストとの間に「いさかい」はなかった。ただ単に、シュルレアリスト全員が後になって脱落し、その何人かが、1つの文書─── もちろんマルクス主義的なものである─── にあらかじめ行っていた署名を取り消したのである。
 われわれは、文学のものであれ他のものであれ、この体制がとり行う式典で人を楽しませる役割を演じるつもりはない。シュルレアリストはまさに、この道をあまりにも開発しすぎた。われわれにはもう、無害な大騒ぎの魅力への好みはほとんどない。その点で、認めねばならないが、われわれは「ランボーを忘れた」のである。
 この記事の筆者が「自己陶酔に陥って宴会の座を白けさせる者」─── それはわれわれのことだ─── に対して勧めるように、「大声で叫び、絶叫し、大騒ぎすること」、そんなことには何の効果もないことをわれわれは知っている。
 祭りは続く、そしてわれわれはいつの日かそれをこの上なく真剣に中断させることに参加すると確信している。

1954年10月21日

 

レトリスト・インターナショナルのために

ドゥボール、ヴォルマン

〔中略〕


地震のあとで

 オルレアンヴィルでは援助物資の分配におけるスキャンダラスな不平等のせいで原住民の蜂起に発展しかけていたが、かねてからアルジェリア市民の権利をあえて守ってきていた副知事ドゥビア氏はフランスに召還され、街はいまCRS〔機動隊〕が維持している。
 レトリスト・インターナショナルアルジェリアクループは、その死者こそ当初得た情報よりも少なかったが、大半が各地に分散することになった。現地に残ったレトリストは、パリから来たメンバーに補強されて、非常に激しい騒乱を成功裏に引き起こしている。
 これとは逆に、アルジェリアの革命派を自称する党であるMTLD*14は、これまでもチュニジアとモロッコの人民の運動を見捨ててきたが、今回もきわめて有利な状況を利用するために何もしなかった。

 『ポトラッチ』誌本号は、ベルンシュタイン、ダフ、ドゥボール、ブイヨン、ヴェラ、ヴォルマンによって編集された。

〔後略〕

『ポトラッチ』編集長 ムハンマド・ダフ

パリ5区、モンターニュ・ジュヌヴィエーヴ街32番地

*1:ブルトン・ネットワーク」と赤狩り この記事は、1954年10月、アルチュール・ランボー生誕百年を記念してランボーの故郷シャルルヴィル駅前公園にランボーの胸像を建立しようとする計画に対して、レトリスト・インターナショナルシュルレアリストが共同で抗議行動を計画したが、結局シュルレアリスト日和見主義によって実現しなかったことを背景にしている。9月に、LIとシュルレアリストは、ランボーの胸像建立の推進者でランボー研究家のピエール・プチフィスが、かつてランボーあるいはその妹が筆写したポール・スカロンの有名な(『19世紀ラルース百科事典』に載るほどの)14行詩をランボーの最初の作品としてお墨付きを与えるほどのいい加減な「ランボー研究家」であったことを暴露するビラ『始まりは立派だ!』を共同で作成した。このビラには、ブルトンを始め、ベレ、ベドゥアン、ルグラン、ペナユーンなど戦後のシュルレアリストの錚々たるメンバー計18名とLI5名が共同署名した。しかし、このビラに先だってルグランとドゥボールが共同で書いた草稿にあった表現(「階級闘争に基礎を置く社会では、「公平無私な」文学批評などというものはありえないであろう。あらゆる批評は、支配階級のイデオロギーの防衛のために次々と変化してやまない美学的規律をなんらかの仕方で利用しているにすぎない」)をめぐって、シュルレアリストはその「マルクス主義的響き」を受け入れられないとして、共同行動の試みをご破算にするのである。この経緯をLIは『終わりは悪い』というビラにして、10月7日、先の共同署名のビラの裏に印刷して配布した。

*2:アンドレ・ブルトン(1896−1966年) フランスの作家。1924年、『シュルレアリスム第一宣言』を以て、アラゴン、エリュアール等と共にシュルレアリスム運動を創始する。一時共産党に接近したが、ほどなくスターリン主義の批判者となり、アラゴンやエリュアールと絶縁する。戦後はシュルレアリスムの秘教化に務め、レトリスト、シチュアシオニストからそれを批判された。本書第1巻11−23ページの「シュルレアリスムの苦い勝利」を参照。

*3:フィガロ・リテレール』紙 フランスの保守的新聞『フィガロ』紙(1826年、歌手のモーリス・アロワと小説家のエチエンヌ・アラゴによって週刊誌として発刊、現在はフランスで1,2を競う新聞の1つとなった)の書評誌。オカルティストのルイ・ポーヴェルが編集長。

