アンテルナシオナル・レトリスト 1

訳者改題


 平底靴はおしまいだ
 マック・セネット*1以下の映画監督(シネアスト)、マックス・ランデル*2以下の俳優、見捨てられた未婚の母とオートゥイユ*3のちっちゃな孤児の涙にまみれたスタヴィスキー*4、それはあなただ、チャップリンよ。あなたは人の情に訴える詐欺師、苦悩の恐喝者なのだ。
 映画(シネマトグラフ)にはそのデリー*5が必要だった。あなたはそれに自分の作品と慈善行為を与えたのだ。
 あなたは弱者で被抑圧者だと自ら言っていたので、あなたを攻撃することはすなわち弱者と被抑圧者を攻撃することになっていたが、あなたの籐製のステッキの背後に警官の棍棒をすでに感じとっていた者もいた。
 あなたは「もう一方の頬ともう一方の尻を差し出す者」だが、若くて美しいわれわれは、苦しみを与えられた時には〈革命〉で応える。
 平底靴のマックス・デュ・ヴージよ、われわれはあなたがその犠牲になるらしい「不条理な迫害」など信じていない。移民局はフランス語では広告代理店と言う。あなたがシェルブールで行ったたぐいの記者会見というものは、どのような駄作でも売り出してくれる。だから、『ライムライト』の成功は心配無用だ。
 潜在的ファシストよ、もう行って寝たまえ、金をしこたま儲けて、社交界入りするがいい(ちっちゃなエリザベス〔女王〕の前にひれ伏して大成功をおさめて)、そうして早く死にたまえ。そうすれば、われわれが第一級の葬式をしてやる。あなたの最後のフィルムが本当に最後であることを。劇場のフットライトは自称天才的パントマイム役者の白粉を溶かしてしまい、あとに見えるのはただ陰気で欲深い1人の老人の姿だけだ。ゴー・ホーム、ミスター・チャップリン

レトリスト・インターナショナル

セルジュ・ベルナ*6、ジャン・L・ブロー*7

ギー=エルネスト・ドウボール、ジル・J・ヴォルマン*8



 チャップリンを侮辱する者を非雄するレトリスト
 レトリスム運動のメンバーは新たな認識原理に基づいて再結集し、その原理の適用の細部に関しては各メンバーは独立を保持することになった。われわれはみな、チャップリンが「映画史における偉大な創造者」だったことを知っているが、彼のフランス到着を取り巻いた異様かつ「完全なヒステリー」には困惑している。それはまるで完全に精神に異常をきたした者の表現のようである。「芸術家」に対する「偶像崇拝的な」二流の価値より深い価値が今日の世界には欠けていることを、われわれは恥ずべきことだと感じている。チャップリンに反対したビラに署名したレトリストだけが、過激で混乱したその内容に責任がある。この世界ではこれまで何1つ決定的なものは存在しなかったので、シャルロも賞賛とともに、この非決定のとばっちりを受けるのである。
 われわれレトリストは、わが同志の撒いたビラには最初から反対であったが、彼らの若さからくる辛辣さが取らしめた不器用な表現を目にして微笑みを禁じえない。
 シャルロが泥を受けねばならなかったとしても、それを投げつけたのはわれわれではない。われわれとは別の、金で雇われた(たとえば検事総長から)レトリストがいるのだ。
 したがって、われわれはわれわれの友人が撒いたビラには関与しない。われわれは全貧民がチャップリンに捧げる賞賛の声に賛同する。
 別のレトリストのグループが今度は、彼ら自身の雑誌か新聞紙上でこの件について説明を行うだろう。
 だが、シャルロと彼ら全員との間にはほとんど違いはないのである。

