アンテルナシオナル・レトリスト 2

訳者改題

 マニフェスト
 レトリストの扇動はいつでも時間をつぶすのに役立っている。革命思想はどこか他のところにあるのではない。われわれはちっぽけな騒動を文学の限られた限界を越えたところに追求するが、それはやむを得ないことである。われわれがさまざまなマニフェストを書くのは、当然のことながら、われわれ自身の存在を明らかにするためである。生意気であるということはすばらしいことである。だが、われわれの欲望ははかなく期待はずれのものだった。青春とは、よく言われるように、何事も手加減しない。毎週が一直線に過ぎ去ってゆく。われわれの出会いは偶然のものであり、かりそめの接触も壊れやすい言葉の壁のかげに散り散りになっでしまう。地球は何事もないかのように回っている。結局、人間の置かれた状態がわれわれには気に入らない。われわれはイズーをお払い箱にした。痕跡を残すことを彼は有用だと思っていたからだ。何事であれ何かを維持するものはすべて、警察の仕事に貢献してりる。というのも、われわれは、既に存在しているどのような考えもどのような行動も不十分であることを知っているからだ。現在の社会は、それゆえ、レトリストと密告屋──アンドレ・ブルトンはその最たるもの──のただ2つだけに分けられる。ニヒリストがいるのではなく、無能なやつらがいるだけだ。ほとんどすべてがわれわれには禁じられている。空虚を乗り越えるために、だれもが未成年者の誘拐と麻薬の使用を追求し、またより一般的には、われわれの行動すべてに殺到する。われわれの仲間の多くは窃盗で投獄され、決して働いてはならないという意識を持った人間に課せられた刑罰に抗して育っている。われわれは議論を拒否する。人間関係はその基礎として情熱を、さもなくば、恐怖を持たねばならない。

サラ・シュアフ、セルジュ・ベルナ、P・J・ベルレ、ジャン=I・ブロー

レイベ、ミドゥ・ダフ*1、ギー=エルネスト・ドゥボール

リンダ、フランソワーズ、ルジャール、ジャン=ミシェル・マンシオン*2

エリアーヌ・パペ、ジル・J・ヴォルマン


 フランス・シネ−クラブ連合のための略述
 見せ物(スペクタクル)はいつどこにでもある。美学の重要性はいまでも、酒の後の冗談の結構な話題になっている。われわれは映画館から外に出た。スキャンダルはあまりにも理にかなっている。わたしは決して説明することはないだろう。今は、君はわれわれの秘密を前にして孤独だ。新しい美の起源にあって、そしてやがては、アレ・デ・シーニュ*3の区切られた広い液状の荒れ地のなかで(すべての芸術は、凡庸で何1つ変化させない遊びである)美の顔は美自らがその生と呼んでいたあの幼年期を初めて脱しつつあった。映画の特性は、空虚な沈黙に覆われた大衆によるエピソードを終わらせることを可能にしていた。アラビアのすべての香、ヴィレンヌの夜明け。新しい美の起源に。だが、もはやそんなことが問題ではなくなるだろう。これらはみな真に興味あることではなかった。道に迷うことが大切である。

ギー=エルネスト・ドゥボール


 かりそめの自由
 もちろん夜君は夢見る君がいつでも眠ることができるならでも人生はあらゆる角度から襲いかかってくる酒場にはポリ公と権力のイヌがいる君の年頃の女の子たちは青春ではちきれんばかりだ

ジル・J・ヴォルマン


 チャップリン事件についての発行物抜粋
 劇場のフットライトは自称天才的パントマイム役者の白粉を溶かしてしまい、あとに見えるのはただ陰気で欲深い1人の老人の姿だけだ。

(『平底靴はおしまいだ』、52年10月29日、パリでのチャップリン歓迎式典でレトリスト・インターナショナルが配布したパンフレット)

 チャップリンに反対したビラに署名したレトリストだけが、過激で混乱したその内容に責任がある。

(ジャン・イジドール・イズー、『コンバ』紙、52年11月1日付)