*4:シャルルヴィル フランスとベルギーの国境地帯アルデンヌ県の県庁所在地。現シャルルヴィル−メジェール。ランボーの生まれた都市として有名。

*5:シャン=ルイ・ベドゥアン(1929-) フランスの詩人、シュルレアリスト。1947年ブルトンと出あいい、戦後期のシ−ルレアリズムの活動に参加する。詩、映画、ラジオ、シナリオ、「ピクト−ポエム」と題したデッサン、オブジェ等の作品のほか、ブルトンの評伝、シュルレアリスムウ歴史などを著している。代表作に『アンドレ・ブルトン』(セゲルス書店〈今日の詩人〉叢書、1950年)、『シュルレアリスムの20年──1939−1959年』 (61年/邦訳、三好郁朗訳、法政大学出版局)など。

*6:ジョルジュ・ゴルドファン(1933-)フランスのシュルレアリスト。1951年にパリのシュルレアリスト・グループに参加、69年の解散まで、その積極的な活動家として活動。映画に関心が深く、ロベール・ベナユーン、アド・キルーらとともに、『映画時代』(51年発刊)の編集につとめ、チェコスロヴァキア出身のシュルレアリスト映画作家Jindrich Heister と共同でシネマ・コラージュの作品も手がけている。

*7:シモン・ハンタイ(1922-) ハンガリー生まれのフランスの画家。1949年バリに居を構え、戦後期のシュルレアリスムに参加。50年代の半ばに、ポロックを「発見」し、アンフォルメルの画家マチューに近づくと共に、その王党派的思想によってブルトンから離反。

*8:ジェラール・ルグラン(1927-)フランスのシュルレアリスト。1950年代から60年代までシュルレアリストの最も積極的な活動家として「クピュール」、『ビエフ』などの雑誌の編集長を務める。ブルトンとの共著『魔術的芸術』(57年)で有名。

*9:ジャン・シュステル(1929-) パリ生まれのシュルレアリスト。1948年にシュルレアリスムに参加、戦後のシュルレアリストの最も積極的な活動家となる。『メディウム』(52-53年)、『シュルレアリスム・メーム』(56-59年)などのシュルレアリストの雑誌の編集長として活動する一方で、フランス共産党への反対派共産主義者を組織する活動に関わり、《革命的知識人国際サークル》(56年)、『7月14日』(58年)などの結成に尽力する。主著に論文集『アルシーヴ57−68(シュルレアリスムのための闘い)』(69年)。

*10:トワイヤン(1902-1980年) 本名をマリア・チェルミノヴァというチェコスロヴァキア出身のシュルレアリスト。1934年以降、画家として《チェコスロヴァキアシュルレアリスト・グループ》に所属して活動していたが、1947年にパリに亡命し、以後、パリを拠点に、「魔術的レアリスム」と称する独自の幻想的シュルレアリスム絵画を制作。

*11:NKVD内務省人民警察〕 30年代ソ連で、スターリンの粛清政策に多大な役割を果たした機関。本書235ページの訳注を参照。

*12:ジョセフ・マッカーシー(1908−57年) 米国の政治家。1947年から57年、米連邦上院議員時代、共和党右派に属し、トルーマン大統領の対中国政策に乗じてリベラル派攻撃と「赤狩り」に着手、マッカーシー旋風を巻き起こした。

*13:『コンバ』紙 ドイツのフランス占領下で出されたレジスタンスの新聞として1941年に発刊されたが、戦後も作家のカミュらを主幹として出し続けられた。

*14:MTLD《民主的自由の勝利のための運動》(Mouvement pour le Triomphe des Libertes Democratiques)。アルジェリアの革命的民族主義者メッサリ・ハジ(1898−)が率いた革命組織。メッサリが1927年にパリで結成した急進的民族主義団体《北アフリカの星》の流れを汲み、1937年の弾圧による《星》の解散によって結成された《アルジェリア進歩主義者党》(PPA)が1945年に再度禁止されたことによって、MTLDとして結成された。戦後から50年代半ばまで植民地下の制限的な地方選挙と大衆運動でアルジェリア民族主義の推進役を果たしたが、55年、マンデス=フランス内閣が新しくアルジェリア総督に任命したスーステルの弾圧によって、大量の逮捕者を出して解散させられた。54年11月のFLNの蜂起以降、MTLDは、MNA(アルジェリア民族運動)と名前を変えたが、FLNの武装闘争の拡大に連れて、FLNと敵対する「裏切り者」として反FLNテロを行うようになる。