ジャン=イジドール・イズー*9

モーリス・ルメートル*10、ガブリエル・ボムラン*11

1952年11月1日付『コンバ』紙*12に発表


 外交販売員の死
 『ライムライト』を販売するためにヨーロッパで行った講演旅行のさなか、チャップリン氏はオテル・リッツでわれわれから罵られ、商売人・警察官として断罪された。
 この男の年老いた姿、われわれのスクリーンに時代遅れのその面をさらそうとする露骨なまでの執着、この男のなかに自らの姿を認めていたこの貧しい世界の貧しい愛情、それだけでわたしには今回の妨害行動を行うに十分な理由だと思える。
 しかしながら、ジャン=イジドール・イズーは、チャップリンの賛美者の反動に恐れをなして──レトリスト以外のフランス人は全員チャップリンの賛美者である──、受け入れがたい言葉を使ってわれわれへの非難の声明を発表した。
 われわれはその時、外国にいた。帰国した際に彼がわれわれに行った説明と、問題を矯小化しようとして彼が行った不器用な努力は、われわれにはとうてい受け入れられないものと思えたので、その後すぐに、われわれは彼に、今後どのような共同行動も不可能であると通告せねばならなかった。
 われわれは物書きと物書きの戦術にまったく情熱を感じていないため、この事件もほとんど忘れられている。そしてまた、ジャン=イジドール・イズーもわれわれにとっては何者でもなかったかのようであり、彼の嘘もその否認もまったく存在しなかったかのようである。

ギー=エルネスト・ドゥボール



 レトリスト・インターナショナルの立場
 (1888年7月29日法第13条の条項に違反するとして、1952年11月2日付『コンバ』紙に掲載を拒否されたテクスト)
 チャップリンがリッツで開いた記者会見にわれわれが介入し、その会見の張本人への全員一致の崇拝に叛乱を起こした『平底靴はおしまいだ』という題のビラの一部が新聞に掲載された。それに引き続き、ジャン=イジドール・イズーと、その道を極めて年老いた2人の追従者が、『コンバ』紙に、今この状況でのわれわれの行動を非難する覚え書を発表した。
 かつてはわれわれもチャップリンの作品の重要性を評価したことがある。だが、今日、新しいものは別のところにあり、「もう喜ばせてくれない真理は嘘になったのだ」(イズー)ということを知っている。
 最も急を要する自由の行使とは、偶像(アイドル)の破壊であると、われわれは信じている。とりわけ偶像が自由を後楯にしている時はなおさらそれが必要だ……。
 われわれのビラの挑発的な調子は、奴隷根性で満場一致の熱狂への反発だった。この点に関して何人かのレトリスト──イズー自身も含め──が距離を取ることになったが、その距離とは、過激主義者ともはやそうではない者とのあいだ、われわれと「彼らの若さからくる辛辣さ」を断念してすでに打ち立てられた栄光と一緒に「微笑」む者とのあいだ、20歳以上の者と30歳以下の者とのあいだに、常に繰り返される無理解を表しているにすぎない。
 われわれだけが署名したテクストの責任を引き受けられるのは、われわれだけだ。そのわれわれは、誰も非難する必要はない。
 どれほどの種類の憤慨があるかなど、われわれの関知するところではない。反動派に程度は存在しないのだ。われわれは反動派を、ショックを受けた匿名のあの大衆とやらに捨てやろう。

セルジュ・ベルナ、ジャン=L・ブロー

ギー=エルネスト・ドゥボール、ジル・J・ヴォルマン



 ジャン=イジドール・イズーヘの公開状
 ブリュッセル、1952年11月3日
 われわれの示威行動は、愚かなまでにプラグマティックなあなたの態度を混乱させただけである。
 あなたの友人として、あなたがおっしゃるように新たな認識原理に基づいて言うならば、わたしは、あなたを特徴づけているけちくささと幼稚なまでの卑怯さを嘆いています。
 あなたの社会的人格の価値の無さは〈作品〉によって埋め合わされていましたが、秘儀参入的な神秘思想へのあなたの密かな道と、あなたの弟子の何人かの心底からの愚かさは、わたしに吐き気を催させるおぞましい臭いを醸し出しています。
 あなたがまだ、自分の内にメッセージをお持ちなら、わたしはそれを聞くことができるのでしょうが。というのも、あなたの存在は必要ではないからです……。
 ですから、わたしをあなたの友人の数から省いて下さって結構です。

敬具

ジャン=L・ブロー

 追伸──『コンバ』紙への手紙で、あなたは「最初からわたしの行動には反対」していたと言っています。では、ビラを撒いて1時間もたたないうちに、あなたがおっしゃった祝福の言葉は何を意味するのですか?