 最も急を要する自由の行使とは、偶像(アイドル)の破壊であると、われわれは信じている。とりわけ偶像が自由を後楯にしている時はなおさらそれが必要だ……。どれほどの種類の憤慨があるかなど、われわれの関知するところではない。反動派に程度は存在しないのだ。われわれは反動派を、ショックを受けた匿名のあの大衆とやらに捨てやろう。

(「レトリスト・インターナショナルの立場」、『コンバ』紙、52年11月2日付)

 われわれは物書きと物書きの戦術にまったく情熱を感じていないため、この事件もほとんど忘れられている。そしてまた、ジャン=イジドール・イズーもわれわれにとっては何者でもなかったかのようだ……。

(ギー=エルネスト・ドゥボール、「外交販売員の死」『アンテルナシオナル・レトリスト』誌 第1号)

 「シャルロ」は、昨日の午後ジャン・ベイロ*4氏から授与された警視庁150年記念の金メダルを身につけるとともに、ボタンホールには白い飾りの付いたステッキをぶら下げていた。

(「チャーリー・チャップリン、パリを去る」『フランス・ソワール』紙、52年11月10日付)


 ゼネスト
 おれと他人とのあいだには何の関係もない。世界は1934年9月二24日に始まった。おれは18歳だった。矯正院の古き良き時代だった。そして最後にはサディスムが神に取って代わった。人間の美は破壊のなかにある。おれは、自分を夢見る主を愛する夢である。すべての行為は、自己を正当化するがゆえに卑劣である。おれは何も行わなかった。たえず探し求めていた虚無、それはおれたちの人生にほかならない。デカルトも庭師ほどの価値しかない。可能な運動はただ1つしかない。すなわち、おれ自身がペストになり、梅毒をまき散らすことだ。自殺、死刑、ドラッグ、アルコール中毒、狂気、何であれ我を忘れるために用いる手段はすベて良い。だがまた、制服を着たやつらを、15歳を過ぎてもまだ処女の少女を、健全だと言われている者とそいつらの牢獄とを廃絶せねばなるまい。おれたちがいつでも危険を冒す覚悟ができているのは、危険を冒し失うものを何も持っていないことを、今おれたちが知っているからだ。だれか1人の男か女を愛することも愛さないことも、まったく同じことなのである。

ジャン・ミシェル・マンシオン


 近い将来の行動様式のための探究の断片
 新しい世代はもはや偶然に対しては何も残さないだろう。

ジル・J・ヴォルマン

 いずれにせよ、だれもそこから生きては出られないだろう。

ジャン・ミシェル・マンシオン

 レトリスト・インターナショナルは芸術のやや遅れた死を欲している。

セルジュ・ベルナ

 形態の遊びを超えて、断固として、新しい美は状況のものとなるであろう。

ギー=エルネスト・ドゥボール

*1:ミドゥ・ダフ ムハンマド・ダフのこと。ムハンマド・ダフはアルジェリア生まれ、パリでドゥボールと共にLIの中心メンバーとして活動し、『ポトラッチ』の編集長を務める。1957年からはSIアルジェリア・セクションで活動するが、59年SIを脱退。理由は不明。

*2:ジャン=ミシェル・マンシオン フランスのレトリスト。LIのメンバー。1953年パリのサン・ジェルマン・デ・プレをたむろしているところが、エド・ファン・デル・エルスケンの写真「街でたむろする若者たち」に写っている。第1巻の訳者解題では、このエルスケンの写真に写っている2人の青年をレトリストを煙たがる不良と誤解していたが、実際は、まさに彼らこそがレトリストで、写真の左側の男がマンシオンである。

*3:アレ・デ・シーニュ エッフェル塔近くのセーヌ川に浮かぶ細長い人工島。

*4:ジャン・ベイロ(1897−1976年) 1951年から54年のパリ警察警視総監。