 イズーは一線を越えた
 「青春が過ぎ去ら」ねばならないのだとすれば、できるだけ遅く過ぎ去ってほしい。
 親と同じ顔になると考えることは、親の知恵を疑うに十分なほど耐え難い考えだ。

(ジャン=イジドール・イズー、『イオン』誌序文、1952年4月)


 彼らの若さからくる辛辣さが取らしめた不器用な表現を目にして微笑みを禁じえない。

(ジャン=イジドール・イズー、『コンバ』紙、52年11月1日付)


 詩は常に、〈歴史〉が詩の事柄にかかわり合い、詩に価値の秩序を押しつけることを禁じてきた。

イジドール・イズー、『フォンテーヌ』誌、1947年10月号)


 シャルロが泥を受けねばならなかったとしても、それを投げつけたのはわれわれではない。われわれとは別の、金で雇われた(たとえば検事総長から)レトリストがいるのだ。

(ジャン=イジドール・イズー、『コンバ』紙、52年11月1日付)


 若者たちよ、ジッドのような輩を打倒せよ。彼らがアラゴンコクトー、ピエール・セゲルス、クローデルという名であったとしても。

イジドール・イズー、『レトリスト独裁』誌、1946年)


 したがって、われわれはわれわれの友人が撒いたビラには関与しない。われわれは全貧民がチャップリンに捧げる賞賛の声に賛同する。

(ジャン=イジドール・イズー、『コンバ』紙、52年11月1日付)

***

 「身体的青春に外れた年齢になって若々しく生きるということと、その逆説的な状況で青春の状態を保ち続けることとは別のことである。」

老齢化研究センター会長 ルネ・ヴィボー博士

*1:マック・セネット(1884または80−1960年) 合衆国ハリウッド無声映画時代のコメディ映画監督・映画製作者。チャップリンバスター・キートンを使って、小刻みに震えるリズムで動き回るハリウッド・コメディ独特のスタイルを確立した。また、映画監督としてよりも映画製作者として力量を発揮し、1912年にキーストン映画会社を設立、チーム演出家によるシリーズ物のコメディ映画の製作や、チャップリンキートンハロルド・ロイドらのプロモーションにも努めた。代表作に『キーストン・コップス』(1914年)、『海水浴の女たち』など。

*2:マックス・ランデル(1883−1925年) フランスのコメディ映画俳優・映画監督。300本以上の映画に出演し、山高帽と柔軟な身のこなしのコメディの登場人物の典型を作り出した。チャップリンが自らの師と仰ぎ、そのスタイルを模倣したことで知られる。代表作に『タンゴの先生マックス』、『闘牛士マックス』(1908−14年)など。

*3:オートゥイユ パリ近郊、ブローニュの森セーヌ川のあいだにある閑静な街。古来多くの文人に愛されたことで知られるが、ここには規律の厳しいことで有名なカトリックの孤児院があった。

*4:スタヴィスキー(1886−1943年) フランスの事業家・詐欺師。ロシアに生まれ、1900年以来パリに住み、31年バイヨンヌ市立銀行を設立。数千万フランを横領し、無価値証券を労働者に売りつけた。1933年、詐欺が発覚するや逃亡してシャモニーで銃弾を受けた死体で発見される。極右同盟が、事件の張本人をわざと逃亡させたとして政府を非難し、時の内閣が倒れるという政治スキャンダルにまで発展した。

*5:デリー フランスの大衆作家。マリー・プティジャン・ド・ラ・ロジエール(1875−1947年)とその弟フレデリック(1876−1949年)との偽名。姉弟は共同でセンチメンタルな小説を量産し大成功を収めた。代表作に『2つの魂のあいだで』(1915年)、『沈黙の師』(18年)、『ミチ』(21年)など。

*6:セルジュ・ベルナ(1925−)フランスのレトリスト。レトリスト・インターナショナル(LI)のメンバー。1950年、ノートルダム寺院の復活祭ミサヘのレトリストのスキャンダルでは、ドミニコ会修道僧の格好をしたミシェル・ムールが読み上げた涜神的なマニフェストの原稿を書き、52年のカンヌ映画祭粉砕行動やチャップリンのパリ訪問糾弾行動にも参加するなど、LIの最左派として活動したが、1954年、「知的厳密さの欠如」からLIを除名。

*7:ジャン・ルイ・プロー フランスのレトリスト。LIのメンバー。ジル・ヴォルマンらとともに、特に音響詩を実験し、1950年10月の「レトリストの4人のリサイタル」にも参加。LIのメンバーとして、その数々の行動に加わったが、54年ごろ、「軍事至上主義的逸脱」を理由にLIを除名。その後は、批評家としていくつかの著作を書いている。代表作に68年の世界的革命運動の考察『走れ、同志よ、古い世界は君の後ろだ』(68年)、アントナン・アルトーの評伝『アントナン・アルトー』(71年)、『ゲリラの武器』(72年)など。

*8:ジル・J・ヴォルマン(1929−) フランスのレトリスト。LIのメンバー。最初、「共産主義者青年同盟(ジュネス・コミュニスト)」に加わり『コンバ』紙の記者などをしていたが、1950年、イジドール・イズーと出会い、レトリスム運動に参加。「メガプヌミー」と名付けた音響詩や、「シネマトクローヌ」と名付けた実験映画を製作しつつレトリストの示威行動を積極的に担う。1951年に作ったシネマトクローヌ『アンチコンセプト』は、翌年パリのシネクラブ「アヴァン=ギャルド52」でスキャンダルを巻き起こし、上映禁止処分を受けた。1952年には、イズーらの神秘主義化を批判して、ドゥボールらとレトリスト・インターナショナル(IL)を設立。その後は、ILの中心的活動家として数々の行動に参加するとともに、既存の文字や文章を切り貼りした「転用された物語(レシ・デトゥルネ)」『わたしはきれいに書く』(1956年)などの作品を作る。1956年のシチュアシオニスト・インターナショナル創設に向けたアルバ会議ではILの代表として参加したが、翌年、「長年のばかげた生活様式」を理由にILを除名される。

*9:ジャン=イジドール・イズー こちらを参照

*10:モーリス・ルメートル こちらを参照

*11:ガブリエル・ポムラン(1926−72年) パリ生まれのレトリスト。若くからロートレアモンに熱狂するシュルレアリスム・シンパだったが、19歳の時、ユダヤ人難民の公営食堂でイズーと出会い、レトリスト最初のメンバーとなる。自ら、「レトリストの聖歌隊長」、「サン・ジェルマン・デ・プレの聖者」と名乗り、レトリストのさまざまな行動や示威集会に参加した。52年のチャップリン事件の時にはドゥボールらのチャップリン糾弾行動には参加せずイズーの側についたが、その後、阿片常用者となり、56年にイズーによってレトリストの運動から追放され、1972年に自殺した。レトリストの時代に出版した『サン・ゲットー・デ・プレ――魔法の文字』(1950年)はレトリスム作品の中でも秀逸で、メタグラフィーを自由に展開し、テクスト全体が表意文字判じ絵ヘブライ文字楔形文字・楽譜などの混ざった記号で書かれている。その他の著作に、LSDについて書いた『ル・D・マン』(66年)がある。

*12:『コンバ』紙 第二次大戦中占領下フランスで創刊されたレジスタンスの新聞。戦後も発行され続けた。